表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朧(おぼろ)  作者: 香_t
5/5

終章

「私には、もう明日が来ないような気がしていました。


 今まで色々と昔のことばかりが思い出されてきました。


 母のこと。

 顔も覚えていない父のこと。

 私が生まれたという水月村のこと。

 朧げな記憶を手探りで、それでも何かを探ろうとして、今まで生きてきましたが、それも今日で終わりのような気がします。


 けれど、私の記憶は模糊たるものですが、そのことは、私の心を不安にさせるものではありません。


 母が呟いていた、


『朧が、来る』


 それが、どういった意味なのか、私はまだはっきりと分かりません。

 けれど、私の記憶の深層の何処かで、それを理解しているような気がしました。


 何故、水月村の者たちが、村を捨てたのか。

 それを訊いてみたい気がします。


 彼は、どう答えてくれるでしょう。


『私は、死んでもいいと思っているのですよ』


 そう彼が呟くのを、私はじっと聞いていました。


『私がそう望まなくても、そうなることは不可避です』


 私は、急に、堪え難い、申し訳のない思いに囚われ、年甲斐もなく、大粒の涙を落としてしまいました。

 テーブルの上に落ちたひと雫が、みるみる内に大きく広がってゆきました。


 …こんな事になるのなら、結婚でも何でもしておけばよかった。

 自分のためではなく…、

 彼のために。


 こんなにも、私は必要とされていたのに、私はなんということをしてしまったのか。


 しかし、この申し訳のない気持ちを抱ける自分は、まだ幸せなのかもしれない。

 これから、外の世界で生まれる水月村の子孫たちは、記憶が遠ざかれば遠ざかる程、この気持ちも薄らいでしまうだろう。


 それを思うと、更に私は切ない気持ちにさせられて、溢れ出る涙を止められませんでした。


『すみません…すみません…』


 謝罪し続ける私を前に、彼は首を静かに横に振るのでした。


『あなたがそんな風に謝られることはないのですよ。そうですか、あなたは、まだ覚えている方だったのですね。それ程、よく分かる方は、もう珍しくなりました』

『何故、もっと早くに来てくれなかったんですか』

『難しかったのです。だから、私はこの体を手に入れました。人の世とは面白いものですね。情報というものが、この体のお陰で随分入手しやすくなりました。だから、今まで生きてくることができたのです。けれど、それももう、そう長くは続かないでしょう』

『どうして母は村を出たのでしょうか。出なければ、私はもっとあなたの役にたてた筈…』


 彼は、ベランダへと通じる窓の方に顔を向けた。

 その眼差しは、全ての空間と存在を通り抜け、遠く、懐かしい故郷の地を見ているようだった。


『きっと押し流されてしまったのではないでしょうか。外の世界の奔流に、押し流されてしまったのです。だから、あなたのように感じられる方は、もう稀なのです』

『私は幸運にも、この十数年か、あなたを感じことができましたから…。それでも、この世界で生きることはどうしようもなく息苦しくて、私は自分が、不必要なモノなのだと、自分自身を消してしまいかねない程でした』

『……』

『それに比べれば、例え、子供を残せなかったとしても、私は遥かに幸せです。私は、あなたに必要とされているのだと知って逝けるだけで、十分、今まで生きてきた甲斐がありました』


 彼は押し黙り、私は彼を待ちました。

 長い沈黙も苦にはなりませんでした。


 私は、間のなく訪れるであろう事の予感に、悦びに震えていたのです。

 私は、自分が苦しみを感じながらも生きてきたことの理由を、やっと理解できました。

 私は、私を絶対なモノとして必要としてくれる、『彼』のためにだけ、生きてきたのです。


 私の体が、内からの歓喜の思いにこんなにも震えるのが、その証しではないでしょうか。


 彼は、窓から視線を戻し、私を静かに見つめ返しました。

 驚く程に若々しいと思っていた彼の顔に、私は今までは見えなかった、長い歳月を感じました。

 彼の薄い唇がゆっくりと動き、言葉を紡ぐのですが、それは空洞の人形の体に音が反響しているような、そんな奇妙な響きをもって、私の耳に届きました。


『私は、もういつ失われてもよいと思っているのですよ。私は水月村の者がいなくては生きてはいけない身です』


 それが、この事件の真相です。


『そんなことを言わないで下さい。あなたに必要とされることに生きる意味を感じる私たちなのに、あなたがいなくなってしまったら、何を頼りに生きていけばいいんですか』

『ここでは、君は生き続けることはできませんか? 普通に生活をして、今まで通り働いて』

『……』

『あと少しのことならば、待つことができます』

『…できなくはないと思いますが…それは、私の本当の望みではありません』


 彼の黒い瞳が、機械のようにゆっくりと瞬きをしました。


 そうして、彼の口から深く長い息が溢れ落ちました。


 ……。


『もう、数える程しか、水月村の者は残っていません。なのに、それでも、喰わずにはいられないこの身を、私は浅ましく感じるのですよ。

 食べれば食べるほど、

 私は自身の滅びへと、突き進んでいるのです』


 彼はそう呟き、胸の空洞に響く長い吐息を零しました。」





 古びたアパートの一室。

 首はうっとりと、その瞳を虚空に投げかけていた。

 そう…、

 十五年前の、母のように。



 朧なるモノ、

 それは………。


(了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ