2章
閉店間際のスーパーで、出来合いの夕食を買い込む。
すっかり日の暮れた表は、風でも吹こうものなら首がすくむ程に寒い。
このまま冬本番になりそうだ。
歩行者用の小さな踏切の前で電車を待つ。
両側から二本ずつぐらい来ないと踏切は上がらない。
いつもこの踏切では待たされる。
待たずに通れたことの方が稀だった。
その間、踏切は鳴り続ける。
頭に響く。
世界中が、音、音、音、
音の洪水だ。
沈黙が欲しい。
完全な沈黙が。
きっと、今より遥かに、穏やかな気持ちになれる。
きっと、その筈……。
「今、お帰りですか?」
踏切が上がったと同時に踏み出した私の歩調に、すらりと長い足が並んだ。
「草薙さん」
驚いて、一瞬足が止まった。
けれど、また踏切が鳴りだし、私たちは、足早に向こう側へ渡った。
「お久しぶりです」
「こちらこそ」
相変わらず、彼の微笑みは美しかった。
通り過ぎる人たちが振り返る。
あれから、十五年。
けれど、彼は初めて出会ったあの時と、外見上、殆ど変わっていなかった。
統制された学生服を脱ぎ、より無個性な大人に成長した私とはまるで生きている時間が違うかのように、彼は恐いぐらいに美しいままだった。
あの日、母を亡くしてから、天涯孤独の身になってしまった私の後見人になってくれたということがなければ、こんなにも長く縁は続かなかっただろう。
「もしよろしければ、寄って行ってください。こんな寒空の下で立ち話もなんですから」
めったに他人を家に呼ぶようなことはしないのだが、相手が草薙さんとあっては、慣れない社交辞令も抵抗なく出てくる。
微熱の気怠さが、彼の顔を見た瞬間、不思議なぐらい楽になった。
あの時で、三十を少し出た所だと言っていたから、今なら、もう五十から数えた方が早くなっているだろう。
それを考えると、草薙さんの、当時と変わらない容貌というのは、一種、不気味でさえあった。
本人の前では、流石に口に出せなかったが、そう思うのは何も私一人ではないだろう。
けれど、彼は何事もなくこの世界に暮らしている。
色がついているといっただけの粗茶を、彼はとても旨そうに口にしてくれる。
きちんと正座をして、足を崩すようなことはしない。
私もそうなると、足を崩せなくなってしまい、仕方なくそのままじっとしているしかなかった。
「まだ、結婚されないのですか?」
そう言いながら、彼の視線が私の部屋をちらりと見回す。
誰が見ても、男の一人暮らしと分かる、雑然とした部屋の中だった。
部屋の中心部だけスペースがあれば、それでよしとする片付け方しかしていない。
「そうは言っても、こればかりは相手がいないと仕方のない話ですから」
彼は、一年に数回こうして出会う時は決まって、この話題を早い段階で口にする。
勿論、高校生を相手にそんなことを言っていたとは思わないが、それでも、大学に入ってからは、もう聞かれていたような気がする。
後見という立場上、私の身の振り方が気になるのかもしれないが、彼自身独り身だと聞くのに、こっちばかり急かされてもあまり説得力がない。
「相手がいらっしゃらないのでしたら、私がご紹介いたしますよ」
この流れも、もうお約束のものだ。
湯飲みを手の平の上に置き、彼は微笑みかける。
「まだ、そういった気持ちにはなれませんから…」
「そうですか。…それは残念です」
「残念、ですか?」
何か良い話でもあったのだろうか、と思うような口振りだったが、彼はそれっきり口を噤んでしまった。
こんな肩すかしも、彼と向かい合うとよくあることだった。
私がこうだろう、と思う所が、彼には当てはまらないことがよくあった。
今の会話にしても、私が考えた残念な理由と、彼が心の中で思ったこととは、きっと異なるのだろう。
そうして、彼は、ここで過ごす時間の大半を、沈黙で通すのだった。
その沈黙は、数分のこともあれば、時には何時間ということもあった。
長引きそうなら、私も気にせず自分のことをしだす。
人から見れば、大分変わった時間の過ごし方だろう。
私も最初は気まずさを感じていたように思えるが、いつの間にか、すっかりこの関係に慣れてしまっていた。
「お食事、まだでしょう? なんなら出前でもとりましょうか?」
自身の空腹を感じ、私は彼の顔を伺い見た。
そんな私を、彼は一瞬不思議な面持ちで見つめ返してから、その肉薄の唇を微かに動かした。
「また、水月村に縁りの人が殺されました」
「『間違いありませんか?』
『はい、僕の母です』
簡単な問いかけの間も、私は、母の骸から一瞬たりとも目が離せませんでした。
すぐそこの足下に、血と骨の残骸が散らばっているという、陰惨な状況を目にしているというのに、私は不思議と、気持ちの悪さは感じていませんでした。
冷えきった空気のせいで、何も臭わなかったせいかもしれませんが、私は感情的になるより先に、雪原の白と、血の赤と、土の黒という、鮮やかな色彩の綾に絡み取られてしまったように思えます。
だからこそ、そこに添えられた母の首というものも、私の目には一つの造形物としか映らず、手足をもがれ、胴から切り離された精巧な人形のようだと、思ってしまいました。
綺麗に切断された母の首は、うっとりとした視線を虚空に送っていました。
背中まであった黒髪が、ばらけて雪の上に乱れ落ちている様は、何やら生前よりも艶めいて見えました。
首だけを無傷で残してくれた誰かの感性に、私は感慨すら覚えました。
首から下は贓物という贓物、皮という皮の一片も残さずに、綺麗に消し去り、人型の血痕の上に、首だけを無傷で残すなどということを考えつくのは、一体、何モノなのか。
『母に…何が起こったんですか?』
ようやく、私は、母であったものの残骸から、横に立つ彼の美しい顔に視線を戻しました。
そして、彼と、この閉ざされた不思議な世界との同一性に思いを馳せました。
このあまりに異質な世界に、何の違和感もなく存在できるモノがあるとしたら、それは彼しかないような気にさせられたのです。
『何かがお母さんを、食べてしまったのかもしれないですね』
抑揚のない彼のその言葉は、私の胸にすんなりと落ち着きました。
母は殺されたのでなく、
食べられたのだ、という事実に。
『所冰郡の水月村というのを、君は聞いたことがありますか?』
セゴオリ グン ミナヅキ ムラ。
『いえ、知りません』
『君も、戸籍上はそこの出身になっているようですよ』
『僕は小さい時に今の所に越してきましたから、覚えていません』
『そうですか』
光の加減で、彼の口許が笑みを浮かべたように私には見えました。
『それで、君はお母さんから、何か気になることを聞いていないのかな?』
『その水月村のことで、ですか?』
『何に関したことでもいいですよ。ただ、君が気になるようなことを、お母さんが口にしたことがあったのかどうか、それが大切なんです』
周りでそれぞれの仕事をしていた人たちの視線が、立ち話を始めた私たちに訝しげに投げかけられているのを、私は感じました。
きっと、母親の無惨な死体を前にしても、何一つ取り乱した所のない私と、そんな私と、世間話でもするように会話を交わす彼の姿の両方が、非常識なものと映ったのでしょう。
けれど、私のそういった反応は、一部に、草薙というこの不思議な人と一緒にいるせいもありました。
彼と一緒にいると、彼が生きている時間や世界の中では、こういった出来事も、さほど驚くようなことではないのだろうと、感じられました。
だから、私は、あの状況を、どこか当たり前の情景として受け止めてしまっていました。
今では、自分の頭で理解し、その理解をきちんと言葉で言い表す事ができますが、当時の私は、とりとめのない色々な思考の中を彷徨っていたと思います。
その中で、私は、水月村のことも含め、過去を自分なりに思い出そうとしました。
『そうですね…』
少し首を傾げて考える私を、彼は焦れる風もなく見守ってくれました。
『朧、と』
『朧、ですか?』
『朧が来る、とよく口にしていたんですが、どういった意味なのか、僕には分かりません』
『朧が来る、ですか。面白いですね』
『どう面白いんですか?』
釈然としないものを覚え、彼を見つめる私の前で、三日月のように笑んだ彼の目が輝いていました。
それは凍えるように寒い冬の夜空に浮かぶ、細い細い銀の月のようでした。
その月の笑いに、私は全身に薄ら寒い震えが走るのを感じました。
そして、彼は、その薄い唇をゆっくりと動かしました。
『もし、朧が来たら、君はどうしますか?』
私は、その時自分がどう答えたのか覚えていません。
何も答えなかったのか、
分からないと言ったのか、
それ以外のことを何か口にしたのか……。」
コンロにかけたやかんが細い笛を吹いた。
けれど、私は立ち上がることを忘れて、じっと彼の美しい顔を見続けた。
凝視するというのではない。
ただ、彼と彼を取り囲む世界を見守っていた。
「あれは、私が大学一年の時でした。
高校を出た後は、働くことに決めていた私でしたが、草薙さんの強い勧めもあり、大学まで行かせてもらうことができたのは、ありがたいことでした。
けれど、そこまで彼の親切に甘えていながら、私と彼の繋がりは、毎月口座に振り込まれる十分過ぎるお金としてしかありませんでした。
私としては、彼の仕事の邪魔をしたくないという気兼ねもあり、こちらから連絡をとることは、なかなかできませんでした。
だから、彼と会えるのは、彼が年に数回、ふらりと気紛れに現われる時だけでした。
そして、彼が現れるのは決まって、水月村のことで何か新しい事件が起こった時でした。
その日、アパートの近くで、半年ぶりに彼に呼び止められた時も、当然の事として、その話題が出てきました。
この時に結婚の話題が出たかどうかまでは覚えていませんが、いつものように、さらりと水月村の事件について、彼の口から語られました。
『また、水月村出身の者が一人やられましたよ』
また、と彼が口にするように、私は、母のことがあってから、この話を聞くのは、これで四度目でした。
つまり、四人の人間が、この国のどこかで人知れず、母のように食べられた、ということです。
『少なくとも』四人の人間が、というのが正しいでしょう。
水月村の事件は、私が草薙さんと出会う以前から、彼の手を煩わせていたのですから。
けれど、この事件のことを知っているのは、事件の関係者という僅かな人々に限られていました。
新聞にも載りません。
あれ程陰惨な事件なら、さぞ世間の好奇心を煽るでしょうに、私の周りにもこの事を知っているのは、今の所、こうして報告に来てくれる草薙さんぐらいしか思い当たりません。
好奇心ですめば、まだよいでしょう。
人間をあのように、骨と首しか残さない状況で殺すような猟奇殺人者が、自分たちのすぐ側にいるかもしれないとしたら…そう考えただけで、気持ちのいいことではありません。
得体の知れない恐怖程、たちの悪いモノはないと、彼は言います。
それは、ただ、混乱を招くだけでしかないのだと。
しかし、この得体の知れないモノには一連の法則がある、と彼は私に教えてくれました。
それが水月村に関わってくるのですが、その前に水月村のことを、草薙さんの受け売りではありますが、お話ししなくてはならないでしょう。
地図の上で水月村を探そうとしても無理です。
どんなに分厚い地図帳の索引で探しても、言われた場所に、その名前の村は見つからない筈です。
いくつかの理由から、今は失われたり、かつて隠されていた地名というのは、全国にいくらでもあります。
そんないくつかの理由の一つから、隠されたのが、水月村です。
そう。
失われたのではなく、隠されたというのが事実です。
近隣の者ならば、その村があるということはかろうじて知っている。
けれど、その村のことを語り、広めるようなことが起こらなかったという点に、水月村の特異性があるのでしょう。
何故そうだったのかは、水月村自体が現実にも住む者がいなくなり、なくなってしまったので、詳しくは分かりません。
草薙さんが言うには、水月村の者と外の者は、住む世界、生活の習いがあまりに似て非なるために、互いに接触し、交わることが、殆どなかったのだという話です。
彼の語る言葉は、私には伝承の昔語りを聞くようなものでした。
そして、彼がそう言うのなら、私には頷くことしかできませんでした。
けれど、それなら、何故、母は、住む世界が異なるとまで言われる、この外の町にやってきたのでしょうか。
そして、何故…、
『何故、ソレは水月村の者ばかりを襲うんですか?』
氷の入ったグラスの下の水溜りを布巾で拭き取り、私は正座を崩さない相手の顔を見つめました。
その日は、まだ残暑の厳しい頃で、じっとしているだけでも汗の雫が流れ落ちるような蒸し暑さだったのですが、彼は、その美しい顔に汗の玉一つ浮かべず、涼しげとさえ言える様子でした。
『それが分かりさえすれば、私も困らないのですが』
そう口にして、彼は青白い歯を覗かせ微笑み返しました。
『きっと、他のモノでは代わりとならない理由があるのでしょうね』
水月村の人間ばかりを襲い、その肉を喰らうことに、一体どんな訳があるというのか。
私は、彼にもう一度問い質してみたい気もしましたが、これ以上、疑問ばかり投げかけるのもせんのない気にさせられ、口を閉ざしたように思います。
『それはそうと、今日はもう一つあなたにお伝えしたいことがあったのです』
布巾を手にしたまま、所在なげにしていた私でしたが、腕に彼の冷たい指先が当たり、もう一度その顔を見返しました。
『あなたのお父さんのことですが』
『父ですか?』
今更、物心つく前に亡くなった父の話でもないだろうに、と私は怪訝な表情を返したのだと思います。
彼は、少し困ったような笑みをその口許に浮かべました。
『今頃になってこんなことをお伝えしても、と思うのですが』
『……』
『私がこの事件の担当になる前の話ですので、確認が遅れてしまいましたが、十八年前にも同様の事件がありまして、一人、身元が判明していない方がいらっしゃったのです』
『それが、僕の父だと?』
『はい。あなたから採血させてもらった血液との科学的調査によって、ほぼ、あなたの血縁者、それもかなりの近親者であるということで確認がとれました。それで、推定年齢や時間的なことを考慮した上での総合的な判断では、ほぼあなたのお父さんであることに間違いはないと思います』
『…そうですか』
今更、ということをひどく実感させられる感覚でした。
顔も覚えていない父。
会った記憶もない父。
まして、母から話して聞かされたことも、殆どない父親のことです。
その父に対して起こりうる感情は、私にはあまりにも少ないものでした。
ですから、その時、そんなことを考えたのも、別に、肉親に対する同情からではなく、ただ、純粋にそう思ったから口にしただけのことでした。
『思うんですが…そんなことができるぐらいなら、犯人に対しても、科学的調査というのはできないんですか?』
そう問いかけてから、私は、見覚えのある彼の笑みを見つけました。
それは、あの雪の上で、私が見たものでした。
彼は、三日月のようにその目を細め、私に微笑みかけていました。
『していないことはないのですよ。ただ、事実を事実として認めたがらない方々が多くて、なかなか思うようにはいかないのが実情です』
『認めたくなくても、事実は事実以外の何ものでもないでしょうに、そういうのは、何かおかしくありませんか?』
二十年近くも惨劇が繰り返されているというのに、何をのんびりした事を言っているのかといった憤りの感情が、瞬間、私の内にこみ上げてきました。
『私もそう思いますよ。事実の向こうにある必然が分からなくては、この事件は解決できません』
彼はそう言い置き、私の前で立ち上がりました。」