Chapter 1 episode: Boy meets......
あたたかい風を受けて揺れる新緑が目にまぶしい。
朝の住宅街は独特のざわめきを残しつつも静かで、まだ町が目を覚ましきっていないことをうかがわせる。
平和だった。
取り立てて何か変化があるわけでもなく、特徴がないのが特徴だとでもいうべき場所。
嫌いではなかった。
このゆるい空気を感じると、『ああ、日本へ帰ってきたんだ』と感慨さえ覚える。
が、綺麗に舗装されたアスファルトの道を歩く少年、〈華院 蓮〉には、周囲の状況がそれほどはっきりとは見えていなかった。
すべてが、ぼんやりとしている。
視覚に問題があるわけでも、視野が遮られているわけでもない。そもそも、映像としての周囲の様子はしっかりととらえていた。
だが、いつも見えるはずのものが見えない。
霊気の波動だ。
言い換えれば、霊力の流れ。普段は意識しなくても認識できるというのに、今はわずかな気配すらわからない。
結果、道を歩く猫にすら違和感を覚えてしまう。
万物に宿る霊気を感知できないということは、五感のひとつを奪われるに等しい。
最初はこの異様な感覚に、吐き気さえ催したほどだ。ひとつの感覚が失われただけでなく、それによってすべての感知能力のバランスが崩れてしまった。
「それもこれも、この……この……この……」
両手でフレームを摑んで無理やり外そうとするが、〝それ〟はびくともしなかった。
蓮の鼻の上には、黒縁の眼鏡が乗っかっていた。
『今どき、これはないだろう』というくらい縁が太く、またデカい。
レンズも異様なほど分厚く、これでは昔のマンガのようだ。
「師匠め、いったいなんのつもりで……」
〝これには意味がある。いつかきっと役に立つから、だまされたと思ってつけておきなさい〟
と言うからかけてみたものの、まさか外れなくなるとは。
だまされた。
しかも、想定外の副作用まである。
「ちっ」
思わず舌打ちしてしまうが、もはやどうしようもない。師匠のことだから、自分にしか解けないようにしているに違いない。きっとそうだ。
いら立たしいが、逆らうこともできない。すべてをあきらめて、服従する他なかった。
「……なんだ?」
進行方向の左手に、ごくオーソドックスな和風の家屋が見えた。その庭にある、住宅地には不似合いなケヤキの大木が、なぜかガサゴソと揺れている。
いぶかしみながら近づいていくと、その原因はすぐにわかった。
――樹上に……女子高生?
白のブレザーに、白のスカート。やや風変わりな制服だが、自分が着ている物とデザインのベースは同じだった。
その胸元と背中で、長い黒髪が踊っている。冬服からのぞく顔は、やや上気して頬がほんのり赤みがかっている。
「動かないでよ~、今助けてあげるからね」
などと言っている彼女の視線の先を追うと、幹から横に伸びる枝の先で子猫が震えていた。
高いところへ登ったものの、怖くて下りられなくなったようだ。
――わざわざ間抜けな猫を助けるために?
酔狂なものだ、と思う。
――というかこの女、下着が丸見えなのだが……
もろに見える〝それ〟に、こちらのほうが恥ずかしくなってくる。
現代の少年にあるまじき純真さで顔を赤くした蓮は、みずから目を背けた。
――まったく、最近の女は……
それでも年頃の男の子らしい本音で、再びちらりと上方をうかがうと、例の女はすでに子猫の直前まで来ていた。
「そのまま、そのまま……」
じっと見つめ返す子猫に、ゆっくりと手を伸ばしていく。
蓮まで少し緊張して見ているなかで、ようやく女の手の中に子猫がおさまった。
いとおしげにそれを包み込むと、彼女はおもむろに立ち上がった。
「は?」
唖然となった蓮の視線の先で、驚くべきことが展開された。
女は枝の上でバランスを崩しもせず、器用にすたすたと歩いていく。綱渡りのようですらなく、まるで普通に道の上を進むかのように。
――なぜ〝歩く〟!?
木登りして枝の上を歩くなど聞いたこともない。猿でさえ四つの手足を使うというのに。危なっかしいことこの上なかった。
下でひとりハラハラしていると、半分予想どおりの、半分違和感を覚える出来事が起きた。
「!?」
突然、上で強い風が吹きつけたかと思うと、女の立っていた枝が大きくしなった。
すぐに、彼女の右足がまず落ちた。
「えっ、嘘!?」
「ちっ」
舌打ちをしつつも蓮がすぐさま駆け出し、鞄を放り出した。
――おかしいだろ。
確かに、風というのは自然現象だ。だが今のは、あの女の周りにだけ突風が吹き、周囲の木々はまるで揺れていなかった。
――ちくしょう、この眼鏡さえなければ。
〝術〟だろうか。いつもなら霊気のわずかな揺らぎさえも見逃すはずはないのだが、現状では明確な霊力さえ察知できない。
蓮が歯噛みする前で、女の体が完全に宙に放り出された。
猫を抱きしめた彼女は、背中からあからさまに落ちていく。
「ばか! 猫を放せ!」
あれではまったく受け身が取れないじゃないか!
その声が届く様子はまったくなかった。逆に子猫をきつく抱きしめ、地面に叩きつけられるのを覚悟したか、ぎゅっと目を閉じた。
だが、先に地へ倒れ伏したのは彼女のほうではなかった。
「え?」
蓮の間抜けな声が上がった。
右足のつま先が大木の根に引っかかり、体勢が完全に前のめりになる。
無様なことはすまい、と意地で左脚を踏んばって現状の打開を目指すが、そこへとどめの一撃が降ってきた。
「むぎゅっ」
ひたすらに情けない悲鳴を上げ、蓮は下へ押しつぶされた。その上には、きょとんとした女が座っている。
「あ、あれ?」
「……『あれ?』じゃない。さっさとどけ」
「ああ、ごめん」
子猫の無事を確認しながら、そそくさとクッションがわりの男の背から女が降りると、蓮は新調した制服についたほこりを払いながら立ち上がった。
――なんなんだ、いったい。
違和感ばかりがつのる。自分が見事にコケたことはともかくとして、またしても今、おかしなことが起きた。
重くなかった。
いや、そもそもそんな感想が出てくることが不自然だ。
あれだけの高さから人ひとりがもろに落ちた。ならば、下で受け止めたとき、相当の衝撃があるはずだった。
――こいつ、術者なのか?
霊気を集め、それを〝力〟に変換する能力。それをなしえるのは、ごくわずかの存在のみ。
「な、何? そんなに私のこと見つめて」
「…………」
はっとして気がつくと、相手の顔をまじまじと見つめてしてしまっていた。女が頬を赤らめ、もじもじとしている。
――しまった、日本男児にあるまじきことを。
昼日中に年頃の女性へぶしつけな視線を向けるなど、失礼にも程がある。おのれに恥じるような真似をするなかれ、と自分を厳しく戒めた。
それより、
「お前、誰かに襲われたことはないか?」
「お、襲われ……!? 襲うんだったら、夜にしてよね……」
「は?」
なぜかこれまで以上に恥じらった様子でうつむき、腕の中の子猫をぎゅっと抱きしめた。
――まあ、いい。いちいちかかわる意味などない。
他人のことなんて知ったことじゃない。
この地に〝常ならぬ者〟が多いことも初めからわかっている。
そのために自分はここへ来た。
〔手がかり〕が多いはずだという師匠の言葉を信じて。
「…………」
蓮はぷいっとそっぽを向くと、落ちていたみずからの鞄を拾い上げて、さっさと歩きだした。
「あ、ちょっと待ってよ」
「なんだ?」
「助けてくれて、ありがと」
「助けてなんかいない。自分でなんとかしたんだろう?」
「は?」
「は?」
女は狐につままれたような顔をしている。ごまかしている雰囲気はない。
――じゃあ、誰がやったんだ。
さり気なく周囲を見渡してみるものの、少なくとも近くに人の気配はなかった。
――どっちみち、今の俺じゃわからないか。
心中で自嘲気味に笑うと、今度こそきびすを返して立ち去ることにした。
「ちょっと待ってって」
「なぜ俺が待つ必要がある」
「君、うちの学校でしょ。だったら一緒に行けばいいじゃん」
「学校が同じでも、一緒に行く必要はない」
「なんで、そう強情? こんな美人が誘っているのに」
「本当の性格美人はそんなこと言わない。お前は性格ブスだ」
「な・に?」
相手の気配が、カチリ、と切り替わった。
怯えた子猫が腕からするりと逃れ、家の縁の下へ年不相応な猛スピードで走っていった。
「初対面に対して言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「俺は事実を語ったまでだ。それを受け止められないというなら、お前はそれまでの女だ」
「失礼な奴……。私のパンツ、見てたくせに! この変態眼鏡!」
「へ、変態!? 貴様、言っていいことと悪いことがあるぞ……」
「あ、やっと私の気持ちがわかった?」
「大体、公衆の面前であんなものをさらすなんて猥褻物陳列罪だ! 見たくもない物を見せられたほうの身にもなってみろ、この変態女」
「言うに事欠いて犯罪者扱い……。ちらちらやらしい目で見てたの気づいてないとでも思った!?」
「大きい声で変なこと言うな! 必然的に見えてしまっただけだ!」
「やっぱり、見てたんじゃない!」
事実だ。
「だ、黙れ、女。貴様のような見せたがりの破廉恥な奴と交わす言葉などない」
「…………」
女の顔から表情が消えた。
瞬間、彼女のシルエットがフッとぶれた。
――まずい!
反射的に悟った。この速さは尋常ではない!
すぐに対応しなければ、最悪の事態を招きかねない。
蓮は考えるより先に体を動かし、体勢が乱れるのもおかまいなしに横へ跳んだ。
――む?
しかし直後、予想外のことが起きた。
――体がついてこない……
これが、眼鏡の副作用だった。
自身の霊力が封じられただけでなく、運動神経までどこかおかしくなってしまった。
さっき転んだのもそのせいだ。いつもなら考えられないことだった。
――ほんとに動かないな。
遅すぎる自分の体の反応を、正常な頭がなかば呆れて眺めている。
――あの女は――
目だけ横へ動かすと、すでにこちらの背後をとっていた。いいフォームで右足を振り上げた。
もう駄目だ、とすべてをあきらめた直後、予想どおりすぎる激しい衝撃が背中から伝わってきた。
「あ、あれ!?」
女の声が聞こえると同時に、塀に顔から激突し、間を置いてずるずると下へ落ちていった。
「ちょ、ちょっと大丈夫!?」
大丈夫なわけあるか、と文句を言いたいが、口を開く余裕すらなく、そのままあまりに情けない姿で大地に突っ伏した。
「ごめん! こんなにきれいに入るとは思わなくて!」
女があわてて蓮を助け起こし、弁明した。
「あれだけ思いっきり蹴りを入れておいてよく言う……」
「だって、もっとスポーツができる感じだと思ったから。あんた、見かけによらず鈍いんだね」
「違う! 訳があって、今は……その、うまく動かないだけだ」
「どうやったら元に戻るの?」
「そ、それは……」
『眼鏡を外したら』なんて言おうものなら笑われてしまう。
蓮がどう説明したものかと思案していると、家の雨戸がおもむろに開けられた。
――そういえば、ここ、他人の家だった。
縁側に姿を見せたのは、浴衣姿の男だった。短めの髪が方々へはねている。
風貌は明らかに若かった。自分たちと同じくらいだろうか。
だが、なぜか相手も女も驚いていなかった。
「あ、美柚ちゃん」
「おはよ、大樹くん」
「おはよ……って、え!? あ、な、なんで朝から〝愛の劇場〟!?」
美柚と呼ばれた女子生徒が、撃沈された蓮を抱きかかえる格好になっている。
「ち、違うよ! ただ……偶然出会っただけだから……」
「あからさまに照れながら言わないでよ! ど、どいうこと!? つか、てめえ誰だッ!」
裸足のまま庭に降り立った大樹が、まだ立ち上がれない蓮に掴みかかった。
反論する気力すらない蓮は、されるがまま揺さぶられた。
「あ、駄目! 今、体の調子が悪いから」
「誰のせいだと思ってる……」
「なんかよく状況がわかんないんだけど、何があったの?」
「不幸な事故」
「ふ、不幸な事故で済ますのか……あれを……。故意の暴力――ぐふっ」
今度は腹部に素早い一撃を叩き込まれ、蓮は再び力を失った。
笑顔で拳を振るった美柚に恐れをなし、大樹はもうあえて深く突っ込むことはすまいとこころに誓った。
「……ま、まあ、ともかく、そもそもなんで制服着て、こんなとこに?」
「なんでって学校行くんでしょ」
「え? 今日、日曜日でしょ」
「月曜日」
「…………」
しばらく、ぽかんと間の抜けた顔で口を開けていたが、カッと目を見開くと打たれたように動きだした。
「やべえ! ど、ど、どうしよう!? せ、先生に殺される……」
「急げ、前田 大樹」
「い、急ぐ!」
「じゃあ、私たちも行く」
「『たち』って言うな……。俺のことは放っておいてくれ……」
美柚が肩を貸してぐったりとした蓮を立ち上がらせると、当の男から抗議の声が上がるが、無視した。
許せないのは、大樹のほうだった。
「美柚ちゃんがそんなことする必要ないよ! 俺が連行するから!」
「俺は犯人か……」
「でも、学校行く準備はどうするの」
「ああ、そうか! もう、こんな奴さえいなければ!」
まったく、なんで得体の知れない男が美柚ちゃんとベタベタと――とは思うのだが、それどころではなくなった。
浴衣を振り乱して家の中へ駆け込んでいく大樹をしり目に、美柚も移動を開始した。
「放せ……暴力女……」
「まだ動けないんでしょ。遅刻しちゃうよ」
「もう、十分遅い。俺は、遅れてきてもいいと言われている」
「えっ、なんで!?」
「今日転校してきた」
「ずるい! ねえ、転校生に学校を案内してたってことにしてよ」
「知らん」
「けち」
「うるさい奴だな。最近の女は、慎みというものを知らん」
「……また蹴られたいの?」
びくりと体を震わせた兎に満足し、男ひとりに寄りかかられているというのに、美柚はすたすたと歩いていった。
「今日は朝から最悪だ……厄日だ……」
「ごめんって謝ってるでしょ。っていうか、あんたが失礼なこと言ったのが原因じゃない」
「お前が先だ」
「『お前』って言うな。あ、でも、蓮ならいいけど」
「は?」
――って、それより。
ふと、違和感を覚えた。
「なぜ、俺の名を知っている?」
「さっき自分で言ったでしょ」
――そうだったか?
釈然としないものを感じたが、あまり気にしても意味はないとも思えた。
「おい、いい加減に放せ。もう大丈夫だ」
「足が震えてるじゃない」
「ああ、どっかの礼儀知らずのせいでな」
「まだ言う?」
「お前は女らしくない女だ」
「…………」
――殺気!
すぐさま回避行動に移る。
案の定、体の反応そのものはおそろしく鈍いが、今度はかまわず足に力を込めて横へ跳んだ。
耳の横を、寒気がするほどの速度で何かが通り過ぎた。
――よし、かわした。
体が持つ本来のパワーは、衰えてはいないらしい。対応は遅れるものの、力で強引に全身を動かし、今の一撃をよけることができた。
美柚は、やや不満げな顔で逃げた兎を睨みつけた。
「殴るよ」
「腕を思いっきり振りきってから言うな」
「あんた、女、女っていうけど、蓮だって男らしくないじゃん」
「なんだと?」
「本当の男らしい男だったら、女子にそんな失礼な言葉、言わないと思うけど」
ぐっ。
――言い返せない。
こういうときは、たとえ強引でも話題を変えるしかない。そうだ、そうしよう。
「お前、その体術、どこで憶えたんだ。武術か」
「ぶじゅつ? ただの我流だけど」
――我流であれだと?
にわかには信じがたい。確かに荒削りではあるものの、動きに素人のような無駄はなく、理にかなっていた。
本当に生まれ持ったセンスだけでこの領域に達したとでもいうのか。
「ほら、やっぱりまだ足がふらついている」
「お前の拳のせいだ!」
「もう、強がらないで」
ふっと動いたかと思うと、次の瞬間には奴は隣にいた。
――この速さはなんなんだ……
呆れているうちにがっちり肩を摑まれ、元の木阿弥だ。
もうどうにでもしてくれとヤケになって歩きだしたものの、時間がたつにつれ、少しずつ羞恥心が込み上げてきた。
「人に見られたらどうする。こんな昼日中、その、女なんかと」
「『女なんか』って言わない。それに、ふらふらの人を放っておくことのほうがもっと恥ずかしいよ」
――それもそうか。
「って、主犯がよく言う」
「うるさい。過失致傷なの!」
そんな理屈あるか、とも思うが、もはや不毛なので何も言わずにおいた。
身内でもない女が真横にいて、しかも自分に触れていると思うと、妙な気分になってくる。
隣からいやおうなく漂ってくる女特有の甘い香りが鼻腔をくすぐり、腕を通して伝わってくる体の感触はどうしようもなくやわらかかった。
――むぅ。
この状況を楽しむことも拒絶することもできないのは、一種の拷問だった。
けっして理不尽ではない視線を美柚という名の女に向けると、こちらのことを意識した様子もなく淡々と歩を進めていた。
「…………」
――きれいじゃないか。
息がかかりそうな距離にいる彼女の横顔は澄んでいた。
整った顔立ちはややもすると冷たい印象を人に与えるものだが、この女はどこか明るさがあった。
「ん?」
「…………」
すぐさまぷいっとそっぽを向き、なぜか不機嫌そうな顔をしている蓮を、今度は美柚が見つめる番だった。
まだ怒っているのだろうか、どこか落ち着かない様子で自分と目を合わそうとしない。
――目。
さり気なく見ると、彼の黒の瞳は深く、凛とした強さがあった。
今どきの男の子にはない迫力。その波動は、これまであまり感じたことのないものだった。
「おい」
「…………」
「おい!」
「ひゃいっ!?」
自分でも不思議なほど熱心に見つめていたところへ訪れた不意の横からの声に、文字どおり飛び跳ねた。
「お、驚かさないでよ!」
「なぜ驚く?」
「な、なぜって……女の子に突っ込んだこと聞かない!」
「なぜ怒る?」
「うっさい!」
ひどく不機嫌になってしまった女に困惑した蓮は、あからさまに眉をひそめた。
「まったく……最近の女は……意味不明……八つ当たり……暴力……」
「ブツブツ言わない、最近の男」
「お前は扱いにくい女だ」
「こいつ……!」
はっきり言ってきやがった相手を、キッと睨みつけた。
「ん?」
ふと気がつくと、眼鏡の奥に見える瞳がやけに気になった。
「あれ? 意外とイケメン?」
「いけめん? なんだ、それは」
「ちょっと眼鏡とってみてよ」
「あ」
美柚がすっと手を伸ばしてきた。
――とれるはずが――
「え?」
細い指先でフレームを摑み、軽く手を引くと、いとも簡単に顔から黒い縁が離れていった。
その瞬間、蓮の内側から力が弾けた。
今まで無理やり抑え込まれていた霊力が開放され、周囲の家屋までをも震わせる。
――よし!
体の奥底から力がみなぎり、感覚がいつもの正常なものへ戻っていくのを肌で感じる。
周囲の霊気も確実に感じ取れる。
眼鏡を外せば本当に元に戻るのか不安があったが、問題ないことをこれで確認できた。
「あれ? 雰囲気変わった?」
「当然だ。これが本当の俺だ」
どきっと、瞬間的に美柚の胸が高鳴った。
――何? さっきと全然違う。
自信満々に言う蓮を見ていると、勝手に顔が紅潮してくる。自分の肩から離れていく彼を、黒の眼鏡を手でいらいながら見送った。
「もう大丈夫だ。俺は行く」
「あ、ちょっと! 眼鏡どうすんの」
「む? ……捨ててくれ!」
「は? 捨てちゃっていいの?」
「ああ、師匠には悪いが……いや、元々師匠が悪いんだが……とにかくいらん」
「じゃあ、私がもらって――」
「駄目だッ!」
「な、何?」
いきなり激昂した蓮に、さすがの美柚もたじろいだ。
「それは、危険極まりない代物だ。かならず廃棄処分しなければならない」
「もったいないじゃない」
「いいから、徹底的に破壊したうえで捨てておけ!」
「命令口調で言って逃げるな!」
情けないほどあからさまに逃走を図る男の捕獲を試みるが、伸ばした手は虚しく空を切った。
その直後、反対側の手から例の眼鏡がするりと離れ、標的へ一直線に飛んでいった。
「なんだとっ!?」
――左か!
襲いくる敵の動きを予測し、体をよじって最初の一撃はかわした。
――やるしかないのか。
敵は、想像以上に速い。思いきった対応をしなければ、こちらがやられる。
迎撃する。そう決めた。
「すまん、師匠!」
鞄を一時下に置くと、肩に担いでいた〈剣袋〉を両手に持ち、襲いくる黒い物体に向き直った。
――こんなところで〝力〟を使うわけにもいかない
剣を抜くか、術を使えば、たとえ師匠の作でも破壊は可能だろうが、昼日中に、しかもあの女が見ている前でそれをやるわけにもいかない。
――だが、これで十分。
剣袋に包まれたままの愛刀を、正眼から迷わず振り下ろした。
しかし、最初から当てが外れた。
認識できないほどの速さで、黒縁眼鏡が一瞬のうちに左へ移動した。
青みがかった紫色の剣袋が、何もない空間を斬っていく。
「かわされた!?」
気がついたときにはもう、背後に回られている。
「ちっ!」
振り向きざまに横薙ぎの一撃を見舞うものの、またしても手応えはない。
また、後ろに気配。
――この動き……
憶えがある。何をしても背後をとられてしまう一連の所作。
どんなに工夫をしても、どんなに反応を早めても、相手の動きについていくことすら難しい。
――さすがは師匠のつくった〝霊宝〟。
剣の達人であり、霊宝・霊具づくりの名人でもある師は、たいていのものは自分で生み出す。
霊具には作り手の魂が宿るといわれるが、本当に今、目の前に師匠がいるかのようだ。
――師匠が初めから狙ってつくったのかもしれないけどな。
だったら、なおさら負けられない。
こちらの顔めがけて迫り来る眼鏡をサイドステップでかわし、近くにあった民家の壁を蹴ってさらに距離をとる。
だが、敵の動きは予測を軽く超えていた。
「!?」
一度は完全に振り切ったはずが、真正面になぜかいる。
「しまっ――!」
視界の隅にあるもうひとつの眼鏡が、すうっと消えていく。
――幻術まで使うのか!
気づいたときは、もう遅かった。
絶望的な思いのなかで、眼鏡がゆっくりと定位置におさまっていく。
抗うことも、逃げることも、もはやできない。
――さらば、我が自由。
完全に落ち着いた瞬間、〝魔鏡〟が本来の効果を発動し、常人には見えない霊力の膜が哀れな子羊をすっぽりと覆った。
直後、蓮は出来の悪い人形のごとく、おそろしく派手に転んだ。
「大丈夫?」
「…………」
今ばかりは、何も答える気になれない。
ほこりだらけになった腕を虚ろな目で見つめ、のんきに隣を通り過ぎてゆくデブ猫をうらやましげに見送った。
「ドジだなぁ」
「なんとでも言ってくれ……」
再び、美柚の肩を借りて立ち上がりながら、足元の剣袋を拾い上げ、担ぎ直した。
「さっきの何? なんかの手品?」
「……俺の得意技だ」
「あ、そう」
あまり疑った様子もなく、あっさりと納得した。元からたいして興味もないらしい。
「それより、蓮って剣道部にでも入るつもりなの?」
「……なぜ、そう思う?」
「それ、木刀が入ってるんでしょ」
彼女の切れ長の目に映っているのは、青紫の剣袋だった。
「なぜ木刀だと?」
「だって曲線になってる」
「それはそうだが……」
――普通、女子がそんなことに気づくか?
怪訝なものを感じながらも、あえてそこには触れないことにした。こちらも突っ込まれるとまずいことがある。
「部活に入るつもりはない。他にやることがある」
「他って何?」
「勉強だ」
「へー、頭いいんだ。意外」
「逆だ。悪いからやるんだ」
「威張って言うな」
美柚が、呆れたように目を細めた。
「じゃあ、お前はできるのか」
「そ、それは……あ、ほら、〝学園タウン〟が見えてきた」
強引なごまかしだが、蓮は彼女が指し示す方角を見た。
「ここか――」
見えるのは学校の校舎、ではなく、横にも縦にも長くつづく階段だった。
「〝神楽坂学園タウン〟」
「そ。けっこうすごいでしょ」
「すごいも何も、全体が見えないからわからん」
「全体なんて、山の上にでも登らなきゃ見えないよ」
この山あいの丘陵地にあるのは、複数の学校法人を統合した巨大教育施設だ。
少子化による児童数減少に苦しむ神楽坂市内の学校を救済し、過疎化・高齢化に苦しむ地元の平均年齢を強引に引き下げる目的もあって、市北部の一帯を丸ごと各学校の敷地としたのだった。
その効果は、関係者の予想を超えるものがあった。
市内の各地に分散していた学校を一カ所に集めたことにより、各種インフラへの設備投資を減らすことができ、また、学校同士の物理的な距離が極小化したことで、人材・物資などを臨機応変に融通し合うことができるようになった。
当初は『税金の無駄づかい』と揶揄された新校舎の設立も、結果的には地元の建設業を潤し、若年層に新たな雇用を生み出すことによって、図らずも経済の活性化につながった。
生徒は卒業後も地元に残る者が多く、『外から来る学生によって市の平均年齢を下げても意味がない』という意見とは裏腹に、地域の若返りは着実に進んでいた。
民間でも、学生目当てのビジネスが沸騰し、若者向けの店舗が増え、空室が目立っていたテナントも、今ではスペースが足らなくなっているほどだ。
国によるモデル都市ではないというのに、全国各地で〝教育による地域活性化の典型的な成功モデル〟と呼ばれていた。
そんな地域に住み、学園タウンの一員となれたことを、美柚は誇りに感じていた。
「高校だけでも十二以上はあるからね。まだ増えるらしいし」
「小規模な学校が寄り集まってるだけだ」
「それはそうだけど、町がひとつ丸ごと学園なんだよ? それだけでもすごいじゃない」
「確かに、すごい」
「でしょ!」
――すごい霊気だ。
いや、霊気というより〝妖気〟と呼んだほうが正確かもしれない。
あまりにも多くの〝気〟が渾然一体となって、訳がわからないほどだ。
この眼鏡をかけていてさえこれなのだから、実際の強さはいかばかりか。
「だから、人の多いところは嫌なんだ……」
「何?」
「なんでもない」
世の中、善人ばかりではない。
善と悪の比率は、その概念そのものが相対的ゆえに、いつの時代、どの地域でもたいして変わらないのだろうが、人が多ければ多いほど悪の絶対数は増える。
しかも、それらは単純な足し算では済まない。人は人に影響されていく。
その流れがプラスの方向へ向かえばいいが、ひとたびマイナスの方向へ向かえば、その強さは指数関数的に増していく。
光には光の強さがあるが、闇には闇の魅力がある。
――どちらかといえば、人は闇に惹かれやすい。
「早く行こ。完全に遅刻だよ」
「遅刻というか、もう三時間目だぞ……」
美柚に腕を摑まれ、強引に引きずられていくなかで、蓮は内心、警戒心を強めていた。
――結界か。
眼鏡の影響など関係なくわかる。強い霊気が渦巻き、周囲一帯を完全に覆っている。
――俺、入れるか?
緊張感が高まっていくのが自分でもわかる。
弾かれたらどうなるのか、予測がまるでつかない。結界の縁に触れた途端、問答無用で消滅する可能性さえあった。
美柚に悟られないよう全身を強張らせ、警戒感をMAXにまで高める。
「何、硬くなってるの? あれ? まさか緊張してる?」
「うるさい」
バレた。
気にせずそのまま進むと、その境界に達した。
――来るか。
見えない壁にいつぶつかるともしれないというのは、ぞっとしないことだ。だが、逃げていても意味はなく、思いきって飛び込むしかなかった。
境界が淡く輝いているのが見える。
右足を上げ、ゆっくりとその内側へ入れた。
――うん?
一瞬だけ、わずかな抵抗を感じた。直後、全身が負荷もなくするりと通った。
拍子抜けするほど、何もなかった。すべては取り越し苦労だったのか?
――いや。
原因はすぐにわかった。
この眼鏡だ。装着者の霊力を強引に抑えつけているがために、この自分でも強力な結界を通ることができた。
でなくば――動きが取れなくなっていただろう。
自分だからこそ。
――師匠、まさかこのために?
「どうしたの?」
「なんでもないと言っている。それより、手を放せ」
「また転ぶんじゃないの?」
「うるさい。もう、さすがに自分で行く」
「でも、どれが〝〈白鳳〉高校〟の校舎か、わかってる?」
「…………」
敷地が広すぎ、建物が多すぎる。方向音痴ではないが、目標地点に無事到達できるかどうか怪しかった。
「ほら、一緒に行く」
「…………」
今度は手をがしっと摑まれ、ずるずると引きずられていく。もはや、観念して身を任す他なかった。
まるでイタリアの観光都市にあるかのような、シンプルではあるものの美しい装飾が外壁に施された建物のひとつが、徐々に近づいてきた。
その屋根には、おそろしく目立つ巨大な彫刻がある。
羽の豊かな両の翼を広げ、今にも飛び立たんとしている、つがいの大鳥。その細長い首の先にある頭は、アジア的な趣があった。
「鳳凰、か」
「そう、どこからでもよく見えるでしょ」
「だったら、どれが校舎か誰が見たってわかるじゃないか」
白鳳高校。そのままだ。
「男が細かいこと言わない」
「細かい、か?」
こちらのこともお構いなしに、女帝気質の女はさらに進んでいく。いつの間にか、また腕をからめ取られてしまっていた。
「俺は職員室へ行く。放せ」
「えっ、私にひとりで教室行けっていうの?」
「俺を共犯にするな。だいたい、俺は転校初日だから、午後からの登校でもよかった」
「ずるい!」
「ずるくない。少なくとも俺は遅刻じゃない。恥をかくのはお前だけだ」
「こいつ……。別に恥ずかしくないけど」
「常習犯か……。って、そもそも同じクラスかどうかわからないじゃないか」
「うぅん、同じ」
「は?」
「同じだよ。私にはわかる」
美柚は、確信に満ちた目で言い切った。
「こういうときの私の勘、外れたことがない」
「……ふん、俺にはどういうでもいいことだが」
突き放した捨て台詞を吐いて、荷物を担ぎ直した蓮はあっさりと離れていった。
あとには、ぽつんと取り残された少女がひとり。
「――何よ」
明確な寂しさを感じながらも、美柚はどこかで彼とつながったようなあたたかいものも感じていた。