マテオ・バルガス
その男と会ったのは、東京に雪が降った夜だった。
仕事帰りにふらりと入ったバーで、私はカウンターの端に座る男と隣り合わせになった。
黒いシャツに革のジャケット。日に焼けた顔。無精髭。日本人ではないことだけはすぐに分かった。
男はテキーラを飲んでいた。
「メキシコの人?」
私が聞くと、男はグラスを置いた。
「そうだ」
「やっぱり」
それだけの会話だった。
しばらくして、男が胸元から小さな木札を取り出した。
古い御守りのようだった。
「日本のもの?」
「ああ」
「旅行のお土産ですか」
男は木札を見つめたまま答えた。
「命の恩人だ」
少し変な言い方だった。
私は笑いそうになったが、男の顔があまりに真剣だったのでやめた。
「それ、そんなに大事なものなんですか?」
「俺にとってはな」
「何か思い入れでも?」
男はしばらく黙っていた。
やがて言った。
「悪魔から俺を守った」
私は思わず男の顔を見た。
酔っているのかと思った。
「……悪魔?」
「ああ」
「メキシコの伝承か何か?」
「伝承だと思っていた」
男はグラスを回した。
「名前はエル・オルビダード」
聞いたことのない名前だった。
「どういう悪魔?」
「人間を殺す」
「それだけ?」
「それだけなら、まだよかった」
男はそう言った。
そして話し始めた。
そいつは、人間を殺したあと、その人間の存在を他人の記憶から消す。
家族を殺された者は、家族の存在そのものを忘れる。
友人を殺されても、その友人を知らなかったことになる。
「つまり、記憶喪失?」
「違う」
男は首を振った。
「奴に関する記憶だけが消える」
私はしばらく考えた。
「……それなら、証拠が残っているんじゃないですか?」
「残る」
「写真とか?」
「残る」
「じゃあ、写真を見れば思い出すでしょう」
「写真を見ても、その人物が誰なのか分からない」
そこまで聞いて、私は少し困った。
「悪いけど、それはちょっと信じにくいな」
「そうだろうな」
男は怒らなかった。
「俺も最初は信じなかった」
彼はテキーラを一口飲んだ。
そして、自分の家族の話をした。
妻と子供。
近所に住んでいた人たち。
幼い頃から知っていた友人たち。
皆、悪魔に殺された。
「俺だけが覚えていた」
「どうして?」
男は木札を指で撫でた。
「これを持っていたからだと思う」
「……それを?」
「ああ」
「たまたま?」
「たまたまだ」
私は木札を見た。
ずいぶん古そうだった。
「どこで買ったんです?」
「メキシコの古物店」
「日本のものなのに?」
「店主は日本のものだとは知らなかった」
そこで私は少し興味が湧いた。
「じゃあ、それで日本に来たんですか?」
「それだけじゃない」
男は答えた。
「家族を殺されたあと、俺には仲間がいた」
そこで男の声が初めて変わった。
低くなった。
「俺たちは悪魔を殺しに行った」
私は黙って聞いた。
「だが、仲間たちは途中で俺に銃を向けた」
「……なぜ?」
「洗脳された」
私は眉をひそめた。
「悪魔に?」
「そうだ」
「それで?」
男はグラスを置いた。
「俺が殺した」
店内の音が、妙に遠くなった。
「仲間を?」
「ああ」
「全員?」
「全員だ」
私は何と言えばいいのか分からなかった。
この男が嘘をついているのか。
本当に何かを経験したのか。
判断できなかった。
ただ、作り話をしている酔っぱらいの顔には見えなかった。
「……それで、悪魔は?」
「殺せなかった」
「じゃあ、逃げてきた?」
「違う」
男は首を振った。
「探している」
「まだ?」
「ああ」
「日本で?」
「日本に、奴に対抗する方法があると思っている」
私は思わず木札を見た。
「これが証拠?」
「証拠じゃない」
男は言った。
「手がかりだ」
日本に伝わる古い術。
悪霊や呪いを封じるための方法。
その中に、エル・オルビダードの力を防ぐものがあるかもしれない。
だから男は東京へ来た。
表向きは仕事。
本当の目的は、古い寺や神社、古物商を巡って、この木札の正体を調べること。
私はそこまで聞いて、ようやく尋ねた。
「本当に、そんな悪魔がいると思ってるんですか?」
男はすぐには答えなかった。
「分からない」
意外な答えだった。
「分からない?」
「俺は見た。だが、それが悪魔だったのか、病気だったのか、集団心理だったのか……俺には分からない」
「じゃあ、なぜ探している?」
男はしばらく黙っていた。
「俺の妻と子供を殺したものの正体を知りたい」
それだけだった。
私はそれ以上、何も聞かなかった。
男は会計を済ませ、店を出ていった。
そのとき、カウンターに小さな紙切れが落ちているのに気づいた。
拾ってみると、古い文字が書かれていた。
私は読めなかった。
翌日、私はそのバーにもう一度行った。
マスターに聞いた。
「昨日のメキシコ人、来てました?」
「昨日?」
「ほら、隣に座っていた……」
マスターは首を傾げた。
「昨日、外国人なんていたかな」
「いましたよ。テキーラを飲んでた」
「覚えてないな」
私は少し気味が悪くなった。
それでも、たまたまだと思った。
マスターが忘れているだけだ。
そんなことはいくらでもある。
私はそう考えながら店を出た。
その日の夜、自宅で財布を開けた。
見覚えのないものが入っていた。
あの木札だった。
私はしばらく、それを眺めていた。
そして、なぜか一つだけ気になった。
――マテオ・バルガス。
その名前を、私は紙に書いた。
なぜ書いたのか、自分でも分からなかった。
ただ、忘れてはいけない気がした。
そのとき初めて私は、あの男の話をほんの少しだけ信じてもいいのかもしれない、と思った。




