第3話 霧形変換と仮の身体
レイガルと出会ってから、さらにいくつかの「日」が過ぎた。
洞窟には太陽も月もないから、本当の時間は分からない。けれど、俺の感覚ではそれなりに長い訓練期間だったと言い切れるくらいには、毎日がぎっしり詰まっていた。
やっていたことは、ひと言で言えば、ひたすら「霧の扱いの練習」だ。
「魔力の流れを意識しろ。お前の霧そのものが魔力の塊なのだ。形を変えるには、流れを変え、濃度を変え、意志を通わせる」
レイガルの低い声が、今日も洞窟に響く。
古代竜のくせに、やたらと教え方は丁寧だ。たまに厳しいけれど、それでも前の上司よりよほど分かりやすい。
「分かってる。と言いたいけど、これがなかなか難しいんだよな……」
俺は自分の霧をぎゅっと集め、洞窟の床の上に“右手”を作ろうとしていた。
霧を濃くして、指を一本一本イメージしながら伸ばす。親指、人差し指、中指、薬指、小指。人間だった頃を思い出して、その感覚を上書きするように。
ふわり、と、白い霧の中から、うっすら手の形をしたものが浮かび上がった。
「よっし……今度こそ」
目の前には、小さめの石ころ。これを持ち上げるのが、今日の目標だ。
霧の手で、そっと石に触れる。指先に、わずかな抵抗が伝わってきた。掴める。今度こそいける。
「よい……しょっと」
指を曲げようとした、その瞬間。
ぼふん、と、手の形が崩れて霧に戻った。
石はぴくりとも動かない。
「またか……!」
俺は思わず霧全体をしおしおと萎れさせる。
少し離れた封印陣の中央で、レイガルが喉を鳴らした。
「ふむ。まだ柔らかいな」
「分かってるよ! 分かってるけどさ!」
悔しさ半分、情けなさ半分で抗議する。
「でも、最初は押すこともできなかったんだぞ? 今はこうやって、触るくらいならできるし。前進はしてるんだ」
「そうだな。だが、触れるだけでは外の世界では何も守れぬぞ、ユウト」
ずしりと重い指摘。ぐうの音も出ない。
「……はい。精進します」
俺は小さくため息をつき、再び霧を集め直した。
◆
ただ闇雲に練習しているわけじゃない。レイガルから教わりながら、俺は自分のスキル構成を少しずつ変えている。
低級魔物を吸収し、その筋肉組織や骨格情報を【解析】する。そのデータを参考に、「効率のいい形」を自分の霧の中に仮想的に組み込んでいく。
スライムの柔軟さ、トカゲの筋肉の付き方、コウモリの骨の軽さ。そういうものを混ぜ合わせて、人型に近い骨組みを「見えないフレーム」として霧の内部に描く。
「ここが関節。ここが支点。ここに力をかければ石を持ち上げられる……はず」
イメージトレーニングを繰り返していると、突然、頭の中にいつもの機械的な声が響いた。
「条件を満たしました。新スキル、仮体構築を獲得します」
「お?」
視界の隅に、半透明の説明ウィンドウが浮かび上がる。
仮体構築
霧内部に仮想骨格を形成し、一時的な人型を維持することができる。
物理干渉性能・安定性は霧の濃度と使用者の魔力制御に依存する。
「来た……!」
長いこと求めていた、「ちゃんと立てる身体」への第一歩だ。
俺はすぐさま【仮体構築】を発動する。
自分の意識を中心に、霧をぎゅうっと凝縮させていく。骨格のイメージをフレームにして、その上に筋肉代わりの濃い霧を配置していく感覚。まるで、自分の身体を一から組み立てているようだ。
やがて、洞窟の床の上に、半透明の人影が形作られていった。
頭、胴体、両腕、両脚。
輪郭ははっきりしているが、全体的に白くかすんでいて、内部がほんの少し透けて見える。光を受けて、霧らしい淡い揺らめきもある。
「おおお……!」
思わず声にならない声が漏れた。
次の瞬間、足の裏に「地面」の感触が伝わってきた。
固くて、冷たくて、少しざらざらしている。重力が、ちゃんと自分を下へ引っ張っている感覚がある。
「……立ってる」
本当に、「立っている」のだ。
今までの俺は、空間にただ漂うだけの存在だった。上下左右の概念はあっても、足場というものがなかった。それが今、はっきりと「床を踏んでいる」と実感できている。
「どうだ、ユウト」
レイガルの声音に、わずかな興味が混じる。
「今のが、お前の仮の身体か」
「そうみたいです。いやー……なんか、久しぶりに重力を感じてます」
俺は慎重に、右足を前に出してみる。
一歩。
身体がわずかにぐらついたが、霧の骨格を修正してバランスを取り直す。
もう一歩。
ぎこちないが、ちゃんと前に進めている。二歩、三歩と歩くうちに、徐々に「歩く」という動作が霧の中に馴染んでいくのが分かる。
「ふむ、二本足での移動も、なんとか様になってきたな」
「でしょ? これなら外に出ても、そこまで怪しまれず……いや、この見た目は怪しいか」
自分の姿を見下ろす。人型ではあるが、透明感のある霧の身体。これでは、どう見ても人間ではない。
「せめて、喋り方くらいは普通にしておきたいな」
そう思い、俺は新たな実験に取り掛かった。
「次は声だな」
霧の振動を使って、空気を揺らす。前世の知識を総動員して、声帯の動きや口の形を霧で再現していく。
「あー……あー……」
最初に出てきたのは、やたら甲高い声だった。自分でもびっくりするくらい、幼い少年っぽい。
「これは違う。これで自己紹介したら、絶対ナメられる」
声の高さを下げ、響く場所を少し変える。
「……あー。あー……」
今度は、やたら渋いおっさん声になった。どこかの居酒屋の大将みたいだ。
「これも違う。二十七歳サラリーマンの心が追いつかない」
何度か試行錯誤を繰り返し、ようやく、しっくりくる声を見つけた。
少し低めで、落ち着いていて、でも固すぎない。昔、後輩に話しかけていた時の、自分の声に近い。
「……このくらい、かな」
自分の声が、洞窟の中にちゃんと響くのを聞いて、胸がじんわり熱くなる。
俺はもう、人間の身体を持っていない。でも、こうして“声”を取り戻せた。
「なんだか、少しだけ戻ってきた気がするな」
呟くと、レイガルがじっと俺を見下ろした。
「声を得たか。滑らかだな。思ったより、まともな響きだ」
「そこ、『思ったより』はいらないでしょ」
「初めはもっと甲高い声を出しておったからな。ふむ、あれはあれで面白かったが」
「聞こえてたのかよ……!」
俺は思わず霧の頬を押さえた。透明だから赤くはならないが、感覚的には真っ赤だ。
「では、顔はどうする」
「顔?」
「人の世に出るなら、表情は重要だぞ。お前の今の顔は、ただの霧の塊だ」
「あ、そういえば」
慌てて、自分の顔部分を意識する。
前世の自分の顔を思い出そうとするが、はっきりとは覚えていない。鏡を見る習慣なんかなかったし、写真もあまり好きじゃなかった。
なので、俺は方針を変えた。
「前の俺と完全に同じじゃなくていいか。むしろ、人間っぽい方が相手も安心するしな」
この世界の人たちとまともにコミュニケーションを取りたいなら、「霧の化け物」みたいな見た目より、「それっぽい人型」の方が絶対いい。
無難に、愛想の良さそうな青年の顔をイメージする。目は少し大きめだが、過剰にキラキラしてない程度に。口元はきつくならないように、柔らかめのラインで。鼻は……普通でいい。
イメージした通りに霧を動かしていくと、半透明の顔の輪郭が少しずつ整っていった。
「どうかな、これで」
レイガルの巨大な瞳が、俺の顔をじっくり観察する。
「ふむ……無難な、若き人間の男の顔だな。特徴に乏しいが、敵を作らぬ顔だ」
「無難って言ったよね今。イケメン、とは言わない?」
「竜の基準では、どの人間もあまり変わらぬ。だが、お前の顔は“話しかけやすそう”ではあるな」
「……まあ、それならいいか」
イケメンかどうかはともかく、「話しかけやすそう」と言われるのは嫌いじゃない。
こうして、俺は半透明ではあるが、人型の姿と声を手に入れた。
霧でできた髪がふわりと揺れ、表情もある程度なら動かせる。笑えば口角が上がるし、驚けば目を見開くこともできる。
「それが、今のお前の“仮の身体”というわけか」
レイガルが結論めいた言葉を口にする。
「滑稽だが、愛嬌もある」
「褒めてるのか貶してるのか分からないけど、ありがとう、ってことでいいのかな」
「素直に受け取っておけ」
レイガルは、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
◆
仮体構築の安定度を確かめるために、俺は洞窟の中を歩き回ってみた。
ただ漂っていた頃とは違って、足音がちゃんと鳴る。とはいえ、霧なので、こつこつではなく、さらさらと砂を踏みしめるような音だ。
壁に軽く手をついて歩く。指先に岩のごつごつが伝わる。地面の傾斜も、足裏からはっきり分かる。
「いやー……すごいな、これ」
人間の身体って、こうやって世界を感じてたんだな、と改めて思う。
霧としての感覚は広くて鋭いが、どうしても「自分」と「世界」の境界線が薄い。人型になることで、その境界線が少しだけはっきりした気がした。
「ユウトよ」
レイガルの声が背後から追ってくる。
「どこへ行く」
「洞窟の入口を見てみようと思って。外の様子、まだちゃんと見たことなかったし」
今までは、霧を薄く伸ばして入口付近の情報を「感知」していただけだ。冷たい風の流れや、外から差し込む光の強さは知っていたが、「目で見る」という感覚はまだ試していない。
「そうか。行ってこい。ただし、まだ完全に外へ出るなよ」
「分かってる」
俺は頷き、洞窟の奥から徐々に上へ続く通路を歩き始めた。
足元はところどころ崩れかけていて、岩の欠片が転がっている。何度かつまずきそうになりながらも、仮体のバランス調整をしつつ進んでいく。
やがて、前方に、薄ぼんやりとした光が見えてきた。
眩しい、というほどではない。けれど、洞窟でずっと過ごしてきた身には、それだけで胸が高鳴る。
最後の一段を登りきると、そこには――。
「……わあ」
思わず、声が漏れた。
目の前には、切り立った崖の縁。そして、その向こうに広がるのは、一面の森だった。
高くそびえる木々の緑。ところどころに見える、赤や黄の花の色。空は深い青で、白い雲がゆっくりと流れている。遠くに山脈のシルエットも見える。
霧として感知していた世界は、もっと無機質だった。温度差や風向き、魔力の濃度の違い。それらを「データ」として捉えていた。
今、仮体の目で見る世界は、とにかく色が多い。
緑にも何種類もあって、影の部分は深く、陽の当たる部分は明るい。空の青さは、ただの「空気の冷たさ」じゃない。どこか懐かしく、広がりを感じさせる色だった。
「ああ……本当に、異世界なんだな」
ようやく、実感が追いついてきた。
トラックに撥ねられて、目を覚ましたら洞窟の霧。レイガルと出会って、訓練して。それでもどこか、まだ夢の続きのような気がしていた。
外の光と風を、この目で見て、この身体で感じて。ようやく、ここが「本当に生きる場所」なんだと認めざるを得なくなった。
崖の上から吹き上げる風が、仮体の衣のような霧を揺らす。半透明の腕を伸ばしてみると、指先の先へと風が抜けていく。
「ここから、俺の居場所を探すのか」
ぽつりと呟く。
広い空。終わりの見えない森。まだ見ぬ誰かの暮らす街。そのどこかに、「俺の居場所」があるのだろうか。
「……悪くないな」
少しだけ、口元が緩んだ。
◆
だが、感動してばかりもいられない。
「情報がないまま突っ込むのは、さすがに無謀か」
俺は崖の縁から一歩下がり、洞窟の陰に戻る。
森の中には、魔物もいれば人もいる。さっきレイガルから聞いた話では、近くに小さな人間の集落があったはずだという。
それが今も存在しているのか。どんな人たちがいるのか。外に出る前に、ある程度の方針は決めておくべきだ。
「一回戻るか」
仮体を保ったまま、俺は来た道を引き返す。
封印の間に戻ると、レイガルは目を閉じたまま静かに佇んでいた。眠っているのかと思ったが、俺が戻ってきた気配を感じ取ったのか、すぐに片目を開く。
「どうだった、外の光は」
「すごかったです。霧で感じてた時と、全然違う。……言葉でうまく説明できないくらいに」
「そうか」
レイガルは満足そうに頷いた。
「で、本題なんですけど」
俺はその場に腰を下ろすように、仮体をしゃがませる。正座はまだ難しいので、とりあえず体育座りに近いスタイルだ。
「このまま外に飛び出すには、やっぱり情報不足かなって。レイガル、近くに人間の集落があったって言ってましたよね」
「うむ。この洞窟が封印施設として機能していた頃、出入りする人間たちの拠点が森の向こうにあった。小さな村だったはずだ」
「今でも生きてる可能性は?」
「分からぬ。ただ、あの程度の規模の集落であれば、潰れることも、別の勢力に吸収されることもある。跡地だけが残っている、ということもな」
「なるほど……」
俺は腕を組む。霧なので、組んだ腕は少しぼやける。
「でも、もし今も人が住んでるなら、最初の拠点にはちょうどいいかなって。村なら、情報も手に入りやすいだろうし」
街レベルになると、警戒も強くなりそうだ。いきなり半透明の霧人間が現れたら、普通は驚く。最悪、いきなり討伐対象にされかねない。
その点、小さな村なら、事情を説明する余地もあるかもしれない。
「じゃあまずは、その集落を探してみます。俺の“居場所”の候補として」
そう言うと、レイガルは少しだけ目を細めた。
「決めたか」
「ええ」
俺は立ち上がって、レイガルの前に向き直る。
「ただ、必要以上に無茶はしないつもりです。危険そうな相手を見かけたら、一旦戻りますから」
「それが良い。お前が消えては、腹の足しにもならんからな」
「例えが物騒なんだよ」
思わずツッコミを入れると、レイガルは喉を鳴らして笑う。
「だが、戻ってこい、ユウト」
その言葉には、鋭さとは違う何かが混じっていた。
「お前が外の世界から持ち帰る話を、我も聞いてみたい」
「……もちろん」
胸の奥が、じんと温かくなる。
レイガルと話していると、たまにこうして、不器用な優しさが滲む瞬間がある。
「必ず戻ってきますよ」
俺は右手を胸に当てて、はっきりと言った。
「外の世界の話を、今度は俺からもしてやる。どんな人がいて、どんな街で、どんな空気だったか。ちゃんと、ここに持ち帰ります」
「ふむ。ならば、その話を楽しみに、もうしばらくは封印の中で眠るとしよう」
レイガルは目を伏せる。だが、その巨大な瞳の端は、どこか嬉しそうでもあった。
「行ってこい、我が契約霊、ユウトよ」
「はい」
俺は一礼するように軽く頭を下げると、霧の身体を崩し始めた。
仮体構築を解除し、全身を細かな霧へと再分散させる。その霧を翼の形に変え、洞窟の天井付近へと滑るように舞い上がっていく。
霧の翼は、まだぎこちない。それでも、風を捉えるたびに、少しずつ滑空の感覚が洗練されていく。
さっき見たばかりの洞窟の出口から、再び外の光が差し込んでいる。
「じゃあ、行ってきます」
誰にともなく呟き、俺は霧の翼を大きく広げて、洞窟の外へと一歩踏み出した。
半透明の身体が光を浴び、霧の粒子が七色にきらめく。
崖の上の風が、俺を迎えに来るように吹き抜けた。
こうして、霧の精霊ユウトの、はじめての外界探索が始まる。




