終章
「私には、もう明日が来ないような気がしていました。
今まで色々と昔のことばかりが思い出されてきました。
母のこと。
顔も覚えていない父のこと。
私が生まれたという水月村のこと。
朧げな記憶を手探りで、それでも何かを探ろうとして、今まで生きてきましたが、それも今日で終わりのような気がします。
けれど、私の記憶は模糊たるものですが、そのことは、私の心を不安にさせるものではありません。
母が呟いていた、
『朧が、来る』
それが、どういった意味なのか、私はまだはっきりと分かりません。
けれど、私の記憶の深層の何処かで、それを理解しているような気がしました。
何故、水月村の者たちが、村を捨てたのか。
それを訊いてみたい気がします。
彼は、どう答えてくれるでしょう。
『私は、死んでもいいと思っているのですよ』
そう彼が呟くのを、私はじっと聞いていました。
『私がそう望まなくても、そうなることは不可避です』
私は、急に、堪え難い、申し訳のない思いに囚われ、年甲斐もなく、大粒の涙を落としてしまいました。
テーブルの上に落ちたひと雫が、みるみる内に大きく広がってゆきました。
…こんな事になるのなら、結婚でも何でもしておけばよかった。
自分のためではなく…、
彼のために。
こんなにも、私は必要とされていたのに、私はなんということをしてしまったのか。
しかし、この申し訳のない気持ちを抱ける自分は、まだ幸せなのかもしれない。
これから、外の世界で生まれる水月村の子孫たちは、記憶が遠ざかれば遠ざかる程、この気持ちも薄らいでしまうだろう。
それを思うと、更に私は切ない気持ちにさせられて、溢れ出る涙を止められませんでした。
『すみません…すみません…』
謝罪し続ける私を前に、彼は首を静かに横に振るのでした。
『あなたがそんな風に謝られることはないのですよ。そうですか、あなたは、まだ覚えている方だったのですね。それ程、よく分かる方は、もう珍しくなりました』
『何故、もっと早くに来てくれなかったんですか』
『難しかったのです。だから、私はこの体を手に入れました。人の世とは面白いものですね。情報というものが、この体のお陰で随分入手しやすくなりました。だから、今まで生きてくることができたのです。けれど、それももう、そう長くは続かないでしょう』
『どうして母は村を出たのでしょうか。出なければ、私はもっとあなたの役にたてた筈…』
彼は、ベランダへと通じる窓の方に顔を向けた。
その眼差しは、全ての空間と存在を通り抜け、遠く、懐かしい故郷の地を見ているようだった。
『きっと押し流されてしまったのではないでしょうか。外の世界の奔流に、押し流されてしまったのです。だから、あなたのように感じられる方は、もう稀なのです』
『私は幸運にも、この十数年か、あなたを感じことができましたから…。それでも、この世界で生きることはどうしようもなく息苦しくて、私は自分が、不必要なモノなのだと、自分自身を消してしまいかねない程でした』
『……』
『それに比べれば、例え、子供を残せなかったとしても、私は遥かに幸せです。私は、あなたに必要とされているのだと知って逝けるだけで、十分、今まで生きてきた甲斐がありました』
彼は押し黙り、私は彼を待ちました。
長い沈黙も苦にはなりませんでした。
私は、間のなく訪れるであろう事の予感に、悦びに震えていたのです。
私は、自分が苦しみを感じながらも生きてきたことの理由を、やっと理解できました。
私は、私を絶対なモノとして必要としてくれる、『彼』のためにだけ、生きてきたのです。
私の体が、内からの歓喜の思いにこんなにも震えるのが、その証しではないでしょうか。
彼は、窓から視線を戻し、私を静かに見つめ返しました。
驚く程に若々しいと思っていた彼の顔に、私は今までは見えなかった、長い歳月を感じました。
彼の薄い唇がゆっくりと動き、言葉を紡ぐのですが、それは空洞の人形の体に音が反響しているような、そんな奇妙な響きをもって、私の耳に届きました。
『私は、もういつ失われてもよいと思っているのですよ。私は水月村の者がいなくては生きてはいけない身です』
それが、この事件の真相です。
『そんなことを言わないで下さい。あなたに必要とされることに生きる意味を感じる私たちなのに、あなたがいなくなってしまったら、何を頼りに生きていけばいいんですか』
『ここでは、君は生き続けることはできませんか? 普通に生活をして、今まで通り働いて』
『……』
『あと少しのことならば、待つことができます』
『…できなくはないと思いますが…それは、私の本当の望みではありません』
彼の黒い瞳が、機械のようにゆっくりと瞬きをしました。
そうして、彼の口から深く長い息が溢れ落ちました。
……。
『もう、数える程しか、水月村の者は残っていません。なのに、それでも、喰わずにはいられないこの身を、私は浅ましく感じるのですよ。
食べれば食べるほど、
私は自身の滅びへと、突き進んでいるのです』
彼はそう呟き、胸の空洞に響く長い吐息を零しました。」
古びたアパートの一室。
首はうっとりと、その瞳を虚空に投げかけていた。
そう…、
十五年前の、母のように。
朧なるモノ、
それは………。
(了)