弱者たち①
先輩は躊躇いもなくスライド式のドアを開け女子トイレの方に入った。躊躇いが無さすぎて僕も自然と女子トイレに入ってしまった。床はびちゃびちゃしていて気持ち悪かった。入り口前よりも悪臭がすごい。ザ公衆トイレの臭い。
女子トイレといっても、多目的トイレという表現の方が正しいような気がした。個室は一つでスペースがとにかく広い。スライド式のドアを開けて、大股で3歩くらい歩かなきゃ便器に辿り着かない。
「ま、マンホール…」と入って最初に言葉を発したのは、キノコメガネ君だった。そう…女子トイレに入ってすぐ足元にマンホールがあった。暗く、泥だらけの床だったからマンホールがあることに違和感がない。けど冷静に考えたらおかしい。ここは女子トイレだ。
「おいデブ!踏むな!」と先輩は太っちょ君に向かって怒鳴り上げた。太っちょ君の体はビクリとマンホールの上から跳ね上がりキノコメガネ君の後ろに隠れた。ヒョロリとしたメガネ君の後ろに身を寄せても太っちょ君の体はほとんど何も隠せていない。
太っちょ君の様子を見ていたらメガネ君と目があった。メガネ君は眉間に皺を寄せた。こっち見んなよと視線で訴えてくる。僕は急いで目を逸らした。
「すいません仙道くん…あの…この人達は誰で、ぼ、僕たちはこれから何をするんですか?」と太っちょ君は聞いた。
話し方はオドオドしていたものの、実にいい質問だと思った。
まず、この先輩の名前が“仙道”だと分かった。そして僕もメガネ君と太っちょ君が何者か知りたいし、これから何をするか確認したい。
仙道先輩は太っちょ君に目を合わせずに、女子トイレの便器裏に置かれていた金属の工具を取り出した。金属の棒を3本組み合わせた、“井”の横棒を一本無くしたような…くさかんむりの形をしたような…今までの人生で一度も見たことがない工具で鉄サビだらけだった。それもそうだ。こんな湿度80%は超えていそうな臭い空間に金属を置いていたら腐るのも当然だ。
泥まみれのマンホールにある小さな穴2つめがけて、仙道先輩は先程の金属の棒を刺した。マンホールの穴2つと金属の棒は綺麗にハマった。そして仙道先輩は金属の棒を、マンホールの蓋と合わせて上に引っ張りあげた。仙道先輩の浮かび上がった血管から、メガネ君と太っちょ君が先輩に逆らえない理由が分かる。
背が高くて筋肉があれば大学生までは無双できそうだなと高校生の僕は生意気にもそう思った。
「よし…メガネ、お前から下におりろ」と仙道先輩はメガネ君に向かって命令した。
「えぇ僕…?僕ですか?」とメガネ君は身体全身を震わせながら言った。首まで鳥肌が広がっていた。
「し、下には何が…この人達は…」とメガネ君はモゴモゴと言ったが後半の方はほとんど聞き取れなかった。
「さっさと降りろ」と仙道先輩は言葉に抑揚をつけず淡々と言った。そこには怒りや苛立ちは感じなかった。
メガネ君は足をガクガクと震わせた。断っても無駄だということを察したようだ。
「これで…約束守ってくださいよ。明日言ってくださいよ。ちゃんと明日、アイツらに嫌がらせはヤメてと」
「あぁ分かった」と先輩は話半分で言った。
なんとなく仙道先輩とメガネ君と太っちょ君の関係性が分かり居た堪れない気持ちになった。隣の蛍と仁は面倒くさそうな顔でそのやり取りを見ていた。コイツらに人の心はないのか。
メガネくんはマンホールの下の暗闇を見つめて深呼吸を3回した。そして手と足をブルブル震わせながらマンホールの下にかかったハシゴをひとつひとつと降りて行った。
その後、先輩の指示のもと、太っちょ君、蛍、仁の順番で下に降りて行った。
仙道先輩は仁が見えなくなったのを確認してから「来てくれて助かったよ」と僕に言った。
「え」と僕は思わず口から出てしまった。仙道先輩の頬が少し緩んでいた。
「今度失敗したら死ぬんだ」と仙道先輩は言った。その落ち着いた喋り方はドッペル長谷川と同じだった。
「…なんか大変そうですね…」と適当に相槌をして僕は地下に繋がるハシゴに手をかけた。僕は疲れている。もうこれ以上、感情の起伏を起こしたくない。嫌でもどうせ逃げられないし、僕の身に起きたことが何かわからない。先に地下に入った4人にも申し訳ない。今はもう流れるまま誘導されるがままに身体を動かそう。
下からは「助けて…」と言う声が聞こえたと思ったのも束の間、それを打ち消すように甲高い老人の雄叫びが聞こえた。