Chapter 6 episode: We Are Ready
雲が少なく、春とは思えない陽光が燦々と照らす中を、ひとりのフォーマルなスーツに身を包んだ妙齢の女性が通りを南から北へ向かって歩いていた。
場違いに元気な太陽をうざったそうに仰ぐと、ためた息を吐きながら懐に手を入れた。
夜型のミカには、真昼の日差しはまぶしすぎた。季節外れのサングラスをかけ、通りをさらに進んでいく。
やがて、前方にくすんだ壁の建物が見えてきた。廃ビルのように感じられるそれは、周囲のものとは異なって五階までしかない。
サングラスを右手で外しながら、ミカは迷わずそこに入った。
ぎぃ、と低い音を立てて、古ぼけた灰色をした金属製らしき扉が開く。
中はただ暗く、細い通路の奥に何があるのかは出入り口からは見通せない。
構わず、先へと進んでいく。周囲はコンクリートの壁に覆われているというのに、なぜか古い木材の匂いがする中を奥へ向かった。
突き当たりを左に折れると、そこに気配があった。
「省」
「姉さん、遅いぞ」
「こんな時間だ。仕方がない」
悪びれた様子もなく、ミカは足を止めると、ジャケットの内側から何かを取り出した。
広げられた手のひらの上に載っていたのは、淡く赤光を放つ小型の水晶玉であった。
外から眺めているだけでは、ただの明滅にしか見えないそれも、霊感が強く、術が扱える者ならば明確な〝サイン〟を感じ取れる。
輝きよりもその色に目をむいた省は、訝しげな視線を姉であるミカに向けた。
「――奴から連絡があったのか」
「ああ。やっと動きはじめる。いや、〔仕掛けられる〕と言ったほうが正確か」
水晶を握りしめたミカの瞳には、どこか楽しげな光があった。
「今まで長かった、と言ったらおおげさか?」
「いや、準備に時間をかけすぎたくらいだろう。当初のスケジュールを考えれば、確かに長かった」
「覚悟はできるているのか? 省」
「いつまでも子供扱いしないでくれ。姉さんに協力すると決めてから、迷いが出たことはない」
「だといいが」
姉であるミカの物言いに省はわずかに眉をひそめたものの、目に見える変化はそれだけだった。
ここで突っかかったら、それこそガキだ。
だが、実際に気持ちがたかぶっていたは、平静を装うミカのほうだった。
長い、という言葉だけでは言い表せない重さ。これまでの道のりを思い、白い肌の手は少しだけ震えていた。
「他の奴らは――」
それを押し隠そうと口を開きかけたとき、通路の奥にある暗闇のさらに向こうから騒がしい声が聞こえてきた。
徐々にこちらへ近づいてくる若い声は、ひどく聞き慣れたものだった。
やがて扉を開けたのだろう、何かが軋む音を響かせて、明確な二人分の足音が耳に届いた。
見えてきたシルエットは、女子高生と小学生のそれだった。
「ロミオ……麗奈も。来ていたのか」
「ミカが遅いから、ちょっと外に出てただけ」
「腹が減ってしょうがなかったんでしょ。そんなに食うから太るんだよ」
「うるさい」
殺気さえはらんだ視線をあからさまにぶつけられ、さすがのロミオも完全に押し黙った。
「それで? なんなの、今日は」
「始める」
「え? 何を?」
「決まってるだろう、例の件だ」
それまでどこかだらけていた二人の表情が一変した。
屋外の風の音がここまで響き、届くはずのない冷たさをじんと感じさせる。
麗奈がようやく口を開いたのは、外の喧噪がやんでからのことだった。
「まだ準備ができてないんじゃなかったの?」
「それができたからやるんだ」
「……本当にやるんだ」
わずかに目を伏せた麗奈を横目に、ロミオがあからさまに鼻で笑った。
「まさか怖じ気づいたの? 僕たちは、初めからやるって決めていたから集まったんじゃないか。それを今さら――」
「私は〝怖い〟けどな」
ロミオの赤い唇が止まった。その声の主がミカだったからだ。
「事が事だ。私だって、先が見えなくて怖い。それは恥ずかしいことでもなんでもない」
ミカは水晶玉をしまいながら、天上に目を向けた。
「実際のところ、何がどうなるかはまったくわからない。覚悟を決めることと恐れをなくすことは違う」
「――わかってるよ」
どこかすねた様子でそっぽを向いたロミオを見て、ミカはほんのわずかに微笑んだ。
――省も、昔はこんな感じだった。
姉の気も知らず、隣で当の省はまったく別のことに意識が向いていた。
「麗奈、誰と会っていた?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「霊気がゆがんでいる。強い霊力の持ち主に影響された証拠だ」
問いに答えるまでに、わずかな間があった。
「あいつが来てる」
「あいつ?」
「〝パペットマスター〟」
「ああ、そういうことか」
言われてすぐに思い当たった。
「やっと来たのか」
「遅刻も甚だしいが」
先ほどとは打って変わって、顔をしかめたミカが吐き捨てた。
「仕方がない。あいつは元々、この件には関係ない」
「わかってる。最初から当てにしてるわけじゃない」
ミカにしては珍しい一瞬のいら立ちを感じ、省は眉をひそめた。
そんな二人の様子が変化したことを気づかないままに、麗奈とロミオは相変わらずであった。
「私、苦手なんだよなぁ、あいつ」
「似た者同士だから?」
「ロミオ、あんた私の練習台になる?」
「ダイエットに付き合うつもりない」
「こいつ!」
麗奈がロミオの頭を摑み、左の拳をこめかみでぐりぐりとよじる。
いつものようにやり合う緊張感のない二人に、ミカと省は深く深く嘆息し、その音は扉の近くにまで届いた。
その陰に隠れる、ひとりの人物の元にまで。




