序章
「私がこの町にやって来たのは、今から三十年近く前のことになります。
私は、母の手に引かれて、まだ閑散とした駅に降り立ち、吹き付ける風の冷たさに身震いしたことを覚えています。
確か、その時の格好というのは、今でも大事に使っている男物の上着を着せられていたように記憶しています。
きっと袖口も裾も引き摺るように歩いていたと思うのですが、そんな子供の姿は、さぞ、通りすがりにも奇妙に思われたことだろうと、そこだけが楽しく思い出される記憶です。
それ以外のことは、まだ小学校へも上がらない頃のことなので、よくは覚えていません。
どこから来たのか。
何故、ここに来たのか。
そういったことが知りたいと思い出した時には、唯一の身内だった母も他界した後で、誰に確認することもできなくなっていました。
私には、肉親といえば、母親との記憶しかありません。
物心つく頃には、既に父親と呼べる人は存在していませんでした。
私が生まれて間もない時に亡くなったということは、母に尋ねて知っていたのですが、その理由を重ねて尋ねたことはなかったので、やはり、私が知っているのは、それだけのことなのです。
同じ年の子供たちに二親が揃っていることを、不思議にも思わないぐらいに、私の生活の中には、初めから父親の存在がありませんでした。
私を女手一人で、十五の冬まで育ててくれた母は、とても線の細い人で、微かな風にも吹かれて消えてしまいそうな頼りなさを、子供心にも感じさせる人でした。
あまり声をたてて笑うということもせず、いつも何か深い物思いに沈んでいるといった風な、そんな陰のある横顔ばかりが思い出されます。
頬のこけた血色の悪い顔の中で、黒目がちな目だけが、恐いぐらいに大きかったことを覚えています。
その目には、何か不安そうな、落ち着きのない色が宿っており、底の知れない暗闇の底をじっと覗き込んでいるような感じがありました。
家にいる時も、ただじっと黙っている事が多く、時々、小さく何かを呟いていても、私には意味をなさない言葉の羅列でしかありませんでした。
ただ、そんな中、一つだけ今でも心にひっかかっている言葉があります。
『おぼろ、が来る』
おぼろ、とは『朧』のことでしょうか。
この言葉だけでは、やはり意味をなさないものでしょう。
しかし、私の耳に残るくらいなのだから、夢と現の狭間を漂っていたような母が、とても気にしていたという事だけは、間違いないように思います。
その母が亡くなったのは、私が中学二年の冬の事でした。」