第1話 霧の精霊として目覚めた俺
都内の雑居ビルの窓に、夜の雨が細い線を描いていた。会社を出たのは、日付が変わる少し前。コピー機の待機音だけが残るフロアで、俺は最後の資料をまとめ終えて椅子に背中を預けた。
三上悠斗、二十七歳。中堅企業で働く、ごく普通のサラリーマンだ。いや、普通よりさらに地味と言ってもいい。大きな成功もなければ、大きく失敗する勇気もない。毎日をなんとなく走り抜けていた。ただ、今日ばかりは全身が軋んでいる。後輩のトラブルを庇い、何十枚もの修正資料を作り直したせいだ。
パソコンを落として帰り支度をすると、外は容赦なく降り続ける冷たい雨。コンビニ傘を開いて駅へ向かう途中、濡れた横断歩道の前で立ち止まる。信号が青に変わりかけた、その瞬間だった。
ふらつきながらスマホを見て横断しようとする中年男性が視界に入った。後ろからは、ブレーキ音を響かせながら迫るトラック。
考えるより先に、体が動いた。
「危ないっ!」
傘を捨て、男の肩を突き飛ばす。雨しぶきが目に入る。次の瞬間、全身に衝撃が走った。金属が軋み、骨が悲鳴を上げ、意識が光を失っていく。
雨の音だけが遠ざかっていった。
——暗闇。どこまでも静かな、終わりのような始まりのような、妙な空間。
目を閉じているのか、そもそも目があるのか分からない。ただ、深い海に沈んでいくような静寂に包まれていた。
喉もない。耳もない。手も足もない。自分の形そのものが曖昧で、まるで存在が薄くなる感覚。
俺、死んだのか?
そんな呟きが、自分ではないどこかから響いた気がした。いや、考えているだけだ。考えているはずなのに、頭の位置がわからない。思考が霧のように散っていく。
不安が胸の…いや、胸もないが、とにかく焦燥が広がる。
その時だ。
「適合魂素を確認。新規器体、霧の精霊への転生を完了しました」
無機質な声が、空気もない闇の中に突然流れ込んできた。
な、なんだ今の。精霊? 霧?
困惑していると、ふわりと自分が揺れた気がした。それと同時に、周囲に淡い色と形が浮かび上がる。視界というより、空気の流れや湿度の差が“映像”のようになって認識されていく。
ぼんやりとした光。岩肌の冷たさ。水滴の落ちる振動。どうやら洞窟のような場所にいるらしい。
しかし、手を伸ばそうとしても伸ばせない。腕そのものがない。代わりに俺の意識が広がる方向へ、細かい粒子のようなものがふわりと流れていく。
もしかして……これが俺の体?
気付いた瞬間、ぞわりと震えたような感覚が広がった。
「おいおい、マジかよ……俺、霧になってんの?」
声に出したつもりなのに、洞窟には何も響かない。声帯がないんだから当然だ。自分の存在は完全に“霧の塊”へと変わってしまったらしい。
「固有スキル、吸収、解析、拡散を付与します。称号、異界漂着者」
再び頭の中にシステムメッセージが流れた。
この感じ……どこかで見たことある。いや、ゲームのステータス画面じゃないか。もしや、これって流行りの異世界転生ってやつ?
生きてるのか死んだのかは不明だが、少なくとも状況は決まったらしい。霧の精霊として、この洞窟に“生まれ落ちた”わけだ。
そう思うと、不安の隙間から、妙なワクワク感が湧き上がってくる。会社での毎日は灰色だったし、理不尽も多かった。だが、もし異世界で第二の人生をやり直せるなら、それはそれで——
「……ちょっと面白そうじゃん」
独り言のつもりで霧を揺らすと、俺の体がふわっと広がって洞窟の奥まで流れた。
試しにスキルを使ってみるか。まずは【拡散】。
意識を広げるような感覚を送ると、霧が一気に四方へ流れていく。すると、洞窟の壁の凹凸が手触りのように伝わり、遠くの小さな水滴の振動まで感じ取れた。
おお……これは便利だ。目より広く、耳より細かく、まるで全方向センサーみたいじゃないか。
その時、足音のような小さな振動をキャッチした。
とろりとした塊が地面を這うような気配。狩猟本能はないが、危険察知のようなものが霧中に走った。どうやら小型の魔物が近づいてきている。
「まさか……スライム?」
振動を解析すると、生き物特有の魔力反応が微弱に揺れている。たぶん低級の魔物だろう。
試しに、スキル【吸収】を使ってみる。
霧の一部を伸ばし、そいつを包み込むように絡ませると、ぬるりとした抵抗が広がった。しかしその抵抗はすぐに薄れ、魔物の体組織が霧の粒子へと分解されていく。
体の中へ吸い込まれていくたびに、淡い光が俺の中心へ集まる。
「微小魔物の因子を吸収。解析を開始します」
再びメッセージ。
次の瞬間、俺の意識の中にさまざまな情報が浮かんだ。
・低級魔物の体組織
・簡易再生能力
・微弱な魔力
これを……俺の霧ボディに上書きできるってことか?
「チートじゃん……完全にチートじゃん!」
気付けば、喜びで霧が軽やかに跳ねるように揺れていた。
こんな形で手に入れた第二の人生。でも、ここからどうするかは俺次第だ。
改めて周囲に意識を拡散させていくと、洞窟の奥にいくつもの気配があるのを感じた。小さく弱い魔物ばかりだが、それでも吸収と解析にはちょうど良い相手だ。
「よし……まずはレベル上げからってことだな」
洞窟で霧が静かに照り返すように広がった。
俺は——霧の精霊、らしい。
ならば、この形で生き残り、強くなってやる。前の世界で無茶ばかりして倒れた俺だが、ここでは誰の顔色もうかがわず、好きにやっていける。
「やってやるよ、異世界。新しい人生、楽しませてもらうぜ」
霧がふわりと、洞窟全体を照らすように流れた。
ここから、俺の冒険が始まる。




