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白刃ノ緋目譚 ~継火の縁~  作者: Nero
【第一部:焔は誰がために】
4/4

第一章 水場の邂逅:第三話

遅くなりました

第三話です


これで1章は終了です

白焔は畳に胡坐をかき、肘を膝に置いてじっと座っていた。

その姿勢には警戒でも緊張でもない、ただ静かな“滞在”の意志がにじんでいた。

障子の方を一瞥し、すぐに視線を戻す。

ふと目が滑るように、縁側の先――外の景色へと向かう。

咲き残った桜が、風にほつれ、舞っていた。

枝に留まりきれなかった花びらが、春の空気に遊ばれていく。

枯れたわけではない。けれど、確かに“終わっていく”花だった。

「……終わる、のか」

その呟きに、自身がいちばん驚いていた。

誰に問うでもなく、誰に聞かせるでもない。ただ喉を通って漏れた声だった。

息をひとつ吸い、わずかに肩の力が抜ける。

そのとき――

襖が静かに滑り、開く音がした。

「お茶をお持ちしました。……もうすぐ、夕餉が整います」

直哉の声。

白焔は返事をしなかった。けれど桜から視線を逸らすこともなかった。

隣に置かれた湯呑と、微かに動く衣擦れの気配。

それだけで、誰が隣に来たのかが分かる。

「この季節、縁側に座ると……ぼーっとしてしまいます。僕だけですかね?」

否、と言おうとして、声にはならなかった。

言葉が喉の奥で止まり、代わりに少し息が詰まる。

「桜の木、勝手に咲いて勝手に散るくせに、毎年ちゃんと気になります。不思議なものです」

「すぐ、散るか」

そう返した自分の声は、桜と同じように風に溶けていった。

湯呑にそっと指を添える。

陶器のぬくもりが、じわりと指先に伝わってくる。

直哉が目を伏せ、口元に微笑を浮かべる気配がした。

あくまでそっと――白焔に気づかれないように。

「だけど満開の頃は、それは見事で……まるで、白い風が吹くようなんです」

問いではなかった。

記憶を分け与えるような、静かな語り。

白焔は、ほんの少しの間を置いてから口を開いた。

「……白い風」

「……私は風には、なれぬ」

その言葉に、諦めの色はなかった。

むしろ、どこかに芯のある“認識”のようだった。

直哉は湯呑に視線を落としながら、静かに呟くように言った。

「でも、そこにいてくれるだけで、落ち着く風景ってありますから」

「それで、いいのか」

問いというには、弱すぎた。

風になれずとも――

誰かの視界に、確かに残ること。

それが意味を持つのなら。

白焔は、湯呑をそっと持ち上げた。

口元に近づく湯気のやわらかさが、思考の隙間に入り込む。

茶の温もりが舌を撫で、体の内側に広がっていく。

その変化を、自分がどう感じているのか――まだ、わからなかった。

けれど、さっきよりも、湯はやわらかく思えた。

-----

白焔は湯呑にそっと指を添えたまま、まだ桜に視線を向けていた。

静寂は、いつしか心に染み込むような柔らかさを帯びている。

茶をひと口だけ含むと、その温かさが喉から胸の奥へと静かに流れていった。

背後で微かに衣擦れの音。

直哉が立ち上がり、襖をすべらせる気配がする。

隣室へと移動していく足音が、音のない室内に溶けていった。

その音が消えたあと、空間に残された静けさは――どこか、心地よかった。

(……)

やがて再び、襖が滑る音がした。

今度は横手から現れた直哉が、両手に膳を抱えて近づいてくる。

膝をつく動作にも、所作にも、無駄がない。

気配を乱さぬように、すっと隣に座った。

「白焔、食事ができました。まだ温かいうちに、どうぞ」

白焔はわずかに顔を傾け、膳の上を見た。

焼かれた川魚。塩で和えた山菜。どちらも湯気を纏いながら静かに香りを立てている。

形も崩れず、余計な装飾もなく、それでいて温かい。

けれど、どう手をつけるべきか――わからなかった。

視線が、膳の端に置かれた細い棒にとまる。

「串か?」

呟くように言いながら、そのうちの一本を手に取り、迷いなく川魚に突き刺す。

挿絵(By みてみん)

突き刺し、持ち上げ、口へ運ぶ。

旅の中で幾度となく繰り返してきた、食事の方法だった。

こうすれば、食べられる。それだけの話――だったはずなのに。

視線の端で、直哉の表情がわずかに動くのが見えた。

……これは、違うのか。

直哉の微かな表情の揺れに、自分のやり方が誤っていたことを悟る。

咄嗟に釈明する術を持たず、ただ固まる。

けれど直哉はすぐに目の色を戻し、何事もなかったように自然な所作で膳に手を伸ばした。

見せるように、箸を取り、魚の身をほぐしてみせた。

「箸は、こうやって……ほぐすように持つと、身が崩れませんよ」

直哉の声は、何かを押しつけるでもなく、ただ静かに届いてきた。

音だけが、ふわりと自分の前に置かれたようだった。

白焔は少しだけ視線を逸らし、ぎこちなく真似をしてみる。

だが、指先の力加減がうまくいかず、箸の先が魚の皮に滑る。

形が崩れ、身が潰れていく。

……難しい。思ったよりも、ずっと。

「崩れる」

短く、吐き捨てるように呟く。

結局、もう一度箸を一本だけ取り、再び魚を突き刺した。

黙って口へ運ぶ。咀嚼する音さえ静かだった。

「不便な道具だ」

「けれど、少しずつ慣れていくものです」

直哉の声に、責める響きはなかった。

あくまで穏やかに、どこか昔話をするように。

「昔、僕も何度も魚を落としました。……恥ずかしいくらいに」

「……お前も、か」

少し意外そうに、けれど拒まず返す白焔。

「ええ。あの頃の僕が見たら、きっと驚きます」

ふ、と。

白焔は心のどこかに、小さな熱を感じていた。

誰かと並んで食べるということが、これほど面倒で――

そして、これほど心を乱す温かさだとは、思っていなかった。

-----

白焔は膳の前から静かに立ち上がった。

視線も言葉も振り返らず、そのまま歩き出そうとする。

「もう行く」

背にそう告げた声音は、特別な感情を含んでいない。

けれど、その場に漂っていた穏やかな空気が、わずかに揺れた。

直哉は箸をそっと置き、手元に目を落としたまま、静かに言葉を紡ぐ。

「よければ少し、温泉でもどうですか。身体も休まりますし」

「温泉?」

知らない言葉だった。だが、音の響きにはなぜか心当たりがある。

白焔は、かすかに眉を動かした。

「お湯のことです。裏の山道を少し下ると、湧いてる場所があって」

その説明に、遠い記憶が重なる。

岩の間から湯気が立ち、地の熱が肌を包んだ、旅の途中で出会った静かな湯。

湯。蒸気。肌にまとわりつく、静かな温かさ。

それと――きっと同じもの。

「ああ、あれか」

白焔は一拍、沈黙を挟んでから、わずかに視線を横へ逸らす。

「……一度、湯……いや、温泉か。それを借りるだけだ」

言い直す必要はなかった。けれど、そうしていた。

否定の理由は――見つからなかった。

「じゃあ、こっちです。足元に気をつけて」

直哉が立ち上がり、勝手口の方へ向かう。

白焔は数歩遅れてその背を追う。

言葉は要らなかった。

ただ、歩を合わせればいい。

襖を抜け、夜気の漂う境内に出る。

空気は澄み、静寂の中に草木の揺れが溶けていた。

裏参道。静かな夜の山道を、直哉が先に進む。

白焔は三歩ほど後ろを、黙ってついていく。

知らない道でも、歩けると思っていた。

だが、白焔の足は自然と、直哉の歩幅を追っていた。

柔らかな音。

土を踏む音、衣擦れ、そして前を行く気配。

近すぎず、遠すぎず――妙に落ち着く距離。

「この道、村の人たちはあまり使いません。……僕ら神職専用みたいなものです」

「……裏山に、湯があるのか」

問いというより、思考が言葉になっただけ。

それでも直哉は振り返り、苦笑を浮かべる。

「こちらです。ちょっと草がかぶってますが……昔からの道です」

脇道へと折れ、木の根が浮いた細い獣道に足を踏み入れる。

踏みならされた跡は、かすかに残るだけ。

白焔は足元を確かめるようにしながら、ついていく。

「……足跡が、薄い」

「ここは、あまり人が通らない道で。……草も、すぐ戻ってしまうんです」

「先代が偶然見つけたらしくて。……村の人たちにも、ほとんど知られてないんです」

「……隠す理由は?」

「たぶん……静かなままでいてほしかったんじゃないでしょうか」

白焔は何も答えなかった。

ただ足を運び続ける。

その歩調が、気づかぬうちに直哉と揃っていた。

-----

白焔は湯の中に肩まで身を沈めていた。

背を岩に預け、目を閉じる。

夜気に溶ける湯気が肌をなぞり、湯の温度がじわじわと染み込んでくる。

空気には、かすかに硫黄の匂いが混じっていた。

肌にぬめるような感触――この感覚は、かつて旅の途中で触れたそれと同じだった。

指先を湯面に沈める。

そっと撫でるように、水を分ける。

けれど、何かが違った。

目を閉じても、聞こえてくるのは風の音。

静かで、深くて、どこか遠くにあるような、夜の音。

それが、肌の感覚のように白焔に触れていた。

湯気が肩先で揺れる。

白焔はゆるやかに背を沈め、口を開いた。

「……静かだ」

喉を通った声は、湯に吸い込まれるように、波紋も立てず消えていった。

けれど、不思議と――誰かに聞かれていたような気がした。

たった数時間前のことが、遠い記憶のように思えた。

──思い出す。あのときの光景。

神社の室内。

血に染まった袖口を抱え、白焔は片膝をついて座っていた。

着いたばかり。警戒も、余裕も、まだ解かれていない頃。

直哉は黙って近づき、膝をつくと、濡らした布を手に取った。

「犬神様、腕を失礼します」

白焔はわずかに視線を伏せたまま、口を開いた。

「白焔でいい」

「はい?」

小さく驚くような、気遣うような声音。

「さっき、名を教えてやっただろう」

「……はい。けど、犬神様として、接するべきだと思っていて」

「人と、変わらぬ」

神ではない。その名は借りもの。

だからこそ、“人”として呼ばれたかった。

それをただ、伝えたかった。

直哉が手を伸ばす気配に、白焔はほんのわずか肩を引いた。

痛みではない。

人の手が、肌に触れようとしていた。

けれど、それを拒まないと――自分で決めた。

直哉は力を加えず、余計な言葉もなく、布を当てた。

傷口を丁寧に拭いながら、ただ黙って向き合っていた。

白焔は口を閉ざしたまま視線を落とす。

そのぬくもりが、胸の奥で、静かに波を打った。

──湯気の世界へと戻る。

湯の温度が、わずかにぬるくなっている気がした。

記憶の余熱が残るせいか、それとも本当に冷めたのか――わからない。

白焔は湯面に視線を戻す。

そこに映るのは、誰でもない、自分の顔だけだった。

「……触れられると思わなかった」

誰かに手当てをされること。

誰かの呼ぶ声に、名を返すこと。

それは、自分には縁のないものだと思っていた。

ただの治療。そうだったはずなのに――

あのときの温もりだけが、なぜか心に残っていた。

白焔は喉の奥で、かすかに息を飲む。

湯の中でひとつ、静かに息を吐いた。

そのまま背を少し沈める。

名を呼ばれた。ただ、それだけのこと。

けれど、なぜか――心が静まらなかった。

夜気がわずかに揺れ、湯気が細く、空へと消えていった。

-----

白焔は湯から上がり、髪の滴を軽く払った。

夜気が衣の隙間から差し込み、湯気が肌からゆっくりと離れていく。

熱の余韻が体の内側に残る中で、足元に目を落とす。

脱衣所に置いた衣を身にまとい草履を履き、濡れた足がしっかりと地を踏んだことを確かめる。

行く先は決めていなかった。

けれど、気づけば、白焔の足はさっき来た道を、そのまま戻っていた。

(……)

神社の室内。

襖を引くと、懐かしさにも似た灯りが目に映った。

湯の余熱がまだ体に残っている。

白焔は、ためらいもなく一歩、畳の上へと足を運んだ。

帰るつもりだった。

だが、どこに帰るのかを――決めていなかった。

室内には、直哉の姿。

明かりの傍で膝をつき、茶を淹れている。

片手に湯呑を取り、もう一つを黙って白焔の前に差し出した。

白焔は視線を落とす。

湯気が立ち上る茶を、無言で受け取る。

「湯は借りた」

「お身体、冷やさないうちに」

咎めも、問いもなかった。

言葉の代わりに、静かな茶の湯気が二人の間を満たしていた。

白焔はそのまま畳に腰を下ろす。

衣擦れの音が、わずかに空気を揺らす。

「こうして、お茶をお出しできてよかったです」

「別に、礼を言われることはしていない」

「いえ。ただ、そう思っただけです」

言葉に含まれるのは感謝ではなく、確認でもなく、ただの“思い”。

それが、白焔には妙に重く響いた。

「今夜は冷えますから。よろしければ、泊まっていってください」

白焔は手にした湯呑を見つめた。

湯気が、揺れている。

それが静かに、どこかへ昇っていく。

どちらでもよかった。

ただ、この場所を離れて、どこへ向かうかを決めていなかっただけ。

白焔は手にした湯呑をじっと見つめた。

湯気が、わずかに揺れながら昇っていく。

その流れに、思考が沈む。

やがて――「一晩だけだ」

「はい。一晩だけです」

直哉の返事は、柔らかく、肯定だけを含んでいた。

白焔の言葉を否定も拡張もせず、ただ受け止める声だった。

やがて、直哉の視線が白焔の衣へと移る。

「その着物、少し土埃が……。」

白焔は、少しだけ眉を寄せた。

「明日、この衣を洗わせてください」

その言葉に、白焔は短く間を置いてから呟く。

「……それは、お前がしたいことだろう」

「ええ。……だから、そうさせてください」

「……わかった」

直哉はそっと立ち上がると、すぐ傍に置いてあった薄い着物を手に取った。

「こちらを。……少し大きいですが」

白焔は無言で受け取る。

柔らかな布が手の中に落ち着く感触に、わずかにまぶたが伏せた。

衣を預けることにも、受け取ることにも理由は要らなかった。

けれど、手の中に残った布の感触は――なぜか、心を静かに揺らした。

誰かに何かを任せること。

それは、まだ慣れない。けれど、手放すことが――怖いわけではなかった。

白焔は再び湯呑に手を伸ばす。

陶器の中に、まだ温もりが残っていた。

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