第1話
先日読んだ本にこんなことが書かれていた。
『成功とは、ポジティブに物事を考える人間が掴むものである』
と。
俺は読んだ瞬間、この本を買ったことに後悔した。
なんだこれは! 人間はポジティブじゃなきゃダメだってことか? ふざけるな!
世間では、前向きに物事を考えようとしきりに言っている自己啓発本が増えている。それに拍車をかけて自分の性格をポジティブにしようと動く者もいる。
やっぱりポジティブにならなければいけないのか、俺は空っぽの脳みそを使い、頭を両手で挟み込んだ。
白いシャツに背広という服装で現れた男性は、黒板の前まで歩いて行った。
日直の生徒が号令をかけ、お辞儀をする。授業開始の挨拶を終えると、科目担当の教師は、声を張り上げて教室中に響く声で言った。
「三年五組のみんな、進級おめでとう。君たちもようやく三年生になったわけだが」
語りだしは進路を控えた者によく浴びせられる言葉で幕を開けた。
今年は学校の顔となるとともに、受験生と呼ばれるようになる。しっかり勉強して大学に進むもよし、興味のある分野を学ぶために専門学校に行くもよし、就職するもよし。人生の分岐点にきた。簡単に翻訳するとこんな感じだった。
四十代の男性教諭は、白髪が目立ってきた頭をかきながら話を進める。
俺の通う高校は、県内偏差値でもいたって普通のレベルだ。年に一人国公立大学に合格していく。残りは私立大学、専門学校、就職と選択肢は幅広い。俺がここを選んだ理由もそれだ。
友達ができなかったらどうしよう、怖い同級生がいたら嫌だな、などと不安をため込んだまま入学式当日を迎え、その翌日、つまり今日の初授業の日がやってきた。
校庭に三本植えられている桜の木には、桃色の花をつけた顔がいくつも見られる。教室の窓を開けると、桜の匂いが風に乗ってやってくる。俺だけかもしれないが、桜の匂いには、人間の気持ちを落ち着かせる効果があるように思う。詳しくは知らないのだが、どの花よりも春を感じる。季節の顔というだけあって、春になると、俺は教室の窓辺に寄って匂いをかぐ。
出席番号順で席が決まるこの学校で、俺は小さい番号と縁がない。名前が矢島康平だから、必然的に順番として後ろのほうになる。座っているのは、廊下側の後ろから二番目。教室の中央で圧迫感を感じることがないことに安堵した。ここからだと教室の様子が見える。授業中でもクラスの雰囲気がわかるので助かる。
現在は授業中ということもあって、クラスメイトの視線は、黒板の前に立つ男性教諭に注がれている。一人二人は机の下でスマホを弄んでいる。
俺は視線と注意を男性教諭に戻す。
オープニングトークが終わり、そこから授業のガイダンスに入った。
俺はこの高校で二年間過ごしている。時間割表を見る限り、先生も去年とほとんど変化がない。大体の授業の進め方もわかっている。
今はなしている男性教諭も俺たちを教えるのは今年で三年目だ。集中しすぎない程度に話を聞いていた。
「今年度が終われば社会人になるやつもいることだから、一般常識だけはおさえておくように。でないと職場でわかりませんなんて、もう通じないからな」
マジですか? と男子生徒の叫びが聞こえた。それにつられて笑い声が起こる。クラスが和んでいく。
だが、その和みを一瞬にして破る、言葉が教諭の口から放たれた。
「そこで、今年は授業内容を少々変更したいと考えている」
俺は、その言葉に反応して、姿勢を正した。
いったい何をやるんだ? できるだけ目立たず、簡単なことがいいな。
後ろ向きの考えが頭の中に浮かぶ。
男性教諭は笑みを作って語った。
「社会人になる前にはいろいろ試験があるわけだが、その中でも先生が注目しているのは面接だ。事前準備はもちろんしていくが、思いがけない質問が飛んでくることもある。本番は緊張して普通は失敗することが多い。
その前に、自分のことをどう企業にアピールするかが問題だ。そこで、授業の最初の時間を使って、自己アピールをやってもらう」
クラスの各地から「ええー」という反対の叫び声が起こる。当然だろう。めんどくさい。
だが、俺とそれ以外の理由は違う。
俺も目を剥いた。教諭をにらみつけ、威嚇する。
何考えてるんだ? 自己アピールだって? そんなこと、俺ができるわけないじゃないか。人前でしゃべることもまともにできないんだぞ。それにアピールするところなんてない。俺はネガティブの塊だから、きっとクラスの雰囲気はどん底に沈むはずだ。想像するだけで寒気がする。やりたくない。
さっきよりも教諭の顔が崩れている。こういう事態になることを予想していたのか、してやったりの顔だ。
「先生、やめましょうよー」
男子生徒の一人が反撃の狼煙を上げた。
「とりあえずやってみようと思わんのか? もっと気楽に、楽しく考えよう。楽しんでやれば大丈夫。そう思わないか?」
思いません。誰も思わないよ、そんなこと。そんなことして何が変わるんだよ。俺みたいなネガティブなやつには地獄だよ。
そう思って、ちらっと隣の席を見やる。
長い黒髪をポニーテールにしている。肌は透き通っていて、ワンポイントの眼鏡が大きい目元とよくマッチしている。桃色の唇はぷるっと潤っていて弾力がありそうだ。
この学校で唯一の友人、日恵野彩陽は、喧騒にもまったく動じず、教諭の顔ただ一点を見ていた。
彩陽との出会いは高校一年の今頃だった。この高校に進学した俺は不安が的中して、友人ができなかった。周りはグループ単位で行動しているので、自分から声もかけることもできない俺にとって、友人作りは難航を極め、座礁した。
そんな時に、救いの神として現われたのが彩陽だった。彼女と俺には一つの共通点がある。それは誕生日が一緒なことだ。このことは、授業中に誕生日が同じ月の人が集まるレクリエーションで知った。
周囲の気分の高さについていけず、見えない壁を張っていた俺に彩陽は訊いてきた。
「誕生日、同じ月なんですね。何日ですか?」
俺は頬を熱くしながら、視線を下げて答えた。
「十四日です」
すると彩陽は、上品に驚いた。
「私もです」
これには俺も驚いた。自分と同じ誕生日の人を見たことがなかったからだ。だがらどうだと言われれば、別に大したことではないのだが、彩陽が喜んでいることに俺は動揺していた。
なんでこの人こんなに喜んでいるんだ? 俺みたいな根暗なやつと誕生日が一緒で嬉しいのか? こんなに可愛い人が俺と共通点があったことだけで喜ぶはずがない。わかった。これはゲームだ。俺みたいなやつと仲良くなれたらジュース一本とか言うものだろう。きっとそうだ。
それからは疑いの目で彩陽を見ていた。誤解だとわかったのは、彩陽が続けた言葉でわかった。
「私、友達いなくて。でも自分と同じ誕生日の人なら仲良くなれそうな気がする。よろしくね、矢島君」
それから俺は彩陽と学校でよくしゃべるようになっていた。前日のテレビ番組の話や読んだ本の感想、授業内容についても話し合った。他愛もない会話が学校生活を少しは楽しませる要因になっていた。