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牙 - kiva -  作者: takasho
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Chapter 1 episode: Retreat

 朱色に近くなった夕陽が目にまぶしく、なぜか泣きたくなってきた。

 責められ、叩かれ、けなされ、ついさっきやっと釈放されたところだ。

 凶暴な女獄吏たちによると〝仮釈放〟ということらしい。いったい何様のつもりか、こちらをなんだと思っているか、ひとしきり問い詰めたかったが、何を言っても無駄なことはわかりきっているので、黙っておいた。

 けっして相手の勢いに押し切られたわけではない、けっして。

「何ぶつぶつ言ってんの?」

「うるさい、その他大勢のひとり」

「何それ!?」

 隣を歩く美柚がその柳眉を逆立ててあからさまに睨んできた。

 どこ吹く風の蓮は、相手にしなかったが。

「だいたい、なんでお前がついてくる?」

「そっちこそ、私についてこないでよ」

「はあ? 教室から追いかけてきたのはどっちだ」

 この調子で文句を言い合いながら、二人は学園から住宅地へつづく道を歩いていた。

 会話らしい会話はまともに行われず、常に罵り合って進んでいく。野良猫も呆れ果てるほどの痴態であった。

「あんたは、もっと女性に配慮しなさい。日本男児でしょ」

「…………」

 またえげつない暴言で反論してくるかと思いきや、むっつりとした顔で沈黙した。

 美柚が、一瞬だけ口の端をつり上げた。

 ――今のがキーワードだな。

「日本男児たるもの、か弱い女の子を自分が助けるくらいじゃなきゃ。そうすることが、おのれの名誉を守ることになるでしょ」

「…………」

「これからは、相手が誰でもか弱い女性を守って、男の格を上げるの。わかった?」

「……わかりたくない気もするが、理は通っている」

 蓮の返答に、美柚はほくそ笑んだ。

「じゃあ、これから私に付き合いなさい」

「なんでそうなる?」

「女の子のお願い聞かなくていいの? 〔日本男児として〕」

「それは問題ない」

 ぱっと美柚が瞳を輝かせた。

「お前は女じゃない、と思えばいい」

「…………」

 ――こいつ。

 殴りたい衝動に駆られたが、今はとりあえず蹴りだけ入れておいた。

「せっかく美柚さんの手料理を振る舞ってあげようと思ったのに」

「誰がそんな自殺行為に応じるか」

「じゃあ、強制連行する」

「駄目だ」

 拒絶する声は硬かった。

「俺は、これからお世話になった方に挨拶に行く。家のこともあるし、急がないと」

「そっか」

 さすがに無理は言えなかった。本来、無理を言う権利は元からないのだが。

「――送ってあげようか?」

「……俺をなんだと思ってる?」

「もう噂になってるよ、校舎内で迷ってたって」

「失敬な! あれは……普通に進んでいたら、おかしなところに出ただけだ」

「それを人は方向音痴と言う」

「うるさい!」

 明らかに不機嫌になった蓮は、すねた幼稚園児のようにぷいっとそっぽを向いて、すたすたと歩きだした。

「……そっちで合ってるの?」

「合ってるに決まってる!」

 余計な一言にカッとなった蓮を、美柚は冷ややかな目で見送った。

 気配で、彼女が別の道へ進んでいったのがわかる。

 足音が確実に離れていくことにほっとしつつ、正面に向き直った。

 初日からとんでもないことの連続だったが、ある程度は覚悟していた。場所が場所だ、どんな厄介なことが起きても不思議はない。女どもの〔暴虐の限り〕だけは完全に余計だったが。

 また男らしくなくぶつぶつ文句を言いながら歩を進めると、やがて少し開けた通りに出た。先ほどまでの整然とした道路とは異なり、細い道が方々に走り、背の高い建物がないこともあって見晴らしはいい。

 それは、残念ながら目標物がなく、まっすぐ目的の方向へ進むのが難しいことを意味していた。

 わかっているのかいないのか、蓮は憶することなく前進する。そこに迷いは一切なかった。

 その数刻後、蓮は未だ旧住宅地を歩いていた。

 空は、すっかり暗くなっている。

「……………………」

 認めたくはない現実。されど、まぎれもない事実がそこに横たわっていた。

「……………………」

 もはや、自分がおおよそどの位置にいるのかすらわからない。そもそもここは神楽坂市なのだろうか。

 恥を忍んで電話をかけようにも、{携帯電話を持っていない}。見える範囲内に公衆電話の気配はなく、モバイルの普及という現実は電話難民を発生させていた。

「もっと情報弱者のことを考えろ……」

 自分のことを弱者と言ってしまうあたり、すでにかなり追いつめられていた。

 もはや方策なく途方に暮れていると、ふと、左斜め前方に立派な和風建築の家屋が見えた。どこか故郷の屋敷を思わせるそのたたずまいは、こころを落ち着かせてくれるものがあった。

 ここで聞いてみるか、と、もはやプライドよりも疲れが勝った蓮は、力ない足取りでそちらへ向かった。

 近づいてみると、思いのほか大きい建物であった。門構えも堂々としており、元は旗本の屋敷だったと言われれば信じてしまいそうなほどだ。

 ――だが、表札がない。

 主の名前すら確認しようもなく、わずかな気後れcを感じながらも古風な呼び鈴を鳴らそうとした。

「うん?」

 扉がひとりでに開いていく。

 その向こう側には、見知った顔の老爺がいた。

「あ、老師」

「おお、蓮くんか。遅かったな」

「ちょ、ちょっと寄り道してしまいまして」

「いやに疲れておるな。ともかく、さあ上がった上がった」

 道に迷ったなどと言えるはずもなく、蓮はごまかしつつ門をくぐった。

 ここは、偶然にも目的の場所だった。住所は聞いても家の特徴を聞いていなかったためにまったく気がつかなかった。

 これからしばらくお世話になるところが、落ち着けそうな家でよかったと胸を撫で下ろしつつ、玄関に入った。

 奥につづく広い板敷きの通路が見える。この手の屋敷はおおよそ似たような造りなので、勝手知ったるなんとやらといった調子でどんどん進んでいく。

「いったん休みたいだろう。部屋を用意してあるから、ひとまずは落ち着くといい。夕食まではまだ間がある」

「助かります」

 数時間歩いて音を上げるほどやわな鍛え方はしていないのだが、今日一日の間に起きた数々の苦難や道に迷ったという精神的ショックもあり、総合的な疲労はピークを迎えつつあった。

 二階へとつづく階段を上がると、また広い通路に出た。まるで高級旅館のように両側に部屋の扉がついている。

「ここだ。好きに使ってくれていい」

 開けられた部屋の中は、こぢんまりとした和室だった。奥には大きめの窓があり、あらかじめ一通りの家具が据え付けられている。

「向かいの部屋は?」

「ああ、そこは気にせんでいい」

 なぜかそっけなく答えた老師こと源流は、『あとでまた呼びに来る』という言葉だけ残し、下へ降りていった。

 足音が聞こえなくなってから、とりあえず鞄を下ろし、畳の上に横になった。

 ――今日という日を思う。

 いや、思い返したくない。あまりにも理不尽で腹立たしいことの連続だった。

 それもこれも、朝あの女に出会ってからすべてがおかしくなった。

 ――なんだったんだ、あいつは。

 よりにもよって、この俺を変態呼ばわりし、あまつさえ殴る蹴るの暴行を加えた女。

 見た目とは裏腹に、その根っこは明らかにねじ曲がっていた。救いようもないほど傲慢だった。

 ――どうにもイラつく。

 思い出せば思い出すほど、怒りや憎しみがつのってくる。こちらが何をしたわけでもないのに、事あるごとにあれこれとつっかかってきた。

 相手の真意はわからないが、断じて許しがたい。

 頭が熱くなったせいで、不快感が増した蓮は、がばっと跳ね起きた。

 ちょうどそのとき、階下から声が聞こえた。

「すまん、蓮くん。食事の支度に少し手間取りそうだ。先に風呂に入ってくれ」

「はい」

 返事をしながら立ち上がった。

 ちょうどいい、今日の〝穢れ〟をきれいさっぱり洗い流そう。気を取り直し、着替えを持って下の階に降りた。

 ご丁寧に風呂への道順が張り紙で示してある。

 老師まで俺のことを見くびっているのかとさらに不機嫌になったが、それでも〝標識〟どおりに進んでいった。

 すぐに、屋敷の奥にある風呂場に着いた。

 ――ここか?

 そこは、中小規模の旅館並みに広い脱衣所だった。

 いつもと違う状況に居心地の悪さを感じながらも、手早く脱いで風呂場へ向かった――眼鏡の曇り止めは万全だ。

 半透明のガラスを張られた扉を開ける。

「うん?」

 違和感にふと足を止めた。

 何かがおかしい。漠然とそう思った蓮は、じっと目を凝らした。

 そして、固まった。

 湯煙の向こう、そこに秘境は存在した。

 しなやかな女の肢体。それが熱で上気してほんのり赤く、濡れた肌が輝いている。

 まとめ上げた黒髪から滴る雫は、うなじから肩へ、そして背中へと流れていく。

 しばらく、揺れる湯船の水面だけがわずかな音を立てていた。

 互いに目が合うこと、数瞬――

 先に口を開いたのは〔美柚〕のほうだった。

「い、一緒に入りたいなら、先にそう言ってよね……」

 ――頬が赤いのはなぜだろう。

 現状どうでもいいはずのことを真剣に考えだした蓮はあからさまにパニックに陥り、彼のほうが悲鳴を上げて逃げ出したのだった。

 眼鏡は、下に落ちていた。

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