1章
私は、電話が跳ね上がるのと同時に、その受話器を取り上げた。
呼び鈴の音を何回も続けて耳にするのは好きじゃない。
一度だって聞いていたくない。
書類の数字の計算の途中でも、電話はひっきりなしに入ってくる。
苛立つ。
こんな苛立ちなど、瑣末なものだと分かっていても、疲れた頭には、すぐ血がのぼる。
朝から少し熱があった。
ついこの間までは、晩秋にさしかかろうというのに、暖かい日が続くなと思っていたら、ここ二、三日の内に、ぐっと冷え込みが厳しくなった。
そのせいで、案の定、風邪をひいてしまったようだ。
一人暮らしの無精さが原因だろう。
朝早くに家を出て、夜も遅くなってからしか帰れない身では、なかなか布団を干すこともできない。
土、日にでもなれば、生来の無気力さから、一日布団にへばりついているような生活だから、休みの日にでも、というのも往生してしまう。
年期の入ったアパートの一室で、冷たい煎餅布団を後生大事に抱えていれば、これぐらいの不健康さにはすぐなれる。
また、電話だ。
今日は定時に上がろうか。
こんなことで苛々していたのじゃ、気ばかりが疲れてゆくだけだった。
「私は、その時、教室で二限目の数学の授業を受けていました。
その日は朝から母の姿を見ず、家の中に書き置き一つないことに、多少の気がかりを感じていました。
それでも、何か急な用事でもできたのだろうかと、自分なりに理由を考えて、気を紛らわせていたのですが、まさか昨夜遅くに帰って、そのまま布団に入って寝てしまった母の姿が、生前の最後のものになるとは思ってもいなかったのです。
授業の途中で、教室の前のドアが突然開きました。
教壇で白墨を使っていた若い数学の教師も、何事かとその方を見やりました。
教室の全員が、ドアを開けたまま佇んでいる壮年の担任の姿を見つめていました。
そんな中、私は自分の名前が呼ばれても、不思議と驚きはしませんでした。
母のことで気になる思いを抱いていた自分にとって、そういった特別な状況というのが容易に受け入れられたのかもしれません。
とにかく、私は自分一人名前を呼ばれ、廊下でその事実を聞かされた時も、取り立てて騒ぎ立てるようなことはありませんでした。
担任から聞かされたその話は、あまりに突飛で、突飛すぎて私の感情を全て吹き飛ばしてしまったのでしょう。
そんな気がします。
私の母が、ここから遠く離れた山間の、人通りの絶えた雪の中で見つかったなど。
それも、彼女が既に死んでいるなんてことは、あまりに非現実的すぎる話でした。」
五時十五分に終業の鐘が鳴る。
けれど、営業の人間は誰も席を立とうとしない。
今が忙しい時期だというのもあるが、常から、定刻で席を立つなんて、というような風潮のある会社だ。
けれど、私は構わず席を立った。
年休だって、まだたくさん残っているというのに、それだけ熱心に働いていたって、自分の勤勉さを本当に評価してくれる人間など、ここには一人もいないだろう。
張り合いなどとうの昔になくしている。
「評価」。
本当に、嫌いな言葉だ。
自分が生きるために、仕方なしに働いているという認識しか持たない私が批判するのは、厚かましいだろうか。
普通のこと、当たり前のことができただけで、誉めてもらえた子供頃が懐かしかった。
自分で、自分で、自分で……。
個人主義。
それは、武器にも弱みにもなる生き方のように思えた。
ある日、私がいなくなったら。
この世界から、完全に失われてしまったら。
……そう考えた時、私は、大きな孤独を感じる。
きっと、私の存在など、容易に代わりのきくものなのだ。
私は大量生産された小さな歯車であり、ボルトだ。
私が唯一特別という恩恵を与えられていたのは、肉親の中においてだけだろう。
けれど、それさえ、もう持たない私には、この体が失われた後で、この世に残るものは何もないのだ。
私は、いつものようにタイムカードに打刻して、すっかり日の暮れた町へと飛び出した。
「何故、母はそんな場所にいたのだろう。
黒塗りの車で運ばれながら、私は考えました。
迎えの車には担任の教諭と一緒に、警察の人が一人同乗してくれました。
遺体の確認をしてもらいたいというのです。
けれど、警察の人は、母がどういう風に見つかったのか、ということにはひどく口を濁しました。
私には色々と聞いてくるのに、彼からは何もはっきりとしたことは語られないし、私の方も何も知らないので、そうとしか答えられず、話はずっと平行線のままでした。
その場所までは、車でもとても遠く感じられる距離でした。
交わす言葉もなくなり、ただ長い沈黙が車内に満ちる中、フロントガラスの向こうに、すっかり雪化粧をした山々がゆっくりと近付いてきていました。
その山並は町からはとても遠くに見えたものですが、今は、私の前に巨大な盾のように聳えたっていました。
そして待つ程もなく、山々の斜面が、曲がりくねった細い山道を行く私たちの上に、押しつぶすように覆い被さってきました。
進んでも進んでも、その先に冬枯れの樹々の砦が交差するように現れました。
一体、この道はどこまで続くのだろう。
けれど、私の内に、不安の感情はありませんでした。
私は、ただこの沈黙の世界の先を見続けることに、心の平安を感じていました。
そして、私は、記憶の中の母へと思いを馳せるのでした。
この場所に、母は何をしに行って、何故、『死』というものに出会ったのか。
私には分からないことばかりでした。
細い山路を上がったり下りたりした後で、車は山間の小さな寒村につきました。
二十軒にも満たないだろう、昔ながらの農家が、肩を寄せあって雪に埋まっているという、そんな場所です。
その集落を過ぎ、本道を脇にそれた先に、黒と白の警察の車と、数人の人影が固まっているのを、私はやっと見つけました。
鎮守の森とでもいうのでしょうか。
山裾までの広い雪原の中ほどに、ぽつりと、雪を被った巨木の一群があり、人々が集まっているのは、その森の細い参道の辺りでした。
長い道程に固まった体を軋ませながら車を降りると、私はもう一人の男性と引き合わされました。
『草薙と申します』
彼はそう言ってニコリと笑いました。
その笑顔に、私は見とれてしまいました。
ぞっとして、目が離せなくなってしまった、という方が正しいかもしれません。
筆先で払ったような細い眉。
血の気の失せた白い肌に、僅かに色を添える肉薄の唇。
そのまま魂を吸い込まれてしまいそうな、美貌の青年でした。
県警の警部とかで、この現場の指揮をとっているということでしたが、見た目にはまだ学生と言っても通るぐらいに年若い印象を持っていました。
けれど、その切れ上がった眼差しに、見た目以上の落ち着きを感じるのは私だけではなかったでしょう。
彼はとてもほっそりとした体つきをしていて、軽く触れた氷のように冷たい手は、骨が浮いてごつごつしていたのを覚えています。
朱塗りの剥げた、か細い鳥居の間を抜け、既に乱された雪を踏み分けて行く私を、先に立って彼は案内してくれました。
その間、母と最後に会ったのはいつか、母は何か気になることを口にしてはいなかったか、といったことを彼から聞かれたのですが、私には役に立つようなことは何も答えられませんでした。
そして、彼が案内してくれた先に、私は無惨な母の姿を見つけました。
小さな古びた祠の裏に、母はその首だけを心もとなく、真紅に染まった雪の上に乗せていたのです。」