2 こうして人類の命運をかけた一日は始まりを告げた
灰月亮は、困惑し、そして葛藤していた。
彼はゲームが趣味の、ごく普通の男子高校生である。特に夢らしい夢もなく、なんとなく平穏な日常を送って、友人と冗談を言って笑いあって、それで日々に何の不満も抱いていない十五歳の少年だ。今日もいつもと変わらない日常を予感しながら彼は学校に向かっているところだった。
しかし、その彼の予感は外れつつあった。
「あの……困ります。離してください」
「一日だけ、今日一日だけでいいから、付き合ってくれ!」
亮の目の前には、不良にからまれる美少女の姿があった。制服からすると、亮と同じ学校に通う高校生らしい。彼女は壁際に追い詰められ、腕をつかまれ、逃げることができないようだった。
二次元ならよくある……むしろ、使い古されてもはや駆逐されてしまったような陳腐なワンシーンだ。ここで主人公が颯爽と現れ、不良の手から美少女を救い出し、それがフラグとなって甘い恋のルートが展開したりするのだろう。
だが、実際に目の前で見知らぬ女の子がからまれているからといって、不良の前に立ちはだかるのは容易なことではなかった。
彼女が困っているのは明らかだ。助けたい、と思う。それでも、怖いと感じるのも当然のことだった。
「……離せよ、嫌がってるじゃないか」
思い切って声をかけることができたのは、少女にからむ『不良』が女だったからだ。亮と同じくらいの背丈で、女性にしては背が高い方だろうが、体型は痩せ形だ。力では男の亮の方が勝るだろうという勝算があったからこそ、勇気を出すことができた。
女は、突然の第三者の出現に驚いた様子だった。女の意識が亮の方に集中する。
からまれていた少女は、その隙を逃さなかった。つかまれていた腕を振りほどき、その場から駆け出した。
「あ、待って」
亮も慌てて少女を追う。
少女は先ほどの場所から遠ざかると、女が追ってこないのを確認して、足を止めた。乱れた呼吸を整えているうち、亮が追いついてきた。
「ねえ、大丈夫?」
「……はい。ありがとうございます」
心配して声をかける亮に、少女は目を合わせずに答えると、再び歩き始めた。亮も肩を並べて歩く。少女のまっすぐに切りそろえられた髪が、朝の太陽に照らされて、きらきらと光り輝いていた。
「おれ、灰月亮。君は?」
「宝樹 迷子」
笑顔で話しかける亮に対して、迷子の返答はそっけない。
『宝樹迷子』という名前に、亮は何かひっかかるものを感じた。心の中に、正体の知れぬ靄が広がる。どこかで聞いたことがあるような気がしたのだが、記憶を手繰ってみても、なかなか思い出せない。
「ねぇ、君――」
亮が言葉を続けようとしたところで、迷子が足を止めた。
「あの……」
迷子が何かを言いかけて、言いよどむ。何を言われるのだろうと思い、亮は心臓が高鳴るのを感じた。
ゲームの世界なら、危ない所を助けられたことをきっかけに主人公とヒロインの親密度が上がっていくものだ。「危ない所をありがとうございました。良かったらお礼に、放課後にお茶でもしませんか」ぐらいのことは言ってくれるかもしれない。亮の脳内で一瞬にして妄想が広がった。
だが、現実はそう甘くなかった。
迷子はうつむいたまま、言い放った。
「あの、ついて来ないでください」
その冷たい言葉だけを残して、彼女はまた歩き出した。
亮は呆然とその後姿を見送るしかない。
「ついてくるなって言われても……今から学校行かなきゃいけないんだから、同じ道になるだろ……」
言い訳のように独り言をつぶやいて、亮は歩き出した。迷子とは少し距離があいた。
「お前、宝樹迷子の知り合いか?」
亮に並んで歩きながら声をかけてきたのは、いつの間に追いついてきたのか、先ほど少女にからんでいた不良女だ。
「……今、ばっきばきにフラグを折られたところなんだけど?」
「フラグ……?」
女は困惑した表情を見せたが、亮には説明する義理もないので、黙っていた。
先ほどは気づかなかったが、改めて見てみると、この女もなかなかに整った顔立ちをしていた。年齢は二十代前半といったところだろうか。長い髪の毛を一つに結んでいる。上はジャケット、下はタイトスカートとOL風の服装ではあったが、全体的に荒んだ雰囲気が漂っていて、何者なのか亮には測りかねた。
「まあ、いい。同じ学校なんだろ? お前、名前は?」
女の偉そうな物言いに、亮はムッとした。
「人の名前を聞くときは、まず自分からだろ?」
「私の名前は、ファタリだ」
「不渡……さん?」
亮の耳にはそう聞こえた。不審者に敬称をつけるべきか迷ったが、年上のようなので、一応「さん」付けで呼んでみた。
女が苗字しか名乗らなかったと思ったので、亮も名字だけ名乗ることにした。
「……俺は、灰月」
「そうか。灰月、私に協力してくれ。今日、人類は滅亡することになっているんだ。その危機を、何としてでも回避したい」
――ああ、やっぱり頭がおかしい人か。
亮は名前を教えたことを後悔した。
「そうですか、それは大変ですね、がんばってください、それじゃ」
矢継ぎ早にまくしたて、その場を立ち去ろうとするが、しかし、ファタリは亮の持つカバンをギュッと握りしめて離さない。
「待て待て待て! お前、信じていないだろう!」
「大皿のから揚げにレモンをかけるなっていうのと、誇大妄想の変態とは関わり合いになるなっていうのがうちの家訓なんです! 失礼します!」
「本当なんだってば! 頼むから信じてくれ!」
「手を離さないと、警察呼びますよ」
ファタリを引き離そうと、カバンを力いっぱいに引っ張る。しかし、ファタリも負けじと食い下がる。
「このままだと、お前も宝樹迷子に殺されるんだぞ!」
ファタリの必死の叫びに、カバンを引っ張っていた亮の力がゆるんだ。
「宝樹迷子……そうか、思い出したぞ」
『宝樹迷子って知ってる?』
亮の脳裏で、誰かのささやく声がこだまする。
宝樹迷子。
その名を聞いた時に、聞き覚えがあるような気がした。なるほどそれは、学校でひそかに広まる噂話で聞いた名だったのだ。
だけど……。
『宝樹迷子ってひと。
――なんかね、彼女……人を殺しちゃったんだって』
その噂話の内容は、不穏なものだった。
亮は視線を、前を行く迷子に向けた。
ファタリに引き止められているうちに迷子との距離があき、その後姿はかなり小さくなっている。
迷子の可憐な顔立ちと細い手足は、人を殺めるというワードとは全く不釣り合いに思えた。
「……宝樹迷子に殺されるって、どういう意味だよ?」
亮がファタリに尋ねたその時、電子音が響いた。
ファタリが慌ててジャケットのポケットから板状の電子機器を取り出す。それはポケットベルと呼ばれるものだったが、亮には何かわからなかった。ファタリは画面に表示された文字に目を通すと、明らかに狼狽して言った。
「まずいぞ……。宝樹迷子が、事故に巻き込まれる」
「は?」
亮が問い返す間もなく、駆け出すファタリ。虚をつかれた亮が動けずにいると、じれったそうにこちらを振り返って叫ぶ。
「何をしているんだ、来い!」
「なんなんだよ、もう……」
わけのわからないまま、その迫力に気圧されて亮は走り出した。