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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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マテオ・バルガス

作者: 網野隆生
掲載日:2026/10/06

その男と会ったのは、東京に雪が降った夜だった。


仕事帰りにふらりと入ったバーで、私はカウンターの端に座る男と隣り合わせになった。


黒いシャツに革のジャケット。日に焼けた顔。無精髭。日本人ではないことだけはすぐに分かった。


男はテキーラを飲んでいた。


「メキシコの人?」


私が聞くと、男はグラスを置いた。


「そうだ」


「やっぱり」


それだけの会話だった。


しばらくして、男が胸元から小さな木札を取り出した。


古い御守りのようだった。


「日本のもの?」


「ああ」


「旅行のお土産ですか」


男は木札を見つめたまま答えた。


「命の恩人だ」


少し変な言い方だった。


私は笑いそうになったが、男の顔があまりに真剣だったのでやめた。


「それ、そんなに大事なものなんですか?」


「俺にとってはな」


「何か思い入れでも?」


男はしばらく黙っていた。


やがて言った。


「悪魔から俺を守った」


私は思わず男の顔を見た。


酔っているのかと思った。


「……悪魔?」


「ああ」


「メキシコの伝承か何か?」


「伝承だと思っていた」


男はグラスを回した。


「名前はエル・オルビダード」


聞いたことのない名前だった。


「どういう悪魔?」


「人間を殺す」


「それだけ?」


「それだけなら、まだよかった」


男はそう言った。


そして話し始めた。


そいつは、人間を殺したあと、その人間の存在を他人の記憶から消す。


家族を殺された者は、家族の存在そのものを忘れる。


友人を殺されても、その友人を知らなかったことになる。


「つまり、記憶喪失?」


「違う」


男は首を振った。


「奴に関する記憶だけが消える」


私はしばらく考えた。


「……それなら、証拠が残っているんじゃないですか?」


「残る」


「写真とか?」


「残る」


「じゃあ、写真を見れば思い出すでしょう」


「写真を見ても、その人物が誰なのか分からない」


そこまで聞いて、私は少し困った。


「悪いけど、それはちょっと信じにくいな」


「そうだろうな」


男は怒らなかった。


「俺も最初は信じなかった」


彼はテキーラを一口飲んだ。


そして、自分の家族の話をした。


妻と子供。


近所に住んでいた人たち。


幼い頃から知っていた友人たち。


皆、悪魔に殺された。


「俺だけが覚えていた」


「どうして?」


男は木札を指で撫でた。


「これを持っていたからだと思う」


「……それを?」


「ああ」


「たまたま?」


「たまたまだ」


私は木札を見た。


ずいぶん古そうだった。


「どこで買ったんです?」


「メキシコの古物店」


「日本のものなのに?」


「店主は日本のものだとは知らなかった」


そこで私は少し興味が湧いた。


「じゃあ、それで日本に来たんですか?」


「それだけじゃない」


男は答えた。


「家族を殺されたあと、俺には仲間がいた」


そこで男の声が初めて変わった。


低くなった。


「俺たちは悪魔を殺しに行った」


私は黙って聞いた。


「だが、仲間たちは途中で俺に銃を向けた」


「……なぜ?」


「洗脳された」


私は眉をひそめた。


「悪魔に?」


「そうだ」


「それで?」


男はグラスを置いた。


「俺が殺した」


店内の音が、妙に遠くなった。


「仲間を?」


「ああ」


「全員?」


「全員だ」


私は何と言えばいいのか分からなかった。


この男が嘘をついているのか。


本当に何かを経験したのか。


判断できなかった。


ただ、作り話をしている酔っぱらいの顔には見えなかった。


「……それで、悪魔は?」


「殺せなかった」


「じゃあ、逃げてきた?」


「違う」


男は首を振った。


「探している」


「まだ?」


「ああ」


「日本で?」


「日本に、奴に対抗する方法があると思っている」


私は思わず木札を見た。


「これが証拠?」


「証拠じゃない」


男は言った。


「手がかりだ」


日本に伝わる古い術。


悪霊や呪いを封じるための方法。


その中に、エル・オルビダードの力を防ぐものがあるかもしれない。


だから男は東京へ来た。


表向きは仕事。


本当の目的は、古い寺や神社、古物商を巡って、この木札の正体を調べること。


私はそこまで聞いて、ようやく尋ねた。


「本当に、そんな悪魔がいると思ってるんですか?」


男はすぐには答えなかった。


「分からない」


意外な答えだった。


「分からない?」


「俺は見た。だが、それが悪魔だったのか、病気だったのか、集団心理だったのか……俺には分からない」


「じゃあ、なぜ探している?」


男はしばらく黙っていた。


「俺の妻と子供を殺したものの正体を知りたい」


それだけだった。


私はそれ以上、何も聞かなかった。


男は会計を済ませ、店を出ていった。


そのとき、カウンターに小さな紙切れが落ちているのに気づいた。


拾ってみると、古い文字が書かれていた。


私は読めなかった。


翌日、私はそのバーにもう一度行った。


マスターに聞いた。


「昨日のメキシコ人、来てました?」


「昨日?」


「ほら、隣に座っていた……」


マスターは首を傾げた。


「昨日、外国人なんていたかな」


「いましたよ。テキーラを飲んでた」


「覚えてないな」


私は少し気味が悪くなった。


それでも、たまたまだと思った。


マスターが忘れているだけだ。


そんなことはいくらでもある。


私はそう考えながら店を出た。


その日の夜、自宅で財布を開けた。


見覚えのないものが入っていた。


あの木札だった。


私はしばらく、それを眺めていた。


そして、なぜか一つだけ気になった。


――マテオ・バルガス。


その名前を、私は紙に書いた。


なぜ書いたのか、自分でも分からなかった。


ただ、忘れてはいけない気がした。


そのとき初めて私は、あの男の話をほんの少しだけ信じてもいいのかもしれない、と思った。

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