第一話『まだ名前のないもの』
人は、理解できる。
言葉も、表情も、行動も。
何を考えているのか、どう動くのか。観察すれば、大抵は予測できる。
ただ、それを「同じように感じること」はできなかった。
正しい反応は分かる。
適切な言葉も選べる。
だから、真似はできる。
“人間らしく振る舞うこと”は、問題なくこなせる。
それでも、どこかが噛み合わない。
まるで、少しだけ規格の違う部品みたいに。
はまっているはずなのに、きちんと機能していない。
それが、当たり前になっていた。
男は、いつも通りの時間に目を覚ました。
アラームが鳴る少し前。秒単位のズレもほとんどない。
目覚ましが鳴る前に起きられるなら、その方が効率がいいと考えているだけだ。
カーテンを開ける。空の明るさと雲の量で、おおよその時間と天気を把握する。
今日は曇り。光量が少ない分、体感の時間はやや遅く感じる。
洗面所で顔を洗いながら、今日やるべき作業を頭の中で並べる。
順番、優先度、想定されるトラブル。その対処。
歯を磨く時間すら、無駄にはしない。
朝食は変わらない。トーストと卵。
栄養バランスは問題ないし、考える必要もない。変える理由がない。
家を出る時間も固定されている。
駅までの最短ルート、信号の周期、人の流れ。すべて把握している。
三つ目の交差点は、右折車が詰まりやすい。
だからその手前で歩く速度をわずかに上げる。止まる確率を下げるためだ。
誰に教わったわけでもない。ただ、その方が合理的だった。
会社に着くと、既に数人が席についていた。
「おはよう」
声をかけられる。
「おはよう」
同じ言葉で返す。声量も、抑揚も、相手と大きくは変えない。
浮かないための調整だ。
それが“正しい返答”だと分かっているから、そうする。
席に座ると、机の上に資料が置かれていた。昨日の続きのレポートらしい。
一度、目を通す。
ページをめくる手は止まらない。
視線だけで情報を拾っていく。
数分後、隣の席の同僚が身を乗り出してきた。
「それ、昨日のやつ。もう見た?」
「ああ」
「どう?いけそう?」
男は資料を閉じた。
「三ページ目のグラフ、数値が一つズレてる。あと、五ページ目の前提と結論が一致してない」
同僚は一瞬、言葉を失った。
「……え、もうそこまで見たの?」
「目に入ったから」
特に誇張したつもりはなかった。事実をそのまま言っただけだ。
「いや、早すぎない?」
「そうか?」
「いや……まあ、助かるけどさ」
同僚は苦笑いを浮かべながら資料を引き取った。
その表情の意味も、反応の意図も理解できる。
驚きと、軽い引き気味の感情と、それを誤魔化すための笑い。
男はそれ以上何も言わない。
ここで言葉を足す必要はない。
少しだけ、間が空いた。
───そのとき。
奥の方で、低い声が聞こえた。
「月島 照くんねえ。彼、優秀だけどその……指導者向きじゃないんだよ」
別の声が応じる。
「能力は申し分ないんですけどね」
「そう。優秀すぎるんだよ。
自分で全部完結しちゃうタイプだ。
ああいうのはな、人を動かすより、自分でやった方が早いって思ってる」
わずかな沈黙。
「上に立たせると、逆に周りがついてこれない」
男は、手を止めなかった。
資料をめくる速度も変わらない。
聞こえていないふりをする必要はなかった。
ただ、反応する理由がなかった。
───指導者向きじゃない。
その評価は、理解できる。
むしろ、正確だと思った。
人の感情を考慮するより、最適解を選ぶ。
効率を優先する。
それは、指導ではない。
ただの処理だ。
男は、内心で静かに同意した。
だからこそ、何も言わなかった。
別の方向から、笑い声が聞こえた。
「いやそれ絶対盛ってるって!」
「そんなわけないだろ、マジだって!」
何人かが集まって話している。
内容は断片的にしか聞こえないが、
流れは理解できる。
誇張された体験談。
それに対するツッコミ。
男は一瞬だけそちらを見る。
どこが“面白い”のかは分かる。
どのタイミングで笑えば自然かも分かる。
ただ、体が反応しない。
笑う理由が、自分の中に存在しない。
笑うべき場面だから笑う、という選択もできる。
だが、それをする必要性が見つからなかった。
視線を戻す。
仕事に意識を戻す方が、効率的だ。
昼休み。
男はいつもと同じ席で、同じように弁当を広げる。
隣の席の男が、気軽な調子で声をかけてきた。
「なあ、最近なんか面白いことあった?」
男は少しだけ考える。
“面白い”の定義を整理する。
感情的な高揚か、予想外の出来事か。
どちらにも該当する記憶は、特にない。
「特にないかな…」
「え、マジ?なんも?」
「何もない」
「そっかぁ……まあ平和が一番か」
そう言って笑う。
その笑いがどういう意味を持つのかは分かる。
会話を終わらせるための、軽いまとめ。
男はそれ以上言葉を続けなかった。
続ける必要がなかったからだ。
午後の業務も、予定通りに進んだ。
多少の修正はあったが、想定の範囲内。
問題はなかった。
退勤の時間になると、男は迷いなく席を立つ。
無駄に残る理由がない。
「お疲れ」
声をかけられる。
「お疲れ」
同じように返す。
それで十分だと判断している。
会社を出て、帰路につく。
朝と同じ道を、同じ順番で辿る。
信号のタイミングも、人の流れも、ほぼ変わらない。
変化が少ない方が、予測しやすい。
それは良いことのはずだった。
ふと、足がわずかに緩む。
理由はない。
ただ、思考が一瞬だけ、仕事から外れた。
このまま。
同じ日を繰り返して。
正しい反応を選び続けて。
人間らしく振る舞い続けて。
それで、終わるのか。
男は立ち止まらないまま、前を見ていた。
顔色も、歩幅も、変わらない。
ただ、頭の中だけが静かに動く。
それは効率的だ。
無駄がない。
合理的だ。
────ちゃんと、人間のように振る舞えている。
そのはずなのに。
ほんのわずかに、違和感が残る。
自分は“内側から”それをやっているのではなく、
“外側から再現しているだけ”なのではないか。
その考えを、男は言葉にしなかった。
する必要がないからだ。
けれど。
確かにそこに、ズレはあった。
「………?」
それが崩れたのは、ほんの些細な違和感だった。
視界の端で、光が揺れた。
男は足を止めないまま、わずかに視線を上げる。
街灯がひとつ、点滅していた。
チク、……チク、……チクチク。
規則性のない明滅。
一定のリズムから外れた光は、それだけで周囲の空気を歪める。
電球の寿命か、接触不良か。
原因はいくつか思い浮かぶが、どれも今はどうでもいい。
問題は、その下にあった。
光に照らされる範囲の中に、ぽつんと置かれた段ボール箱。
歩道の端。人の通行の邪魔にはならないが、わざわざ置く場所でもない。
雨に濡れた形跡はない。つい最近置かれたものだと分かる。
男は通り過ぎる。
そのまま、何事もなかったかのように。
関わる理由がない。
リスクだけが増える。
数歩、進む。
そのはずだった。
足が、わずかに鈍る。
理由はすぐに分かった。
────視線。
気のせい、ではなかった。
背中に、何かが触れているわけではない。
音もない。気配も、はっきりとはしない。
それでも、確かに“見られている”という感覚だけが残る。
男は一度、立ち止まった。
振り返らないまま、数秒。
思考が整理される。
動物の可能性。
人為的な罠。
あるいは単なる錯覚。
どれにしても、確認しなければ判断できない。
男はゆっくりと振り返る。
段ボールは、変わらずそこにあった。
街灯の不規則な光に照らされて、影が揺れている。
何も動いていない。
それでも。
さっきよりも、存在感が増しているように見えた。
男は一歩だけ近づく。
靴底がアスファルトを擦る音が、やけに大きく響いた。
さらに一歩。
段ボールの前で、足を止める。
上部は閉じられている。テープは貼られていない。
少し持ち上げれば、すぐに中が見える構造だった。
手を伸ばす。
止める。
合理的ではない、と判断が下りる。
放置すればいい。関わる必要はない。
───それでも。
男は再び手を伸ばした。
指先で、ゆっくりと蓋を持ち上げる。
ほんの数センチ。
暗闇の隙間が、開く。
その瞬間。
中から、何かが“動いた”。
反射的に、手が止まる。
呼吸が一瞬だけ浅くなる。
視線を逸らさないまま、さらに蓋を持ち上げる。
開いた。
中身が、露わになる。
それは────、
生き物だった。
だが、知っているどの生物とも一致しない。
小さい。子供ほどもない。
肌は滑らかで、湿った光を帯びている。
色は淡く、光の当たり方によってわずかに質感が変わる。
右腕だけが、はっきりと形を持っていた。
指の数は人間と同じだが、関節の位置がわずかに違う。
左側は、腕になりきっていない。
途中までしか形成されておらず、細く、不安定に揺れている。
下半身は、さらに曖昧だった。
腰から下は、人の形を保っていない。
骨格が定まっていないように、柔らかく、くねるように折れ曲がっている。
脚、と呼べるものは存在しない。
代わりに、何かが未完成のまま絡み合っている。
そして、顔。
こちらを見ていた。
片方の目は、黒く、はっきりとした瞳。
もう片方は、白いまま。まだ機能していないのか、焦点が合っていない。
瞬きは、ない。
ただ、見ている。
男の顔を、正確に捉えている。
音はない。
呼吸音も、鳴き声も、何も。
ただ、その存在だけが、そこにあった。
理解が、追いつかない。
脳が情報を処理しようとして、止まる。
これは何だ。
生物か。
人間か。
………違う。
どちらでもない。
その結論だけが、先に出る。
ぞわり、と背中を冷たいものが走った。
視線が外せない。
目が合っている。
動かない。
襲ってくる気配もない。
逃げる理由も、理屈では存在しない。
それでも。
────無理だ。
思考よりも先に、体が判断する。
男は蓋を乱暴に閉じた。
音が響く。
そのまま、後ろへ一歩、二歩と下がる。
呼吸が乱れる。
視線を外す。
振り向く。
そして、歩き出す。
歩く。
早くなる。
やがて、それは走りに変わった。
背後を確認する余裕はない。
追ってきているかどうかも、分からない。
ただ、距離を取る。
それだけを優先する。
角を曲がる。さらに曲がる。
見慣れた景色に変わっていく。
自分の住むアパートの外観が視界に入る。
そこでようやく、足が止まった。
呼吸が荒い。
心臓の音が、耳の奥で響いている。
男は振り返らない。
振り返る必要がない、と判断したからだ。
だが。
胸の奥に残った違和感だけは、消えなかった。
あれは、何だったのか。
考えようとする。
だが、思考が途中で止まる。
結論が出ないものを考え続けるのは、非効率だ。
それでも。
頭の中に、あの目が残っている。
黒い瞳と、白い未完成の片目。
ただ、こちらを見ていた。
何もせず。
何も言わず。
ただ、そこに“いた”。
男はゆっくりと、玄関の扉に手をかけた。
「………」
鍵を差し込む直前で、男の手が止まった。
ドアノブに触れたまま、動かない。
金属の冷たさだけが、指先に残る。
呼吸はもう落ち着いている。
心拍も、さっきまでの乱れはない。
────なのに。
さっきの光景が、唐突に蘇る。
開いた箱。
湿ったような質感。
焦点の合わない片目。
ただ見ていた、あの視線。
関わるべきではない。
放っておけばいい。
合理的な判断は、もう出ている。
リスクが高い。
正体不明。
対処不能の可能性。
近づく理由はない。
それでも。
男の手は、ドアノブを握ったまま、わずかに力を失っていく。
ゆっくりと、指が離れた。
「……」
言葉にはならない。
ただ、胸の奥に引っかかる感覚だけが残る。
もし、このまま。
見なかったことにして。
何もなかったように部屋に戻って。
いつも通りの生活に戻る。
それは、できる。
何も問題はない。
────本当に?
思考が、わずかに歪む。
あれを置いてきた。
あれを見て、逃げた。
それで終わりにする。
それを、自分で“正しい”と認める。
それはつまり────
自分はそういう人間だと、確定させることになる。
合理性だけで動く存在。
不要なものは切り捨てる。
感情よりも判断を優先する。
それは間違っていない。
むしろ、正しい。
けど。
それを、自分で肯定するのは───
「……それは、違うだろ」
小さく、吐き出すように呟く。
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分に対しての否定だった。
男はゆっくりと振り返る。
来た道を、見る。
暗い。街灯の光が遠くに滲んでいる。
さっきまで逃げてきた方向。
足が、動かない。
一歩目が、出ない。
喉がわずかに乾く。
理由は分かっている。
怖いからだ。
理屈ではなく、単純な拒絶。
それでも。
男は、足を踏み出した。
一歩。
靴底が地面を踏む感触が、やけに重い。
二歩。
さっきよりも遅い速度で、前に進む。
三歩。
距離が縮まるごとに、体が強張っていく。
鼓動が、また少しずつ速くなる。
四歩、五歩。
街灯の光が近づく。
あの場所が、視界の中に戻ってくる。
足が、わずかに震える。
───戻る理由はない。
頭の中で、何度も同じ結論が繰り返される。
それでも、止まらない。
「……いいはずだ」
誰に聞かせるでもなく、言い聞かせるように。
「これで、いい」
声は小さいが、はっきりしていた。
正当化ではない。
確認だった。
やがて、あの場所に辿り着く。
街灯は相変わらず、不規則に点滅している。
チク、……チクチク。
光が揺れるたびに、影も揺れる。
段ボールは、そのまま残っていた。
逃げたときと、何も変わらない。
外側は。
男は、数歩手前で止まる。
呼吸を整える。
無意識に、息を浅くしていることに気づく。
一歩、近づく。
もう一歩。
足が、止まる。
これ以上近づけば、またあれと対面する。
分かっている。
それでも。
男は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、段ボールの縁に触れる。
そのまま、持ち上げる。
蓋が開く。
暗闇が、再び露出する。
そして────、
いた。
さっきと同じ姿のまま。
中で、静かに。
こちらを、見ている。
逃げない。
動かない。
ただ、視線だけが、まっすぐに向けられている。
男と、目が合う。
黒い瞳と、白い未完成の目。
そのアンバランスさが、強く意識に残る。
恐怖は消えていない。
むしろ、さっきよりもはっきりと自覚している。
それでも。
男は、視線を逸らさなかった。
数秒。
沈黙が続く。
何も起きない。
襲ってこない。
音もない。
ただ、そこに“いる”。
男は、段ボールを床に置いたまま、しばらく動かなかった。
男は、息をひとつ吐いた。
「……少しの間だけだ」
低く、抑えた声。
返事はない。
意味が伝わっているかも分からない。
それでも、言葉にした。
自分の中で区切りをつけるために。
男は両手を差し入れかけて───止めた。
視線を落とす。
このまま持ち上げるのは、合理的ではない。
外に出れば人目がある。
正体不明のそれをむき出しで運ぶのは、リスクが高い。
数秒の思考。
すぐに結論が出る。
男は手を引き、段ボールの縁を持ち上げた。
中のそれは、動かない。
ただ、視線だけが男を追っている。
男は蓋を閉じる。
視線が遮断される。
内側で何かが動く気配はない。
そのまま、箱の状態を確認する。
底は抜けていない。強度も問題ない。
運搬には耐えられる。
男は段ボールの側面に手をかける。
持ち上げる。
軽い。
中身が入っているとは思えないほどに。
わずかに、中で何かが擦れるような感触だけが伝わる。
音は、ほとんどない。
男は箱を抱え直す。
視線を周囲に走らせる。
人影はない。
街灯の明かりも、この場所は死角が多い。
問題ない、と判断する。
そのまま歩き出す。
来た道を、今度は引き返す形で。
腕の中の箱は静かだ。
中で暴れることも、鳴くこともない。
ただ、存在だけがある。
一定の重さとして。
一定の温度として。
男は無言のまま歩く。
足音だけが、夜に響く。
途中、何度か人の気配を感じるたびに、歩幅を調整する。
視線を合わせない。
箱の角度も、外から中が見えないようにわずかに傾ける。
無駄なリスクは避ける。
それは、いつも通りの判断だった。
やがて、見慣れたアパートが視界に入る。
階段を上がる。
金属の軋む音が、やけに大きく感じる。
部屋の前に立つ。
片手で鍵を取り出す。
箱を抱えたまま、鍵穴に差し込む。
わずかに手間取る。
それでも、数秒で解錠する。
ドアを開ける。
暗い室内。
男はそのまま中に入り、足でドアを閉めた。
外界の音が遮断される。
静寂が戻る。
男はその場で、数秒だけ動かずに立っていた。
腕の中の箱の存在を、改めて認識する。
軽い。
静かだ。
だが、確かに“いる”。
男はゆっくりと歩き、部屋の中央へ進む。
そして、慎重に段ボールを床に下ろした。
音を立てないように。
衝撃を与えないように。
手を離す。
箱は、そこに残る。
中に何がいるのかを知ったまま。
男はしばらく、それを見下ろしていた。
部屋の静けさが、やけに重い。
さっきまで外にあった“それ”が、今は自分の生活圏の中にある。
その事実だけで、空気の質が変わった気がした。
「……本当に、良かったのか」
独り言が、自然と漏れる。
答えは出ない。
正しさを測る基準もない。
ただひとつ確かなのは、いつもの自分なら選ばなかった行動だということだけだ。
男はゆっくりと膝をつき、段ボールに手をかける。
わずかにためらい。
それから、蓋を開けた。
中にいるそれは、変わらずそこにあった。
形は未完成で、均整も取れていない。
どこが「正しい」構造なのかも分からない。
だが、生きている。
それだけは、はっきりしている。
男は観察する。
呼吸のリズム。体表の微細な動き。反応速度。
────そして、目。
視線が、合う。
その瞬間、男はほんのわずかに息を止めた。
それは、瞬きをほとんどしない。
乾いているはずなのに、閉じない。
閉じる必要がないかのように、ただ開いたまま。
視線は、ぶれない。
男の顔の一点を正確に捉え続けている。
揺れも、迷いもない。
まるで、照準でも合わせているかのように。
それでいて、敵意のようなものは感じない。
ただ、“見ている”。
観察している。
理解しようとしているのか、それとも単に反応しているだけなのか。
判断がつかない。
さらに違和感がある。
呼吸だ。
規則的ではない。
吸って、吐く───その間隔が、人間のそれとズレている。
一定ではないのに、不自然でもない。
生理的なリズムというより、別の基準で動いているように見える。
男はわずかに眉をひそめた。
「……なんなんだ」
小さく呟く。
新種の生物。
外来種。
未確認の存在。
いくつか仮説を立てるが、どれも決定打に欠ける。
男はスマートフォンを取り出す。
思い出せる特徴を入力する。
曖昧な単語を繋げる。
画像検索も試す。
だが、出てくるのはどれも一致しない。
作り物めいた画像。
誇張された目撃談。
都市伝説の類。
「……違うな」
短く結論を出し、画面を閉じる。
そのときだった。
ジリ……ジリ……
微かな音。
視線を戻す。
それが、段ボールの縁に口元を当てていた。
ゆっくりと、削るように。
かじっている。
紙が擦れる、乾いた音。
男は反射的に手を伸ばした。
「……ダメだ」
短く、低い声。
その動きは、ぴたりと止まる。
抵抗はない。
ただ、そのまま男を見る。
また、目が合う。
瞬きは、ない。
視線も逸らさない。
男は手を引き、数秒考える。
破壊行動ではない。
衝動的な動きでもない。
目的がある動き。
そこから導き出される可能性は─────、
「……空腹、か」
それは、何も答えない。
ただ、見ている。
男は立ち上がる。
キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開ける。
中を一通り確認する。
保存状態、種類、量。
目についたものを取り出す。
解凍してあった魚。
本来は自分の夕食用だ。
数秒だけ手が止まる。
だが、それ以上考えずに戻る。
段ボールの前にしゃがみ込む。
蓋を少し開ける。
中のそれは、すぐに視線を向けてきた。
男は何も言わず、手に持ったものを差し出す。
距離は一定に保つ。
近づけすぎない。
反応を見るための位置。
それは、すぐには動かなかった。
まず、見る。
差し出されたものを。
形状。色。匂い。
判断しているような、間。
そのあと、ゆっくりと近づく。
触れる。
ほんのわずかに口をつける。
そして──────食べ始めた。
勢いはない。
慎重に、確認するように。
だが、確実に摂取している。
拒否反応はない。
男はそれを見ながら、次の行動を組み立てる。
水分。
必要な可能性が高い。
男は立ち上がり、器に水を汲む。
戻ってきて、それを段ボールのすぐそばに置く。
特に指示は出さない。
あくまで選択肢として提示する。
それは、一瞬だけ視線を水に向けた。
だが、すぐに食事へ戻る。
優先順位があるらしい。
男はそれを確認し、ひとまず状況を受け入れる。
「……食べる、か」
小さく呟く。
それだけで、ひとつの仮定が裏付けられる。
男は立ち上がる。
風呂場へ向かう。
背後への意識は切らない。
音で異変を察知できるように。
シャワーを短時間で済ませる。
水音の中でも、外の気配に神経を向ける。
異常はない。
その後、簡単に自分の食事を取る。
味はほとんど認識していない。
意識の大半は、あの箱の中にある。
食事を終え、手を洗う。
タオルで拭きながら、部屋へ戻る。
足を止める。
段ボールの中。
それはまだ、そこにいる。
食べ終わったのか、動きは少ない。
だが、やはり─────
見ている。
さっきと同じ。
瞬きの少ない目で。
ぶれない視線で。
呼吸のズレたリズムで。
ただ、男を捉え続けている。
観察するように。
理解しようとするように。
あるいは、ただ反応しているだけなのか。
男は、わずかに視線を逸らした。
理解が追いつかないものに対する、最小限の回避。
だが、完全には逸らさない。
意識は向けたまま。
「……」
言葉は出ない。
出す必要もない。
ただ、状況を受け入れるしかなかった。
「……っ!」
その視線に、男は遅れて気づいた。
ふとした拍子に、背中に何かが触れるような感覚。
振り向く。
段ボールの縁から、それがこちらを見ていた。
さっきと同じ位置。
さっきと同じ姿勢。
だが、違う。
“見方”が、違う。
じっと。
本当に、じっと。
瞬きが、ほとんどない。
乾きも無視しているかのように、目は開いたまま固定されている。
視線は一切ぶれない。
男の顔────正確には、目のあたりを捉えて離さない。
呼吸も、やはり不規則だ。
一定のリズムではないのに、乱れているわけでもない。
吸う、吐く、その間隔がわずかにズレている。
生き物として成立しているのに、人間の感覚からわずかに外れている。
まるで、“別の規則”で動いている。
男は一瞬、言葉を失った。
「……」
声が出ない。
ただ、見られているという事実だけが強く残る。
観察されている。
評価されている。
そう錯覚するほどに、視線が濃い。
男はわずかに顔をしかめた。
それ以上見ているのが、無意味だと判断する。
「……寝る」
短く呟く。
誰に向けたものでもない。
ただ、自分の行動を確定させるための言葉。
電気を消す。
部屋が闇に沈む。
わずかな外灯の光だけが、輪郭を浮かび上がらせる。
男は布団に入る。
横になる。
目を閉じる。
いつも通り、呼吸を整える。
思考を切る。
眠りに入るための手順。
だが。
─────違和感が、残る。
音はない。
完全に静かだ。
時計の針の音すら、今は気にならない。
それでも。
“何かが近づいている”感覚だけが消えない。
皮膚が、わずかに粟立つ。
神経が、警戒を解かない。
眠りに落ちる直前の、あの感覚が来ない。
代わりに、別の予感がある。
そして。
ぬ……り……
わずかな音。
湿った何かが、床を擦るような音。
一定ではない。
だが、確実に─────近づいている。
男は目を開けた。
視界に、すぐそれが入る。
近い。
さっきよりも、圧倒的に。
顔のすぐそば。
手を伸ばせば触れられる距離。
それが、いた。
こちらを見ている。
まじまじと。
瞬きは、やはりない。
目が、合う。
逃げ場がない距離で。
呼吸のズレが、微かに伝わる。
音ではなく、空気の動きとして。
男の喉が、ひくりと動く。
声が、出ない。
体も動かない。
理解が追いつかない。
どうやってここまで来た。
いつから近くにいた。
なぜ、気づかなかった。
思考が空回りする。
その間にも、視線は外れない。
ただ、見ている。
敵意はない。
攻撃もない。
だが────それが、逆に恐ろしい。
「……っ」
息が詰まる。
胸の奥で、何かが軋む。
不安。
焦燥。
恐怖。
畏怖。
それらが一気に膨れ上がる。
─────拾わなければよかった。
遅れて、その考えが浮かぶ。
後悔が、形になる。
そのとき。
それが、止まった。
ぴたりと。
まるで、何かを“受け取った”かのように。
数秒の静止。
そして────
すっと、距離を取る。
音を立てない。
無駄がない。
迷いもない。
最短で、最適な軌道を描くように。
そのまま後退し、段ボールの中へと戻っていく。
まるで最初からそこにいたかのように。
静かに。
完全に。
気配を引く。
距離の取り方が、異様に正確だった。
必要以上に離れない。
かといって、近すぎもしない。
“ちょうどいい距離”を、最初から知っているかのように。
男は、しばらく動けなかった。
呼吸だけが荒い。
心拍が耳の奥で鳴っている。
やがて、少しずつ落ち着いてくる。
体に力が戻る。
だが、眠気は完全に消えていた。
「……なんだ、あれは……」
掠れた声。
答えはない。
男はゆっくりと横になり直す。
目を閉じる。
だが、神経が張り詰めたまま緩まない。
眠れない。
時間の感覚が曖昧になる。
どれくらい経ったのか分からない。
ふと。
視線を感じた。
今度は、はっきりと。
男はゆっくりと目を開ける。
段ボール。
その縁から。
ひょこり、と。
顔が覗いている。
さっきと同じ。
あの目。
瞬きの少ない、固定された視線。
まっすぐに、男を見ている。
目が合う。
逸らさない。
何もしてこない。
近づいてもこない。
ただ────見ている。
それだけが、続いていた。
夜の静けさの中で。
その視線だけが、確かに存在していた。




