Chapter 1 episode: Kai
授業中の静かな校舎内に、ペタ、ペタ、と上履きが床を打つ音が虚しく響く。
美柚から開放されたあと、外来向け出入り口から中に入った蓮は途方に暮れていた。
――校舎が大きすぎて、職員室がどこかわからない……
建物は見た目以上に奥行きがあって、階数も多い。気がつけば、ひとりコンクリートの中をさまよっていた。
――まさかこの眼鏡は方向感覚まで狂わせるのか!?
生来、方向音痴であることをすっかり棚に上げて、目的地が未だ見えない現実に戸惑った。
恥を忍んで位置を尋ねようにも、周囲には人の気配がまるでない。
結果、途方に暮れるしかなかった。
それでもあきらめずに進んでいくと、他の廊下より幅のあるやや開けたところに出た。
もはや、今何階なのかさえわからないが、状況がわずかでも変化したことに喜びを感じ、周りを改めて見回した。
向かって右側に、ずらりと無機的な扉が並んでいる。
明らかに教室という雰囲気ではない。
倉庫か、部室棟だろうか。表示が何もないことに違和感を覚えるが、少なくとも教室棟から離れたようで、内心ほっとした。
職員室に近づいているはず――そう信じたかった。
見知らぬ学校の見知らぬ校舎、その中を訳もわからず歩くというのは、さすがにわずかな不安を覚える。
我知らず慎重に歩いていると、前方に不自然な〝もの〟が現れた。
曲がり角からニョキッと出てきた手が、ゆっくりと『おいでおいで』している。
「……………………」
あまりの不自然さに、警戒心ばかりがつのっていく。
誰か他にいないのかと辺り一帯を見回しても、助け船を出してくれそうな人はいなかった。
逃げるのも怖いような気がして、逡巡してしまう。
視線の先では、怪しげな男の手が未だゆらゆらと動いている。
「…………」
あんな程度のものを警戒するのもばかばかしくなってきた。
苛立ちまぎれに舌打ちして、とりあえずそこまで行ってみることにした。気が進まないが。
すたすたと近づいていくと、ふとあることに気がついた。
――なんかデカい?
遠くから見たときにはわからなかったが、その手は意外と大きかった。
まぎれもなく男のものだが、まるで意図がわからない。
念のため荷物を置き、剣袋を右手に持ってゆっくり近づいていく。
あと三歩、というところで、肝心の手がすっと消えた。
「?」
――気配も消えた?
あえて内側の壁に沿ってゆっくり進む。
先に剣袋の先端だけ出し、反応がないことを確認してから片目だけでのぞき込んだ。
――いない。
と思った次の刹那、強烈な力で左の肩を摑まれた。
――何っ!?
急ぎ振り返ると、背後に黒髪の大男が立っていた。
「こんな時間に校内をうろちょろしているなんていい度胸だ」
細面の顔にあか抜けない眼鏡をかけ、その奥に見える瞳はなぜか暗い。
「ちっ」
驚きで動きを止めてしまった自分を呪いながら、すぐさま反転して距離をとろうとした。
が、動かない。
「じたばたするな、問題児」
「問題児じゃない」
「問題児に限ってそういうことを言う」
うっと詰まったことを悟られないように、すぐに言葉を発した。
「……そっちこそ、なんだ」
「教員だ。さぼりは許さん」
「さぼってない。今日、転校してきたんだ」
「な、何?」
「放せ、大男」
「先生と呼びなさい。……しかし、また早とちりか」
あいつに怒られそうだ、などとブツブツ言いながら、男は蓮の肩からようやく手を離した。
「ところで」
と、蓮。
「職員室はどこだ」
「聞き方というものがあるだろう。親の顔が見てみたい」
「母親はしっかりしている」
「父親は駄目ということか」
「ああ」
「なんか不憫だな……」
指先で眼鏡の位置を直しながら、少年の父とやらに同情した。
「君は道に迷ったのか? 学校で? いい歳して恥ずかしいと思わないか」
「うるさい。初めて来たところだ。道に迷うのに年齢なんて関係ない」
「まあ、そういうことにしておこう。職員室はこの先だ」
「見ればわかる」
角を曲がった先が、まさに職員室だった。きちんと表示されている。
「口の減らない奴だな。姉弟の顔も見てみたい」
「うるさい。その話はするな」
『あれ?』、と蓮は首を傾げた。
――なぜ、姉弟がいることを知っている?
「おい……」
振り返ると、その姿はすでになかった。
――霊力は感じなかったが、さっきの動き――
警戒していたのに後ろをとられ、今また〝消えた〟。
――霊力は感じなかった?
そんなはずはない。それを自在に扱えるかはともかくとして、どんな存在にもかならず一定の霊的な力があるはず。
――やっぱり、この眼鏡のせいなのか。
すべて眼鏡の影響なのか、それとも。
――師匠。この眼鏡、なんなんですか……
蓮は少し疲れた様子で、職員室へつづく廊下をひとり歩いていった。
そんな少年の後ろ姿を、〔窓外から〕見送る影があった。
「大きくなったな、蓮」
大男、夏目 戒は、静かに口の端に笑みを浮かべた。