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朧(おぼろ)  作者: 香_t
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3章

「これで、七人目です」


 耳障りな蒸気音を耳にし、私はあわててガスを止めに走った。

 流しの側の窓は、すっかり結露に覆われていた。


「お食事、どうなさいますか? 出前をとるなら」

「いえ、結構です。私の事は気にせず、買ってらっしゃったのを召し上がって下さい」


 彼の視線が、私が流しに置いたスーパーの袋に止まっていた。

 彼が来なければ、夕食として買ってきたものだ。


「迷惑でなければ、もう少しあなたとお話をさせていただきたいので、できましたら、先に食べていただければありがたいです」

「そうですか…」


 かと言って、何も口にしていない相手の前で、自分だけ食べるというのは、余程、気心の知れた相手でもなければ、気まずいものだ。


「本当に水月村の事件は、解決できるんでしょうか」


 遠慮しながら、パックの蓋を開けて、私は冷えた寿司を口に運んだ。

 テレビも新聞もない部屋なので、食事の合間に話しかける私だったが、彼からは、別段、気詰まりの様子は感じられなかった。


「ええ、いつかは終わると思いますよ」


 彼にそっけなく返され、私は少し反感を覚えた。

 いつか、と軽く構えている内に、また被害者が出るかもしれないのに、彼はそれをどう考えているのか、私には理解できなかった。


 そういえば、彼からは、他人にも分かる程の使命感というのは感じられない。

 彼はいつも淡々としている。

 この事件を担当して、少なくとも十五年はたっているというのに、確たる進展があったという話も聞かないし、それを焦り、苛立ち、奮起するといった気概も、彼からは伺えない。


「私の他にもまだ水月村の出身の人がいるのなら、その人たちを警察は守ってあげないんですか?」

「我々の方で分かっている方々については、そうしていますよ。身元の判明した被害者の場合は、ご家族の方は必然的に血縁者ということになりますからね」

「そうですよね」

「けれど残念なことに、被害に遭われた方は、往々にして所在不明になっていた方ばかりなのです。戸籍簿で出身者の氏名や年齢などはこちらでも部分的に把握しているんですが、足取りが掴めた時には、被害に遭われた後ということの方が多い」


 あまり食のすすむ話題ではないな、と思いながらも、私は仕方なく箸を動かした。


「なら、新聞の尋ね人欄に載せるとか」

「それももう何度かしていますよ」


 さらりとそう返されると、私は次に言う言葉がなくなった。

 素人の私が考えるようなことは、してて当然だったと認識し、何も進展がないと、彼のことをちょっとでも悪しく思ってしまった自身の不明を恥じた。


「けれど、呼び出しに応じることは稀ですね」

「そうなんですか?」

「たまに、本人の口からちらりと水月村の事を聞いていて、連絡を下さるお身内の方はいらっしゃいますが、極めて稀なことです。

 あなたも心当たりのあることだと思いますが、あなたのご両親のように、水月村を初めて出られた世代の方々に特徴的なのは、その閉鎖性です。とにかく、外の世界の人とは極力接触を避けてらっしゃる。それは、本人達が考えて、ということではなく、結果としてそうなってしまっているのですけれどね。

 きっと、不慣れな外の世界は、彼らにとっては生きにくいものなのでしょうね。そして、過度の緊張と不安は、決して強靭とは言い難い、彼らの精神を急速に蝕んでゆく…」


 それに、私の脳裏に母の姿が蘇った。

 じっと黙り込んでいる事が多く、時々、小さく何かを呟いていた母。


「…相変わらず、あなたは小食ですね。お肉も嫌いなのですか? そのお寿司、野菜ばかりなのですね」


 突然変わった話題に、私は面食らって、手元の寿司に落としていた視線を、彼に戻した。


「今日はあまり食欲がなかったので…」


 微熱があってとまで言えば、彼に気を使わせてしまうと思い、口にしなかった。


「それでなくても、肉はお食べにならないでしょう」


 そう言えば、彼と会う時はここでのことが多かったので、彼は私が自分の好きな物しか食べていないのをよく見ている訳だ。


「外では食べていますよ。ただ、肉けの物は海の物も山の物も、何か、お腹にもたれてしまって」

「あなたのような人をベジタリアンと言うんですよね」

「そんな人はもっと徹底しているでしょう。私のは、ちょっと遠慮したいな、というだけですから」

「食べられるけど、食べない」


 他人の食生活にそんなに拘ることもないのに、と私は少し憮然とした表情をしていただろう。

 その先で、彼が微かに片頬を緩めてみせた。


「羨ましい。私は、一つのモノしか食べられませんから」


 ああ…。

 だからこの人はいつも私が食事を誘う度に、やんわりと断るのか、と私は初めて納得のいった思いで彼を見つめ返した。

 けれど、納得がいった矢先、そんな人間がいるのだろうか、と不可解な疑問が湧いた。


 そんな私の違和感を気にした様子もなく、彼は言葉を続けた。


「食性って分かりますか? 動物が何を食べているかですが、一つには、動物食、植物食、雑食、腐食性などという区分けがありますが、もう一つの分け方として、食べている生物の種類で分ける分け方もあるのですよ」


 彼の話が気になって、私の手元の箸は、動きを止めていた。


「人間は色々な種類の生物を食べますから、多食性と呼べるでしょう。それと反対に少しの種類しか食べないのは狭食性。それも、私などのように一つしか食べられないのは、特に単食性と呼ばれるようですね」

「食べないんじゃなく、食べられない、なんですか?」

「そう、残念ながら私はコアラも同然なんです」


 私は呆れて彼の顔を見つめ返した。


 それから急に可笑しくなった。

 彼があまりに真顔でそんな事を言うものだから、一体何が起こったのかと思い、そしてその可笑しさに、声を上げて今にも笑い出しそうになった。


 けれど、馬鹿馬鹿しく思ってのことじゃない。

 彼はその辺をちゃんと汲み取ってくれただろうか。


 恐る恐る彼の方を伺い見ると、彼の目許も笑んでいて、私は胸を撫で下ろした。

 そして、私は『色々』なコトで、何かほっとしてしまった。


 彼の視線を真っすぐ捉える。

 けれど、私はまだ彼にどう返したらいいのか分からなくて、面映い笑いを口許に浮かべる事しかできなかった。


「数種類の限られたユーカリしかコアラは食べられないんですよ。私もそれを聞いた時、笑ってしまいました。なら、ユーカリがなくなったら、コアラは生きていられないじゃないですか」

「ええ…そうですね」

「だからコアラがユーカリを食べるのには必然性がある」

「あなたがおっしゃったこの事件の『必然』とは、そういったことなんですか?」



 私は大学一年の夏を思い出した。

 あのひどく蒸し暑かった夏の日を…。

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