Chapter 1 episode: Classroom to Battle Field 1
広くもない教室に女教師の声が響き、授業は滞りなく進んでいく。
はぁ、と周りに聞こえないように嘆息したのは、廊下側の席に座るニット帽をかぶる男子生徒だった。
――蓮の奴、何やってるんだか。
今日から来る予定のはずなのに、一向に訪れる気配がない。元々時間にルーズな奴だったが、転校初日から思いっきり遅刻するとは。
――あいつが予想どおりに動くほうが珍しいけどな。
よくも悪くも規格外の男。思うように御するのは難しく、無理強いすれば暴れ出す。
――周りを巻き込まないだけましか。
もうすでに一悶着あったことを知らない藤堂 圭は、無邪気にそんなことを考えていた。
教壇の〈威 麗々(ウェイ・リーリー)〉先生の〝睨み〟が解け、どうしようもなく眠くなりはじめた頃、なんの前触れもなく突然、教室の扉が開かれた。
全員の視線が一斉にそちらに集中した。
ひとりの男子生徒が、不愛想な表情で突っ立っている。
「なんだ?」
女性にしては低い声で麗々先生が問うと、男子生徒がおもむろに口を開いた。
「今日転校してきたんだが」
麗々が眼鏡を外しながら、国語の教科書をぱたりと机に置いた。
「登校初日から遅れてくるとはいい度胸だ、華院蓮」
「いや、今日は遅くていいと……」
「そんなこと、私は認めていない」
「…………」
「ぷっ」
教室の後方から、他意のある、あからさまな女性の笑い声が上がった。
むっとして蓮がそちらを見やると――奴が、いた。
天敵を見つけた鼠よろしく、警戒心をあらわにしてその対象を睨みつけた。
しかし、怒りの声を上げたのは蓮のほうではなかった。
「美柚が笑うな。始業式以来、ずっと連続して遅刻するお前もどうかしている」
「すみません……」
「ふっ」
「華院が笑うな」
両方ともしたたかにやっつけられ、叩かれた犬のごとくしゅんとなった。
一連のことにクラスの面々の大半はあっけにとられ、一部はにやにやと含みのある笑みを浮かべている。
「とっととこっちへ来い、華院」
「…………」
先生といえどぞんざいな物言いに反発したくなるが、今は従う他ない。
ただ、当の麗々に他意はなかった。いつもこんなものだ。
「自己紹介しろ」
教壇に登った蓮を、無理やり生徒たちのほうへ向けた。
「華院蓮、よろしく」
「それだけか」
「そ、それだけだ」
「じゃあ、とっとと席に着け」
なぜか気圧されつつ、蓮は空いている席を探った。
「…………」
髪の長い女が、なぜか満面の笑みで手をこまねいている。
――俺は、みずから死地へ赴くような愚か者ではない。
失礼といえば失礼なことを考えながら、美柚のことを完全に無視して横を通り過ぎ、後方の席へ向かった。
強烈な視線を向けてくるが、気にしない。あとが怖い気もするが、気にしない。
背後にいくつかの殺気を感じながら蓮が選んだのは、ちょうど圭の前の席だった。
「おいおい、蓮。そこ、休んでる奴の席だぞ」
「知らん」
「無茶苦茶な奴……」
圭の指摘もまったく意に介せず、蓮は他人の席に堂々と座った。
しかし、後ろから見ていてもわかる。明らかに居心地が悪そうだ。
「……なあ」
「あん?」
振り返って問うてきた。
「なぜ、俺は他の生徒にも睨まれてる?」
「さあ……? お前、さっそくなんかやらかしたのか」
「何もやってない――いや、朝……」
「朝?」
「何もない。俺は悪くない」
ひとり悩みだした蓮に関係なく、すぐに圭がその理由に思い至った。
「ああ、わかった。そこの席の奴、女子のファンが多いんだよ」
「もうひとつの理由もわかった……」
〝あの女〟が、未だ睨みつけてくる。相手にしないよう意識するものの、腹立たしい思いもあった。
――奴が、あることないこと周りに吹き込んだに違いない。
なんて女だ。奥ゆかしさのかけらもない。
そんなこんなで、なんだか訳がわからないうちに授業が終わった。
麗々先生は相変わらずの無表情のまま、手荷物をまとめながら言った。
「次までに、華院が今日のところをまとめておけ」
「無茶言うな」
「問答無用」
「…………」
理不尽な要求に抵抗したいところだが、そうはできない迫力があった
「ちっ」
今日、何度目かの舌打ちをすると、蓮はもはや仕方がないとあきらめ、席を立とうとした。
が、できなかった。
人の波が、押し寄せてくる。
「ちょっと、華院くんだっけ?」
髪の長い、シャープな感のある女子生徒が怒ったように話しかけてきた。
いや、明確に怒っている。
「なんだ」
「『なんだ』じゃない。そこ、霧谷くんの席なんだけど」
「きりや……? そんなことは知らん」
周りの女子が『横暴だ』『中途半端なイケメンのくせに』などと、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てる。
「黙れ、イケてない女ども」
「あー、失礼なこと言ってる!」
さらに誹謗中傷の声がひどくなった。蓮に、みずからが火に油をそそいだ自覚はない。
「ええい! どけ、ガキども!」
「ガキって、あんたも同世代でしょうが!」
囲みを突破しようとするが、幾重にも包囲網を形成した女子生徒たちが行く手を阻む。
そんな中、唯一、蓮をかばおうとする女子がいた。
もちろん、美柚ではない。
「みんな、華院くんは転校生なんだからそんなにきつく当たらなくても……」
やや幼く見える愛らしい顔にショートボブのよく似合う〈秦野 弥生〉だ。
普段はさほど口数の多いほうではないが、見るに見かねて声を上げた。
「でも、弥生。こいつの言動、聞いた? あんなの侮辱罪だよ、侮辱罪」
「だけど……」
「ま、確かに弥生の言うことにも一理あるけど」
すっと進み出てきたのは、周りよりもやや長身のスレンダーな女子生徒だった。
「あ、美柚さん」
「美柚でいいって言ってるでしょ?」
隣にいる弥生に、にこやかに微笑んだ美柚であったが、ターゲットに向き直るとその表情が般若のごとく変じた。
「だが、華院蓮」
「なんだ、猥褻女」
「な、何!? 言っていいことと悪いことがあるよ!」
「ふんっ、事実を語って何が悪い。貴様は破廉恥極まりない猥褻少女だ」
「こ、このっ……!」
「む!?」
頭をがしっと摑まれると、ガクガクと揺さぶられた。
「変態はあんたのほうでしょうが、変態は」
「なんだと?」
「本当なの、美柚?」
眉をひそめて先ほどの女、〈幸徳井〉 翔子が問うが、その目はなぜか期待に満ちあふれている。
「うん……朝、強制猥褻行為された……」
「なっ、うらやましい――じゃなくて、ひどい! 朝っぱらから!」
「変なこと言うな!」
激昂した蓮は、今度こそこの危地を脱出するべく強引に進み出た。
「どけっ、邪魔だ!」
「ちょっと押さないでよ!」
「あ、こらっ、蓮!」
「ひどい状況だな……」
後ろの席で一連のことを傍観していた圭のところにまで被害が及び、席ごと後方へ押しやられていく。
だが、蓮は構わず手を前に突き出して、脱出口を確保しようとした。
「道を空けろ!」
「やめてって!」
学校とは思えない怒号が錯綜する中、事件は起きた。
「やんっ」
この場に不似合いなかわいらしい声が、あまく響いた。
「うん?」
伸ばした腕の先にある右手は、しっかりと〝モノ〟を摑んでいた。
けっして大きくはないが、女性を感じるには十分なこの感触。
間違いない、これは男にとって目指すべき宝、神秘なる双丘の片割れだ。
「……あんた、何やってんの」
地獄の底から響いてくるかのような声が、硬直した蓮の耳朶を打った。
「こ、これは……」
「まさか本当に――」
「違う!」
――なんとかしてごまかさなければ。
もはやごまかしのきくような状況ではないことを、あわてて手を引っ込めた蓮はわかっていなかった。
「や、弥生のなら別にいいじゃないか」
「なんて言い草!」
「弥生は俺のものだ!」
場の空気が一瞬止まった。
「……間違えた。弥生はうちの親戚だ。お前らにとやかく言われる筋合いはない」
なぜか恥じらいながらもうれしそうな顔をしている弥生を除いて、周囲のほぼ全員が激昂した。
「そういう問題かっ!」
「う、うるさい。こ、これは俺と弥生の問題だ。部外者が口を出すな」
苦しい言い訳であることを本人が一番わかっているだけに、いつもの歯切れのよさがまるでない。
しかし、周囲の反応は予想外のものだった。
「え、付き合ってるの……?」
騒ぎが一瞬でやみ、今までとは異なる視線が戸惑う少年にそそがれた。
弥生まで、どこか期待に満ちた目を向けてくる。
「……いや、そういうわけでもないが……」
「だったら、駄目じゃん! この暴行男!」
真実を語ったというのに、なぜか弥生も怒った顔になって責めてきた。
窮地に追い込まれた蓮は、もはや強硬手段に打って出るしかなかった――すでに十分強行していたが。
「とにかく! 俺は悪くないっ!」
「悪に限ってそういうこと言う!」
「もう、なんとでも言え!」
成功するかどうかは関係ない。敵の包囲網を突破するべく、こころを無にして一気に突き進んだ。
だがこのとき、蓮は完全に失念していた。今は眼鏡のせいで体が思ったようには動かないことを。
――来た。
高速で動く凶悪な右手が飛んでくる。確認するまでもない、あの猥褻女のものだ。
それをすんでのところでかわし――たつもりだったのだが、目測を見誤って左の頬にそれをもろに受けてしまった。
派手な音が教室内に響くと同時に、バランスを崩した蓮が思いきり無様に転んで倒れ伏した。
「うくっ……!」
ひどい格好をさらしてしまった屈辱に、さすがの蓮も羞恥心で赤くなった。
残念ながら現実は、少年にさらなる試練を与えた。
顔をしかめながら顔だけ上げると、あまり見慣れぬものが目に飛び込んできた。
そばに林立する少女たちの美脚。
さらに振り仰いだ視線の先には――
「イヤっ、こいつ本当に変態!」
「事故だっ!」
スカートを押さえつつ飛びのいた少女たちに、男のつまらない弁明など届くはずもなかった。
殺意すら感じる敵意を受けながらも、蓮は健気に立ち上がった。
「ええいっ、もう付き合いきれん!」
理不尽にも自身が問答無用に暴れ出して、今度こそ多重包囲網を突破した。
教室の扉を開け、廊下に駆け出していく。
――なんで、こんなことに……
考えても答えが出るようなことではないとわかってはいるものの、つらく、切なく、腹立たしい。
――最低のクラスだ。
あの女がいる時点で最下位確定だが、よりにもよって似たようなのが数十人もいようとは。
悪夢のような事態だ。
だが、悪いことはつづくものだ。
今度は、前方にどこかで見た女がいた。
相手はこちらの姿を認めると、やわらかく微笑んだ。
「あ、来た来た」
「〈九宝 雛子〉……」
「そんな他人行儀な呼び方しないで。〝雛〟でいいよ」
廊下の窓に背を預けて立っていたのは、生徒会長の雛子だった。
「久しぶりね、蓮ちゃん」
「……変な呼び方するな」
「あれ? どうして。一緒にお風呂に入った仲じゃない」
「い、いつの話だ!」
幼なじみといえばそうなのだが、まさかこのタイミングで会うとは思ってもみなかった。
厄介なのに捕まってしまったかもしれない。
「あ。『厄介なのに捕まった』って考えた」
「そうだ」
「むぅ」
唇をとがらせた雛子は、すっと右手を前に出した
「そういうことなら、遠慮なく〝狩らせてもらう〟」
「む?」
手の中心に霊力が集中すると同時に光があふれ、すぐさま術が発動した。
輝きをまとったそれは、驚きのあまり突っ立っている蓮をあっという間に覆っていく。
――しまった。
と思ったときにはもう遅い。
――やられた。
見知った顔だからといって油断したうかつな自分を呪った。
「さっき美柚ちゃんから連絡があって、『校内に華院蓮っていう痴漢が現れたから逮捕しておいて』だって」
「…………」
「ごめんね、しばらくここにいて。ハンターの美柚ちゃんが来るまで」
「…………」
しかし、輝きが消えたあとも、蓮はいつものように動くことができた。
「あ、あれ?」
もう一度同じ術を試すものの、結果は同じだった。
――術が効かない?
驚いたのは蓮も同様だ。
これも眼鏡の影響だろうか。雛子は術者として優秀であるにもかかわらず、術がかかる気配すらなかった。
――いいんだか悪いんだか。
術を無効化するというのは、メリットもあるがデメリットもある。
相手の攻撃を受けたときはちょうどいいが、味方からの支援まで打ち消してしまう。
――集団で戦うときは注意しないとな。
ひとり警戒感を強めている蓮をよそに、雛子は妙なものを用意していた。
「効かないか――じゃあ、しょうがない。えいっ」
いっさい迷わず、どこからともなく取り出した荒縄で哀れな子羊を縛り上げた。
その手つきは驚くほど早く、わずかな無駄もない。蓮が抗議の声を上げることすらできなかった。
「……………………」
まともな身動きができないほどきっちりと緊縛され、蓮はその場に倒れ伏した。
罠にかかった獲物の元へ、ひたひたと足音が迫ってくる。
眼鏡をかけていてさえわかる。負の〈霊光〉に包まれたそれは、無を象徴する白衣をまとった死神だった。
「ここにいたか、A級戦犯」
「くっ……! 縄をほどけ、雛子!」
「雛って呼んで」
『呼べるかっ!』という言葉をのみ込んで、縄を外すべく抗うものの、かっちりと締めつけてあるそれは、ちっともゆるまなかった。
そうこうしているうちに、悪の死神がついに到着した。
「これで、やっと罰を与えることができる」
「それ以上近づくな」
「なんで?」
「なんでって……」
ぷいっと顔を背けて言いよどんだ蓮に、美柚は眉をひそめた。
「――あっ、また覗こうとしてる!」
「そうならないように忠告してやったんだ!」
「覗く?」
「ヒナ先輩、こいつ、女性の下半身の敵なんです」
「変な言い方するなッ!」
「ははぁ、わかった」
と、まるでわかっていない様子で、雛子が鷹揚にうなずいた。
「じゃあ、学校を案内してあげて」
「なんでそうなる!?」
「転校してきたばかりで、まだわからないことだらけだと思うから」
「わかりました、会長」
蓮の抗議などいっさい聞かず、二人はすみやかに話をまとめた。
「私はもう行くけど、蓮ちゃんはあまり周りに迷惑をかけないようにね」
「蓮ちゃん……?」
「ふふ、お互い体の隅々まで知り合った仲なんだよ」
「!?」
余計な言葉だけ残して、雛子は行ってしまった。
「蓮?」
「知らん、俺は知らん……」
面と向かって聞かれても、なんとも答えようがない。
「いいけどね、どうせあとで自白させるし」
「俺は犯人じゃない」
「犯人に限ってそう言う」
今は昼休みということもあって、いつの間にやら周囲に人だかりができていた。
その中心には、見事に縛り上げられた男子生徒と、縄の先端を持った女子生徒。
「や、やだ……。これじゃ、私、変態じゃない」
「変態ではないが凶暴だ」
「うるさい」
さあ、さっさと立て、と下手人を引っ立てた。
縛られたうえに最悪の監視人が現れてはどうしようもない。
周囲が不自然にざわつく中、いやおうもなく連行されていった。