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☆輝星side☆
長時間雨を降らせる梅雨前線は、いったいどこに行ってしまったんでしょうか?
お願い、今すぐ戻ってきて、このお昼休みだけでいいから。
拝むように手を組み空を見上げる。
「うっ、太陽まぶしいっ」
夏直前の太陽は直視注意だったなと、僕は反射的に目を細めた。 湿気を含んだ雨雲たちは、ギラギラな太陽の熱で蒸発してしまったのかもしれない。
湧き出る汗をぬぐうため、指先まで隠れるジャージの袖でおでこをおさえている時だった。
「なーにオマエ、そんな暑っ苦しいもの着て。日焼け防止? ついでにこれでもかぶっとけ」
人懐っこいを通り越して暑っ苦しい長身男子が、かぶっていたキャップを僕の頭に乗せたのは。
長めの前髪をワイルドにかきあげたのは、テニス部の奏多くん。 僕と同じ高3だけどクラスは違うし、まともに話しかけられたのは今日が初めて。
「つーかマジで暑いくね? 冷えたスポドリ一気飲みしてー」
奏多くんがオスっぽいフェロモンを無意識に振りまくだけで、テニスコートの周りに群がる女子たちから黄色い悲鳴が沸く。 異様な光景だけど、僕の高校の生徒は見慣れている。 いまさら驚くことでもない。
「キャー、奏多くんカッコいい」
「腹筋見えた、割れてた」
「シックスパッドだったね。直視ムリ、でももっと拝みたい、触りたい、抱きしめられたい!」
なんて女子たちがはしゃぎだしたのは、奏多君が体操服の裾をまくりあげ、腹チラ見せで顔の汗を拭いたから。
「カスミの代わりに、俺がお前を鍛えてやるからありがたく思え」
言葉だけとると乱暴だ。 許可なく僕の肩を抱いて、許可なく僕の側頭部に額をぶつけてくるところがヤンキーっぽい。
でも笑顔は幼くて八重歯を光らせながらヤンチャに笑っているから、不思議なほど憎めない。 僕が冗談できつい言葉をぶつけても、笑い飛ばしてくれそうな安心感すらある。
不思議な人だなと感心はしているものの、正直離れて欲しい。 暑い、暑苦しい、そして霞くんから飛んでくる視線がものすごく痛い。
ハッとなった。 遅れてとんでもないことに気がついた。
僕は今、霞くんに嫉妬され、恨まれているのではないかと。
僕の肩を抱いたまま陽気にしゃべている奏多君の声なんて聞いているほど、能天気な脳みそを持ちあわせてはいない。
霞くんは僕と奏多くんの真ん前に立ち、飛び切りの笑顔で僕たちを見つめてはいるものの……
この笑顔はヤバい時のだ。
小6までの霞くんをところどころ思い返し、僕の背中の広範囲から冷や汗が吹き出た。
目じりが垂れている。 口角が上がっている。
一見、王子様スマイルなのだが……
瞳の奥が笑っていない。 これは怒っている時の顔だ。 僕にはわかる。 小6まで霞くんの隣を独占してきた僕だからわかる。
そして霞くんが激怒している原因はこれしかない。 僕に奏多くんをとられたと思い込んでいるんだ。
好きな人に嫌われたくないという思いは、ものすごい原動力になる。
僕の肩を抱え、僕の体を揺らし、一人しゃべりまくっている奏多くんの手を払い、僕は逃げだすことに成功した。
「なんだよ、テニスでうまくなるための秘策を伝授してやってんのに、話は最後まで聞けっつーの」
奏多くんの眉間のしわも、吊り上がった眉も、気にしてなんかいられない。 僕は目にかかるユルふわ髪の隙間から、目玉を上向きにして霞くんを確認する。
はぁ~良かった、もう怒っていないっぽい。 いつもの優しい王子様スマイルに戻ってる。
今ので【霞くんの好きな人は奏多くん】という事実が立証されてしまったのだが、悲しむのはあとにしよう。 このお昼休みを、僕はなんとか乗り切らなきゃいけないのだから。
もう流瑠ちゃん、なにとんでもないことをしてくれちゃったわけ!
今朝の出来事がフラッシュバックしてきて、胃がきしむ。
登校後の教室でビックリしたんだから。 心停止寸前、魂が天に召されるかと思ったんだから。
奏多くんのキャップを深くかぶりなおし、僕は記憶を蒸し返さずにはいられない。
今朝教室に入ったら、ニマニマ嬉しそうな流瑠ちゃんが黒板に大きな文字を書き連ねていた。 僕だけじゃない、クラスのみんなも黒板に大注目。
チョークを置いた流瑠ちゃんは、キラキラ顔で黒板を叩いて「変更になったよ、みんなよろしくね」と、ポニーテール大振りでニコリ。
ルンルン跳ねる琉留ちゃんの声同様、黒板の文字も浮かれていた。 でも僕の肝は瞬間冷凍。 北極に行って白熊とかき氷でも食べたんですか?というくらいの、冷え冷えのガチガチさ。
【諸事情により、霞くんと輝星くんでテニスの試合に出ることになりました!】
黒板に書いてある文章を見て、ドッキリだと思い込みたかった僕が失望したのは 『はいみんな、ナイスタイミングで登校してきたテラっちに拍手~』と僕を手のひらで指した流瑠ちゃんに加え、拍手パチパチでクラスメイト達が僕を取り囲んできたから。
『萌黄って、調理部だけど運動神経いいもんな』
小6まで軟式テニスに打ち込んでいたおかげか、たいていのスポーツはそこそここなせるけど。
『県大会優勝の霞と組むわけだし、絶対いい結果残せるって』
待って、期待しないで、勝手に話を進めないで。 僕はいま、テニスに出るって聞いたばかりなんだよ。
『男テニの試合は球技大会の花形じゃん。校長も毎年楽しみにしているよね』
体育大会は体育館でやる種目がほとんどだけど、唯一男子テニスの試合だけは外。 雨なら高校の近くの室内テニス場を貸し切ってまでテニスの試合をするし、決勝戦は全生徒が見れるように会場までのバスも手配してくれるという熱のいれよう。
球技大会に女子テニスの試合はない。 昔はあったらしいが、男子テニスの試合を絶対に見逃したくない女子たちの強い要望でなくなったんだとか。
『輝星くん、霞くんと組んで絶対に優勝してね』と控えめなクラスメイトにまで期待され、僕の胃がさらに縮こまる。
霞くんは高校1のイケメンといっても過言ではない。 見目麗しくて優しい王子様だって、同級生にも下級生にも大人気。 一緒にダブルスを組んだら、僕まで注目されてしまう。
それ以上の問題は、霞くんは僕なんかとテニスをしたくないはずってこと。 中1から避けられてきたわけだし。
あれ? そういえば昨日のバスの中で、霞くんが『テニスするの?』って言ってたけれど、もしかして球技大会のことだった?
霞くんは僕とテニスの試合に出るってことを、昨日の帰りには知っていたんだ。
僕たちが組んでテニスの試合に出るのは決定事項なの? 覆らないの? なんでこんなことに……
そのあと登校してきた体育委員の堀北くんから事情を聴き、一連の犯人が発覚した。 黒板書き書きと拍手誘導の時点で、親友の腐女子ちゃんに目星をつけてはいたが大当たり。
脳も心もだいぶ落ち着いた2限目の授業中、机に立てた教科書で顔を隠し『僕をはめたな!』と流瑠ちゃんを睨んでみた ……ものの、流瑠ちゃんへのダメージはゼロだった。ただただ僕の疲労が蓄積されただけ。
流瑠ちゃんは悪びれもせず、満面の笑みで僕に両手ピースを送ってきて。
――腐女子ちゃんの行動力を見くびっていた。
自分が甘すぎだったと、気力プシューで僕は片ほっぺを机に押し当てたのでした。
これで終わりならよかったのに。 予期せぬことが次から次に襲ってくる今日は、厄日ですか?
3時限目終了のチャイムのあと、奏多くんが僕のクラスに来ました。 いつものように霞くんとおしゃべりを楽しむんだろう。 カスミソウコンビは高1から仲良すぎだから。
そう思って瞳を陰らせていたら、奏多くんは僕の席にまっしぐら。 座っている僕の肩に腕を回し、真っ白な歯が全見えするほどニカっと笑って 『今日の昼休み、ジャージに着替えてテニスコートな』と、肩を抱く腕に力を込めたんです。
もちろん僕は瞳キョトン。
『もしかして……テニスを……僕に教えてくれるとか?』
『ありがたいだろ? 俺に感謝しろ』
次の授業が終わったら、僕は奏多くんとテニスをしなきゃいけないの? うそだよね?
『ラケット……持ってないし……』
『貸してやる、俺の予備』
うっ、結構ですなんて言えない雰囲気。 今週末にテニスコートを借りて練習しますから。 硬式テニス経験者の父さんにしごいてもらいすから。 それで勘弁してください。
『でも……奏多くんのお昼休みの時間が減っちゃうよ……』
『もしかしてオマエ、俺とテニスしたくない?』
バレてる! 笑顔でごまかさなきゃ。
『ううん、そういうんじゃないよ。県大会優勝した奏多くんに教えてもらえるなんて光栄すぎて、なんか申し訳ないなって。奏多くんだって自分のために昼休みの時間を使いたいだろうし』
『オマエ、いいやつだな』
『え?』
『霞が目で追ってる理由、わかった気がする』
『ん? 今なんて言ったの?』
急に声のボリュームが小さくなったから、全然聞き取れなかったんだけど。
『人って関わってみないとわかんないもんだなって、自分のガチガチな固定観念にメスぶっ刺したてただけ』
『?』
『上目遣いのキョトンやめろ。襲われるぞ俺に』
『襲う? 僕を?』
『冗談だって。ライオンに食べられそうになってるヒヨコにしか見えねー。マジで沼るわオマエ』
大きな手の平で、僕の髪の毛をワシャワシャしないで。
と言えなかったのは、いつも吊り上がった奏多くんの目じりが垂れさがり、楽しそうに笑っていたから。
凛々しいワイルドフェイスが笑うと幼い感じに崩れるところが、奏多くんの魅力なのかもしれないな。 霞くんだけじゃなく、同級生男子が奏多くんに群がる理由がわかる気がする。
なんて、強面奏多くんのギャップに引き込まれている場合ではありませんでした。 お昼休みのテニスは断らなきゃ。
奏多くんと霞くんは、いつも二人でお昼を食べている。 僕が奏多くんをとったと、霞くんに勘違いされたくない。 これ以上嫌われたくない。
『あの……昼休みは……』
予定があると嘘を吐き出そうとしたが、奏多くんが陽気に片手を上げたから僕の口が固まってしまった。 彼の熱い瞳が見つめる先を、目で追いかける。
『なんで朝から、奏多が俺のクラスにいるの?』
上品な笑顔を浮かべた霞くんが、奏多くんを軽くいじって 『俺がテラセを最高のライバルに仕上げようと思って』 奏多くんはニヒヒと笑いながら、椅子に座る僕を後ろからハグ。
クラス女子たちが『キャー』『テラセくんが抱きしめられてる』っと黄色い悲鳴をあげ、『萌黄って小動物みたいな顔してるもんな』と、男子たちは意味不明な頷きをコクコク。
いやいや、クラスメイトなんてどうでもいい。 僕の斜め前に立つ霞くんの目が、異常なほど怖くて。 笑っているのに、怒っているのがまるわかりな目で。
霞くん違うの。 奏多くんを霞くんからとろう、なんて考えてないからね僕は。
『テラセって抱き心地いいのな。肉があんまないこの骨っぽさ、家で飼いたい、オマエのこと』
奏多くんはさらに力を込めてギュッ。 力が強すぎて逃げられない。
『奏多は萌黄くんのこと、テラセって呼ぶようにしたんだね』
ニコニコなのに声が低い霞くんが、なんか怖くて。
奏多くんお願い、バックハグやめて、今すぐ離れて。 テニスやるから。昼休みにテニスコートに行くから。
『今日の昼休み……テニスを……僕に教えてください……』
奏多くんと霞くんのそばから一秒でも早く逃げたかった僕は、しぶしぶテニス練習に同意してしまったのでした。 過去回想から意識を現実に戻す。
今はお昼休みです。 お弁当は食べていません。 ストレスで胃が膨らんでいて、食べ物が入り込む隙間はないからよしとします。
とりあえず誰か、僕を助けてくれませんか?
テニスコートの周りを取り囲むカスミソウ推しの女子たちの視線が突き刺さって、痛いこと痛いこと。 奏多くんにバックハグをされたからといって、霞くんから奏多くんをとったりしないからご安心をと女子たちに言って回りたい。
逆もしかり。 霞くんに嫌われている事実を重く受け止め、僕は初恋を諦めたんです。 僕にとっても霞くんと奏多くんが推しカプなんです。 霞くんと僕、奏多くんと僕は、僕にとって地雷カプなんです。
僕の代わりに霞くんとペアを組んでテニスの試合に出てもいいよというクラスメイトが現れたら、病みぎみのメンタルが回復できると思うのですが……
テニスコートから今すぐ逃げられたらと切に願う。
薄曇りの空を見上げると、あんなにギラギラだった太陽が雲に隠れていた。 僕の周りを雨雲が取り囲んでくれたら、太陽みたいに雲隠れすることができるのにな。
逃げたい。 教室にこもりたい。 でも熱血ワイルドの奏多くんは、なぜか僕を逃がしてはくれない。
「太陽出てないし、これはもういいよな」と僕の頭からキャップを奪うと、自分の頭にキャップをかぶせて僕の腕をガシリと掴んだ。 そして霞くんにボヤキをひとつ。
「カスミ、オマエはもう教室戻っていいわ」
「え?」
「テラセに興味が湧いた。俺一人でこいつをビシバシ鍛えあげることに決めたから」
目を見開いて固まる霞くんを置き去りにして、僕の腕をぐいぐい引っ張っていく奏多くん。
「ちょっと奏多くん、僕をどこに連れて行く気ですか?」
強制連行って言葉がぴったりなほど、僕は強引に引きずられていますが……
「なぜ俺に敬語?」
だって奏多くんは、上から物申すときの威圧感がすごくて……
「壁を感じる。鳥肌立つからやめろ」
「あっうん、わかったよ」
これ以上にらまれたくないから、言うことを聞くよ。
我が道を行くがごとし。 まっすぐ前だけを見て進む奏多くんの前に、両手を広げた霞くんが立ちはだかった。 僕の足が歩みをやめ、僕の口から安どのため息がこぼれる。
「奏多、萌黄くんが困ってるでしょ。今日は3人でテニスの練習を……」
「ヤダ、カスミはぜってーこいつを甘やかす」
「球技大会は部活じゃないんだ。楽しく練習するのが一番だと思うけど」
「あと数日しかないってわかってんの? こいつを鍛えれる日。んなら、ビシバシ行くしかねーよな?」
「自分にも他人にも厳しい奏多一人にコーチを任せたら、萌黄くんのメンタルが壊れちゃう」
「心配するなって、ちゃんと飴も用意する」
「そういうことじゃなくて……」
「テラセは俺がもらってく。カスミは食堂で優雅に紅茶でも飲んでろ」
奏多くんの手のひらが、僕の腕をさらに強く掴んできた。 また連れ去られちゃうんだ。 ヘルプメッセージを瞳に託し、霞くんを見あげる。 でもすぐに後悔が湧いた。 いつも優雅に微笑んでいる霞くんの顔から、一切の笑みが消えていたから。
悔しそうに拳を握り、きつく唇をかみしめる霞くん。 瞳が悲しげに揺れている。 こんなに痛々しい表情を見たのは、あの時以来かも。 僕が火の中に飛び込んだ小6の……
やめて奏多くん、これ以上僕にかまわないで。 なんで霞くんが怒っているかわかるでしょ?
霞くんはね、奏多くんと二人だけになりたいんだよ。 僕が邪魔なの。
彼が抱く怒りの名は嫉妬なの。 僕の腕を掴んでないで、霞くんをハグしてあげて。 オマエだけが大事だって、甘い言葉をささやいてあげて。
背が低くて華奢で、昔テニスで俊敏性を鍛えた自分の特性をいかんなく発揮するのは今しかない。
奏多くんに怒鳴られる覚悟を決め、捕まれている腕を振り払いながらしゃがみ込む。 背中を丸めながら地面を蹴り、奏多くんの前から逃げることに成功した。
「オマエな」と僕を睨む奏多くんをなだめるように、霞くんがおっとりと微笑んだ。 奏多くんだけを真ん前から見つめ、半袖から伸びる奏多くんの腕をさすっている。
「奏多、萌黄くんにすごまないの」
「だってテラセって、見るからにテニスヘタそうだし。俺の剛速球を打ち返すどころか、怖いとか言いながらブルブル固まってそうじゃん。だからまずはメンタルを鍛えねーと」
「見た目で勝手に判断したらダメだよ。萌黄くんはテニスが上手なんだよ。小学校の時だって……」
「へぇ」
「奏多なに?」
「テラセがテニスしてるとこ、カスミは見たことがあるんだ」
「……えっ」
あわわ、霞くんの繊細な眉が下がってる。返答に困ってる。
「いつ見た? どこで見た? 練習、大会? テラセ何位だった?」
まくし立てながら、霞くんの肩を揺らす奏多くん。
「別にどこでもいいでしょ」と、霞くんが奏多くんの手を肩から外しても 「うまいなら、それなりの結果を残してるってことだよな? 知ってること全部言え。俺に教えろ」と、霞くんに額をぶつけそうなほど奏多くんは前のめりになっていて、目がやけにキラキラ輝いていて。
「早く練習しないと、お昼休みが終わっちゃう。はい、奏多の大好きなテニス練習をはじめるよ」
霞くんが奏多くんの背中に手を当て、テニスコートの中央まで押し戻したところで、ようやく奏多くんがうんうんと頷き始めた。
「まぁそうだな。今日は3人で打ち合いするか」
「奏多、萌黄くんに貸すラケットは?」
「あっ忘れた。置きおっぱだ、部室に取りに行かんと。マジめんどい」
ぼやきながらも部室棟に向かって走り出した奏多くん。 小さくなっていく彼の背中を見つめる僕の肩から、たまりにたまっていた緊張感が少しずつずり落ちていく。
はぁぁぁぁ、いったん嵐が去ってくれた。 でもまだ心臓はバクバクとうるさいまま。 テニスコートに霞くんと二人だけになってしまった。
彼の心底を探れていない僕は、視線が交わることすら気まずくて目線が下がってしまう。 嫌いな僕とテニスのペアを組むなんて、霞くんは嫌だよね。 練習すらしたくないと思うんだ。
でも霞くんは優しいから、当分のあいだ学校に来れない小倉くんのために、僕とテニスをしたくないとは絶対に言わなくて。 今もお兄さんみたいな穏やかな笑顔で、僕に微笑みかけてくれている。
「萌黄くんは、テニスをやっていたりするんだよね?」
またしても苗字呼び。 話し方も他人行儀だ。 心無い笑顔の花が咲き誇っていて、壁を作られているのがまるわかり。
「週に2回くらい、父さんと黄色いボールを打ち合ったりしてるよ」
「頼りにしてるね」
「あっ、うん」
髪が躍るほどオーバーに頷いた僕だけど、うまく笑顔が作れない。
霞くんが僕の目の前で咲かせている笑顔の花は、仲が良かった小学生のころとは全く違う色どりだ。 僕が得意としている作り笑いと同じだと、簡単に見破ってしまった。
テニスコートの周りを囲んでいる女子たちの目があるから、とりあえず僕に微笑んでいるだけ。 本当は今すぐ僕の前から消えたくて、僕なんかと関わりたくもないに決まっている。
悲しみが僕の右腕の傷跡をつつく。 痛むのは右腕なのか、ハートなのか、それとも両方なのかわからない。
ジャージの長袖に覆われた腕を体に巻き付け、うつむいた時だった。 「危ない!」 切羽詰まったような声が僕の耳に突き刺さったのは。
何が起きたのかわからなかった。 叫んだのは霞くんで間違いない。
大好きな声が耳に届き肩を跳ね上げはしたものの、状況を確認する時間は0.1秒もなくて。 誰かに腕を引っ張られたと思った直後、僕の体が何かにすっぽりと包まれたんだ。
動けない。 今この瞬間も。 甘い熱に体中が縛られ、心まで捉えられてしまったから。
僕の右頬には固いものが押し当てられていて、ドクドクと響くような心拍が心地いい。
腰に巻きついているのは、程よく筋肉がついた腕。 顔を守るように僕の片耳に大きな手の平が添えられていて、後頭部に当たっているのは顎……だよね?
清涼感のある心地い匂いが鼻腔をくすぐり、ハートまでくすぐってくる。 極上の毛布に包まれているようなぬくもりに溺れそうになって、息苦しくて。
「大丈夫だった? 輝星」
優しさと焦りが溶け合うような甘い声が、僕の鼓膜を揺らした。 さらに強く抱きしめられ、沸騰しそうなほど血液の温度が上がってしまう。
抱き好きな人に呼んでもらえた……輝星って……嬉しい……
湧き上がる喜びは涙腺を弱くするらしい。 感極まって瞳に滲みだした雫。
霞くんの胸に頬を当てていると、彼の心拍がダイレクトに伝わってくる。 ものすごく早いビートを刻んでいるような。 僕に負けないくらいの駆け足気味。
この身体現象が、僕を抱きしめていることによるドキドキだったらいいのにな。
霞くんの胸板から頬を外し、僕は緊張気味に視線を上げる。 騎士のように凛とした顔で遠くを見つめていた霞くんが、視線を下げた。
至近距離で目が合う。 視線が絡みあう。
霞くんの綺麗な瞳に、この僕だけが映っている。
この瞳を独占したいと、この6年間思ってきた。 僕だけを見つめて欲しいと願い続けてきた。 その夢が今叶うなんて。
このままずっと抱きしめられていたいと思うのは、僕のワガママだよね。
僕を抱きしめる腕がほどけないのはなぜ?
恥ずかしさの中に甘さが溶けこんでいるような表情で、僕を見つめ続けてくるのはなぜ?
「キャー! カスミ先輩がテラセ先輩を抱きしめてる!」
遠くから黄色い悲鳴が飛んできて、現実に意識が引き戻された。
「やめて、私の推しカプはカスミソウなのに!」
「麗しい霞先輩と可愛い輝星先輩のカプなら、わたし推せちゃう!」
みんなに見られているという現実が羞恥心をいたぶってきて、僕と霞くんは焦りに任せお互い背後にジャンプを決める。 僕たちの間にはリンゴが10個並べられそうな距離が生まれてしまった。
流れ出す気まずい空気。 ビビりな僕は顔を上げられない。 霞くんの靴を見つめれば見つめるほど、霞くんへのハテナが募ってしまう。
大好きな人のぬくもりに包まれている時は幸せすぎて冷静に考えることができなかったけれど、霞くんはなんで僕を抱きしめたりなんかしたんだろう。
『危ない』と叫ばれてからのギュッ。 何かから僕を守ってくれたのかな?
いやいや、そんなことはどうでもいい。 キャーキャー飛び跳ねるような黄色い声が四方八方から飛んでくるから、恥ずかしすぎて。 消えたい。 透明人間になりたい。
みんな、テニスコートにいる僕と霞くんを注目しないで。 僕は霞くんに嫌われているんだよ。
頬に刻まれてしまった霞くんのぬくもりを消したい。 力強く抱きしめてくれた彼の腕の圧を消し去りたい。
でも本当は消したくなくて。 ずっとずっと僕の中に残って欲しくて。 宝物にしたくて。
【霞くんの特別は、僕じゃなくて奏多くん】
悲しい現実が苦しくてたまらなくなった僕は、萌え袖からちょっとだけはみ出す指たちで顔を押さえた。
「つーか、女子たちはしゃぎすぎ。耳痛いんだけど」
靴を引きずるような足音にハッとし、体をひねって後ろを向く。
「うちの高校の王子様人気、まじエグイよな」
黄色いテニスボールを手の上でポンポン投げながら僕たちに近づいてきたのは、奏多くんだ。
だるそうに口を曲げ、反対の手で握っているラケットの先をテニスコートの外にいる女子たちに向けている。
「一部始終見てたけどさ、飛んできたテニスボールから姫を守ったって、カスミの王子様伝説がまた一つ増えるんじゃねーの? あほくさ」
テニスラケットを肩に担いだ奏多くんの言葉に、ようやく僕はこの状況を理解した。
そういうことだったんだ。 霞くんに抱きしめられてドキドキに襲われていたけれど、霞くんは僕がボールに当たらないように腕を引っ張てくれただけなんだ。
とっさのことで覚えていないけれど、もしかして僕から霞くんの胸に飛び込んじゃったのかな?
抱きしめられたというのも僕の思い込みで、ただ霞くんの腕が僕に当たっていただけだったのかも。 そうだよ、絶対に。
だって霞くんは僕のことが嫌いなんだもん。 6年間も無視され続けてきたんだもん。さっきだって、僕と奏多くんが話していただけで嫉妬していたし。
それくらい奏多君のことが大好きってことだよね?
そういうことだよね、霞くん。
とりあえずお礼を言わなきゃ。
僕たちはには頭一つ分の身長差があって、どうしても霞くんを見上げる形になってしまう。
「ありがとう……かすみくん……」
ジャージの長い袖から指先だけを出した状態で口元を覆ったら、霞くんは目を見開いて
「……ごめんね輝星……抱きしめるような形になっちゃって」
僕から目をそらしながらたどたどしい謝罪をこぼしたから、絶句。 恥ずかしそうに耳まで赤く染めた霞くんに『気にしないで』と伝えたくて、僕は思い切り顔を左右に振る。
「今の危なかったよな」とわりこんだのは奏多くん。
「カスミが機転を利かせてなきゃ、輝星の顔にボール当たってたし。ちょっと俺、ボールこっちに打った奴らに文句言ってくる」
ひたいの血管をピクつかせた奏多くんが、僕たちの前から走り去った直後だった。 スカートとポニーテールを大きくひらめかせながら、流瑠ちゃんが猛ダッシュで僕たちの前にやってきたのは。
心臓に手を当て息を落ち着かせたのち、流瑠ちゃんは僕ら二人を何度も何度も眺めては「はぁぁぁぁぁ~」
両手で顔全部を覆い隠したと思ったら「さっきのヤバかったぁぁぁぁぁ」と、僕たちの前にしゃがみ込んでしまいました。
どうやら彼女のテンションは、ハイの極みに到達してしまったもよう。
「夢が叶ったよぉ。攻めが騎士顔負けの萌えシチュを再現してくれたよぉ。ほんとヤバい、ほんと無理」と騒いでは、やけに膨らんだ斜めがけバックを膝に乗せ、うずめた顔を横に振っている。
現実が見えなくなってしまった親友を助けなきゃという使命感が湧き、僕は流瑠ちゃんの耳元に唇を近づけた。
「流瑠ちゃん、みんなに見られてるよ、腐女子だってバレちゃうよ」
腕を引っ張り、流瑠ちゃんを立ち上がらせる。 テニスコートの周りには今もたくさんの女子が群がっていて、僕に刺さる視線が痛いこと痛いこと。 好意的な目なのか攻撃的な目なのかは、判断が難しいところ。
腐女子ちゃんは一度興奮しだすと、簡単にはムネキュンが静まらない生き物なのかもしれない。 そして行動力もとんでもない。
流瑠ちゃんは霞くんの顔がのけぞるくらい至近距離まで霞くんに詰め寄ると、霞くんの手を両手で包みブンブン振り始めた。
「私、カステラが最推しなの!」
目がキラキラな流瑠ちゃんとは対照的 「……あっ、うん……確かにカステラっておいしいよね……」 霞くんは引きつり笑顔。
「なんでお菓子の方に行っちゃうかな。違うでしょ!カステラって言ったら霞くんとテラっちのことでしょ!」
「俺たちのこと?」
霞くんが戸惑っているから流瑠ちゃん黙って、静まって、お願い。
僕は自分の口の前で指バッテンを作ってはみたが、興奮気味の流瑠ちゃんの瞳には映っていないみたいだ。
「小5で霞くんとテラっちがテニスの試合に出たのを、たまたま見てたの私。それからずっと私の中でカステラが推しカプで。二人のいろんなことを想像するともうダメで。高校に入って二人が同じ高校だって知った時の私、ヤバかったな。早く二人がくっついて欲しくて。どれだけ二人の妄想に時間を費やしたともう?高1の初テストで成績悪すぎたの、妄想のせいだからね。あっ、ついに言っちゃった。テラっち以外についに暴露しちゃった。霞くんお願い、みんなには黙ってて。私が商業BLよりリアル男子の二次創作を楽しむ腐女子だってこと」
「よろしくね」と霞くんの手を解放した流瑠ちゃんは、好きを語りつくしたような満足げな表情でニヤついている。
霞くんは宇宙人に遭遇した時のような固まり方。 色っぽい目をしばたかせ、理解不可能と言いたげな顔で首をかしげて。
何か返事をしなきゃと追い詰められたのかな?
「腐女子? そうなんだね、うんうんいいと思うよ、人間好きに生きれば」 と、乾いた笑いをこぼしながら頷いている。
僕は流瑠ちゃんの腕を引っ張る。 霞くんから距離をとることに成功し、流瑠ちゃんだけに聞こえるようにコソコソ声をこぼした。
「流瑠ちゃん、霞くんに変なこと言わないで」
「どうしよう、私が推しカプの恋のキューピッドになれちゃったかも。キャー!」
浮かれてる。 はしゃいでる。 僕の声が全然届いていない。 霞くんに口元を読まれないように背を向け、もう少し声を張る。
「僕は霞くんに嫌われてるの、霞くんの好きな人は奏多くんなの」
「そんなことないって。腐女子の色メガネで見ると、霞くんは絶対にテラッちが好きだよ」
「それは流瑠ちゃんが思い込みたいだけでしょ」
「商業BLだと、あっ売ってるマンガってことね、男っていう生き物は好きな相手ほど冷たい態度をとっちゃって、でも好きで、大好きで、俺だけのものにしたいのにって嫉妬がたまって、最後爆発なんだよ。今度マンガ貸そうか?」
「流瑠ちゃんはBLマンガの世界の中だけで夢を見ててよ」
「私の親友なのにテラッチはわかってないな。商業BLマンガの萌えキュン度はコンロの火レベルなの。現実男子たちの二次創作はキャンプファイヤー……じゃ火力弱いか。天まで上る火柱なの!」
「なんの話してるの?」
「私たち腐女子はね、妄想に妄想を重ねて『このカプいい』『このシチュおいしい』と発狂する生き物なんだからね!」
腐女子をひとくくりにしているけれど、みんながみんな現実男子たちがくっつくのを勝手に妄想して発狂しているわけじゃないと思うよ。
っていっても僕にはよくわからない世界だし、腐女子ちゃんたちが幸せなら自由に楽しんでって思うけど……
流瑠ちゃんだけは別。 僕に害ありなんだもん。 僕で勝手に妄想するのはやめて欲しいんだもん。
プクっとほっぺを膨らましてみたけれど
「テラっちのいじけた顔、可愛い。私なんかに見せるなんてもったいない。霞くんに見せなきゃ。そして霞くんに頭ナデナデしてもらって。きゃっ、最高!」
と、瞳キラキラな流瑠ちゃんに腕を引っ張られ、もつれながらも足が勝手に前に進んで……
うっ、霞くんの前に連れてこられちゃった。
流瑠ちゃんが僕たちを推しカプ認定した後だし、霞くんと目を合わせるのは気まずすぎなんですが。
とりあえずうつむいていようと、視線を自分の靴に逃がす。
「あれ、雨?」
流瑠ちゃんの視線につられ僕も空を仰ぐ。 小さい雫が顔の上で跳ねた。
ポツポツと小さめな水滴が空から落ちてくる。 空を覆っているのは黒くて厚みのある雨雲で、霞くんと奏多くん見たさにテニスコートを囲んでいた女子たちが「ヤバそうだよね」と校舎に向かって走り出す。
僕たちも屋根のあるところにかけ込んだ方がいい。 今は傘がなくて平気だけど、雨あしが強まる可能性は否めない。
そう思った矢先、流瑠ちゃんがニヤリと目じりを光らせた。
「こんなこともあろうかと」
パンパンに膨らむななめがけバックから取り出したのは、折り畳み傘? しかも2本も。
柄を伸ばし布地を広げた流瑠ちゃんは、一本は自分の肩に、もう一本を僕の手に握らせてきた。
「なんで流瑠ちゃん、傘なんて持ってるの?」
「フフフ。このバックの中にはね、腐女子の妄想を現実にするためのアイテムが詰め込まれているんだよ」
……そうですか。 親友歴2年以上なのに、まったく気がつきませんでした。
「テラっち、霞くんが濡れてるよ。もっとくっつかないと」
それって相合傘をしろってこと?
目を見開いた僕の言いたいことを察知して、流瑠ちゃんが勝ち誇った顔で頷いた。
無理だよ、霞くんに近づくなんて……
でもでも、僕がちゃんと傘をささなければ霞くんが濡れちゃうよね?
真っ赤な折り畳み傘は、布の面積が小さめだ。 お互いの肩が触れ合うぐらいくっつかないとだけど、恥ずかしすぎて霞くんとの距離が詰められない。 たったリンゴ3個分くらいの空間なのに、ドキドキに襲われ埋められない。 でも霞くんが雨に濡れるのは許せなくて……
僕は短めな腕を精一杯伸ばし、前に立つ霞くんの真上にくるように真っ赤な傘をずらす。
「萌黄くんが濡れてる、傘は俺が持つ」
男気のある声に、傘をさらわれてしまった。
「僕のことは気にしないで」と慌てて訴えてみるも、 「気にするよ、萌黄くんに風邪をひいたられたら俺が困る」と、霞くんの綺麗な眉が吊り上がって。
「僕は平気だよ!」
今度は僕が傘を奪い、背が高い霞くんの上に布地を広げることに成功したのである。
「やっぱり萌黄くん、俺が濡れないように傘をさしてくれてる」と、霞くんは重いため息を一つ。
僕まで口調が荒くなってしまうのは、霞くんに普段のおっとりが消えてしまったから。
「霞くんが風邪をひいたら困るでしょ!」
「キミが体調を崩す方が許せない!」
なんで怒ってるの?
「テニスの全国大会だって控えてるのに、霞くんにとって今は大事な時期なんだから、体大事にして!」
「まだ一か月以上も先だから問題ない! 雨が強くなってきた。いいから俺に傘を渡して!」
「霞くんは優しいから、僕が濡れないように気をつかうもん! 霞くんがずぶぬれになるに決まってるもん!」
「それは萌黄くんも同じでしょ!」
「僕は風邪をひいてもすぐに直ります! 風邪をこじらせてたのは、小さい時から霞くんでした!」
「いつの話をしているの? 中学に入ってから、俺は風邪なんてひかなくなったんだよ!」
「ううん、そんなことない、ひいてました! 霞くんは一週間中学をお休みしたことがありました!」
「いつ?」
「中2の梅雨時期。霞くんは雨に濡れながら必死にテニスボールを追いかけてたから、高熱が出ちゃったんだよ、絶対に!」
相手の体のこととなると頑固になってしまうのは、僕も霞くんも小さいころから変わらない。 風邪をひいて欲しくないからこそ、ついむきになってしまう。
「なんで萌黄くんは、俺が高熱を出したことまで知ってるの? 中学はクラスが違ったのに」
「霞くんの情報は筒抜けだからね。中学の時も霞くん好きの女の子たちが、校内のいたるところで霞くんの一挙手一投足にキャーキャー言って盛り上がってたんだから。そりゃ僕の耳にも入ってくるよ!」
「萌黄くんだって中学の修学旅行の直前に風邪をひいて、就学旅行に行けるかどうかクラスメイトにすっごく心配されていたでしょ!」
「でもすぐに治った! クラスのみんなとシカにせんべいをあげれたもん!」
お互い顔に笑みがない。 まるで子供の口ケンカだ。 むきになって言葉をぶつけてしまう。
小学校の頃もこういうことがよくあった。 王子様みたいにおっとりと微笑む霞くんなのに、僕の体調についてはお母さんよりも心配して口出ししてくるの。
それを僕が反発して。 でも霞くんもひかなくて。
あの頃はどうやって、些細ないざこざからベタベタに仲がいい親友に戻っていたんだっけ?
思い出せないな、もう6年も前のことだ。
あの頃はよかったな。 どれだけケンカをしても【霞くんの隣】という特等席が、僕のためだけに用意されていたんだから。
過去と今の違いに心臓が痛む。 唇をかみしめていないと、涙腺が緩みそうになる。
霞くんが僕から距離をとろうと後ずさりした直後だった。 重たい空気を一掃するように、流瑠ちゃんが笑い声をあげたのは。
「アハハ、何その幼稚な言い合い。低レベルすぎなんだけど」
お腹を押さえながら笑う流瑠ちゃんの目には、うれし涙らしきものが光っている。
「小5の時も二人が言い合いしてるのを見たんだよわたし。ダブルスの試合で二人が負けちゃったあと、自分のせいで試合に負けちゃったってお互い譲らなくて。テラっちは霞くんのプレイは完ぺきだった、全部僕のせいって泣いてたし。霞くんはテラっちがエースを決められるように相手を誘導できなかった、自分が未熟すぎだから負けたって謝ってて。ほんとどっちも自分のせいって引かなくて。テラっちはわんわん泣いて、霞くんはごめんごめん言いながらテラっちを抱きしめて。その時思ったんだ。お互いが相手のことを大事に思っている素敵なカプだなって」
流瑠ちゃんは目じりの涙を指で拭い
「私を腐女子にした責任、ちゃんととって欲しいなぁ。でもまぁ、妄想だけでニマニマできる幸福体質に変えてもらったし、二人には感謝しているけどね」
ポニーテールを楽しそうに揺らしている。
「あっごめんごめん、私が最初に傘を渡す相手を間違えたね。テラっちに渡しちゃダメじゃんね。真っ赤なあいあい傘は攻めに持ってもらわないと、キュンが薄まっちゃうんだった」
テヘっと舌をだした流瑠ちゃんは、僕から傘を取りあげると
「てらっちを守ってあげてね、カスミ王子。あっ、なりきるのは王子じゃなくて騎士でもいいよ。私的にはどっちもおいしいから」
表情筋をだらしなく緩めながら、傘を霞くんに無理やり押しつけた。
理解不能な宇宙人並みのマシンガントークに圧倒された霞くんは、放心状態で受け取っている。
「はい、二人ともくっついて。体をぶつけあわないと大事な人が濡れちゃうよ」
強引な流瑠ちゃんに横腹を押されたせい、僕の右半身の側面が霞くんの左半身に食い込み焦る。 近いを通り越してゼロ距離になっちゃったんですけど。
心臓がバクついて息苦しい。 全細胞が生き返ったような、意味不明な生命力まで感じてしまう。
霞くんの体温は心地いい、心地よすぎだよ。 でもでも体がくっついたままなのは、気まずさの極みだし。 霞くんはこの状態をどう思っているかわからないし、確認するのも怖いし。
僕は今、ものすごい勢いで羞恥心ゲージがたまっている。 流瑠ちゃんのおせっかいに、はたはた困りはててしまっている。 それは確か。 けれど正直にいうと流瑠ちゃんへの感謝もあって、それなりの幸福感も芽生えているんだ。
恥ずかしさで霞くんを見上げることはできないけれど、布越しに触れ合う腕がくすぐったい。
霞くんから離れたくない。 ううん、恥ずかしいから逃げ出したい気持ちもあるんだけど、今離れてしまったら二度と霞くんに触れることができないんじゃないかと怖くなってしまって、できればこのままでいたいなって。
胸キュンで暴れる僕の心臓が耐えうるまで、ずっとこのままで……できれば永遠に……
クスクス笑う流瑠ちゃんにハッとして、僕は顔を上げた。
「相手が大事だからこそ傘をゆずりあっちゃったんだよね。愛だね。一途だね。私はこれが見たかった。だから赤い傘を持ち歩いてた。まぁ今日のお昼休みは私がまいた種が芽吹くかなって期待があって、推しカプ急接近のハプニングが起こりますようにって願ってきたから、腐女子グッズを持ってきてたんだけどね」
流瑠ちゃんはすっきりした表情を浮かべたと思ったら一転、急に表情を陰らせて、忙しい人だなと感心する。
「ほんとは相合傘する推しカプをずっと見ていたいの。この日を心待ちにしてきたんだもん、小5からだよ、長すぎだよね。でも二人だけの世界を邪魔するのは絶対に嫌なんだ。でも瞳がもっともっとって欲張っちゃって、目が離せないし……あぁぁぁぁぁぁ、もう! お邪魔しました! お・し・あ・わ・せ・に!!!」
最後の方はやけくそ気味だった。 叫んで頭ぺこりで回れ右。 僕たちに背を向け駆けて行った流瑠ちゃん。 嵐が去った後のような静けさに、僕も霞くんも放心状態にならずにはいられない。
しばらくして、ぽかんと口を開けていた僕の頭上から、クスクスと楽しそうな笑い声が降ってきた。
「鈴木流瑠さんって、あんな面白い子だったんだね」
脳内にある思い出ボックスのカギが、ガチャりと開く。 霞くんを見上げたまま、懐かしいと心が震えずにはいられない。
ずっと見たかった。 子供のころの至近距離で。 心が躍っているかのように微笑む、楽しげな霞くんの表情を。
「なんで大きなバックを下げてるんだろうって思ったけど、まさか折り畳み傘が出てくるなんてね。自分の欲望を詰め込んでるって、他に何が入っているか教えて欲しいよ。アハハダメだ、笑いが止まらない」
霞くんが体を揺らしながら笑うたび、彼の胸が僕の腕に当たって心地いい。 雨のシャワーが空から降ってくれているおかげだね。
霞くんのそばにいて良い理由が僕にはある 一本の傘の下、雨宿りをしている僕らだけの世界を邪魔する人は誰もいない。
不思議なのは自分の感情で、嫌われている霞くんの前から消えなきゃなんて今は思えないんだ。
このままでいたくて。 もっと霞くんの笑顔を見たくて。 どうしたら僕のことで満開の笑顔の花を咲かせ続けてくれるかなって、頭の中はそればっかり。
笑いすぎて、目じりに涙がにじんでいる霞くんと視線が絡んだ。
ほぼ真上に麗しい王子様フェイスがあるからもちろんドキッとはしたけれど、楽しい雰囲気を崩したくなくて僕は目じりを思いっきり下げた。
「流瑠ちゃんが腐女子になったのは、僕と霞くんのせいなんだって。小5から僕たちを推しカプだと思い込んでるの。初めてそのことを聞いた時は責任感じて謝っちゃったけど、僕と霞くんをくっつけようとテニスのペアを組むように仕組んだのはやりすぎだったよね。でもでも僕は霞くんのことが今でも大好きだから、一緒にテニスができるなんて嬉しすぎなんだけど。アハハ」
僕は心から笑った。 ユルフワ髪が揺れるほど無邪気に笑った。 僕の親友は変わり者でしょ!ってわかって欲しくて。
でも僕の喉から漏れる笑いが尽きた直後、後悔と罪悪感がダブルで襲ってきて、僕の首筋に冷や汗が伝う。 キョトン顔の霞くんから視線を足元に逃がしたと同時、やってしまったの寒気が背筋を駆け上がった。
奏多くんに好意を持ち、僕を毛嫌いしている霞くんに、僕はとんでもないことを言っちゃったんだ。
『僕は今でも霞くんのことが大好き』って。 違うよ、違うんだ!って言いたいけれど、本当は何も違わない。 【霞くん大好き】は本物の感情で間違いない。
6年間拒絶され続けても、恋心は日々膨れ上がっているのが現実だ。 暴れ狂うようにうずく恋心が手に負えなくて、それがずっと嫌で。 イヤって、霞くんのことじゃないよ。 霞くんのことは大好きでたまらない。
あれ? 今は何を考えるべきなのか、わからなくなってきちゃった。
大好きと伝えてしまったのは、たった1,2分前のこと。 僕の気持ちを耳にした瞬間の霞くんの顔が、信じられないと言わんばかりに固まっている。
霞くんは今は、どんな気持ちで僕の隣に立っているんだろう。 気まずさに襲われ、下げた視線を上げられない。 現実を見つめるのが怖い。 これ以上嫌われたくない。
その時…… 「輝星」 傘の上で跳ねる雨音とともに、真剣な落ち着き声が降ってきた。
ビクリと肩が跳ね上がりはしたものの、僕はまだ顔を上げられない。
「答えて」 真剣さが色濃くなった低音ボイス。 声帯を震わすことさえままならない僕は、オドオドしながらあごを下げる。
「付き合ってないの? 流瑠さんと」
そうだよ霞くん。 流瑠ちゃんと僕は、高1で出会って以来ただの親友だよ。
ただの親友という言葉は、語弊があるか。 僕のことを妄想の対象物として崇拝しているところがあるから、友達という言葉ではくくれない特殊な関係で……
って。 ん? 付き合ってる? 僕と流瑠ちゃんが?
予想もしていなかった言葉に驚きを隠せない。 目を見開いた直後、僕は顔を思い切り左右に振った。
僕の初恋は霞くんなんだよ。 幼稚園の頃から僕の心を独占しているのは、霞くんだけなんだよ。こんなに大好きなのに、他の人に恋心を抱くなんてありえないよ。
わかってもらいたくて顔をブンブンしたのが、いけなかったらしい。
「流瑠さんと付き合っているってこと?」
さらに深く勘違いをされてしまった。
違う違うと涙目になりながら、頬に毛束が当たるくらい全力で顔を振る。
「なんで……霞くんは……そう思うの?」
「いつも教室でふたりは一緒にいるよね。部活も同じだし、仲良すぎだなって」
違うの、違うの!
「流瑠ちゃんから、僕と霞くんが高校で絡んだらこんなシチュになるっていう腐女子の妄想を聞かされてるの」
僕は霞くんに嫌われてるから、そんなシチュにならないよって言ってはいるんだけど、流瑠ちゃんはそんなことないって聞いてくれなくて……
「調理室でのキスだって……」
「キス?」と、勝手に僕の首が傾いた。
「流瑠さんにされてたでしょ? テニスコートから見たんだ、部活中に」
「待って待って、なんのこと?」
「そのあとの輝星……おでこに手を当てながら微笑んでて……」
昨日バスの中でも言われたけれど、まったく心当たりがない。 誰かと付き合ったことすらない僕が、キス経験者になれるはずもなく。
そもそも口づけしたい相手なんて、霞くん以外考えられない……って、おでこに手を当てた? 調理室で? ってことは……
「それ、流瑠ちゃんの頭突きだよ」
お願い霞くん、勘違いしないで。
「違うから! キスとかじゃないから! 絶対に違うから! お願い、信じて……」
僕がこぼした弱々しい言葉尻が、傘に落ちる雨音でかき消されていく。
さっきよりも雨が強くなったと今さら気がついたが、そんなことはどうでもいい。 僕の好きな相手は流瑠ちゃんじゃない。 流瑠ちゃんにキスなんかしていないと、霞くんに信じて欲しい。
傘を持つ霞くんが、僕のそばから離れようとしない。 僕が雨に当たらないようにとの配慮なのかもしれないが、この6年間拒絶されていただけにハートがバクバクうなってしまう。
僕は顔を上げられない。 霞くんも何も話さず、お互い無言のまま。
たまに霞くんの腕が僕の背中に当たるのが心臓に悪くて。 なんか怖くて。 無性に泣きたくて。 震えが止まらなくて。 ここから逃げたい気持ちもあって。
でも本当は知りたいんだ。 霞くんの声で聞きたいんだ。 僕のことを、どう思っているのか。
さっき僕はどさくさに紛れて告白をした。 流瑠ちゃんがどんな子か説明している中で 『僕は霞くんのことが今でも大好きだから、一緒にテニスができるなんて嬉しすぎなんだけど』 なんて膨れ上がった想いを伝えてしまった。
霞くんは僕の告白をスルーだ。 聞こえていたはずなのに何も言ってはくれない。 漂う気まずい空気を一掃する術を持っていないけれど、一本の傘の下から逃げ出さない自分を褒めてあげようと思う。
僕の後頭部に霞くんの胸板が一瞬だけ触れた直後だった。
「……ごめんね」
悲しげな声が僕の鼓膜を切なく揺らしたのは。
そっかそっか、今のが告白の答えなんだね。
霞くん、謝らないくていいよ。 僕が嫌われているのは、わかっていたことなんだ。
それなのに僕は恋心を捨てられなくて。 一途に霞くんだけが大好きで。
霞くんと奏多くんを推しカプだと思い込むなんて馬鹿らしいことまでしてきたにもかかわらず、恋心なんて捨てられず、初恋が諦めらめきれず、今も霞くんが大好きで大好きでたまらない。
この極端すぎる執着はストーカーレベルだということを、僕は自覚しなければいけないよね?
霞くん、僕の愚かさをわからせてくれてありがとう。
「ごめんって霞くんに言わせて、僕の方こそごめんね」
失恋の悲しみで、声が焦り震える。 強がりが涙声となってこぼれてしまった。 顔なんか上げられない。 大好きな人の瞳に映したくない。 悲哀で歪んだ、僕の醜い顔なんて。
「球技大会のテニス……僕の代わりに霞くんとペアを組んでくれる人を見つけるから……」
もう二度と、霞くんには話しかけないから…… だからこれ以上、僕のことを嫌いにならないでください。お願いだから……
こぼれそうになった涙を瞳の奥に押し戻そうと、唇をかみしめた時だった。 体中の細胞が一斉にキュンと飛び跳ねたのは。
……え?
視界に飛び込んできたのは、足元に転がる真っ赤な傘。 戸惑い揺れる瞳で、情熱的な色味をただただ見つめてしまう。
雨除けがなくなって、雨粒がジャージにしみこんでくる。 でも僕の体があまり濡れていないのは、背後から心地いい熱に包まれているからだろう。
耳にかかる吐息がくすぐったい。 心臓もくすぐったい。
何が起きたの? 緊張で息が止まりそう。 心臓が急停止しちゃいそう。
「嫌なの? 俺とテニスをすること」
切なくも甘い声が、僕の鼓膜を溶かそうとしてくる。
僕の胸元に絡む腕。 背中に感じる胸板。 右頬がやけにくすぐったいと顔を回すと、霞くんの顔が僕の右肩にのっていて、その時初めて、霞くんに抱きしめられていることを脳が理解できた。
ドキドキとバクバクでハートが悲鳴を上げている。 呼吸が乱れ始めたのは、恥ずかしさと嬉しさと困惑が3種同時に責めてきたから。
意識を保つ限界が来てしまったと、心臓がSOSを出した直後だった。
「ごっ、ごめんね」
霞くんの焦り声とともに、後ろから絡みついていた腕がほどかれてしまったのは。
ぬくもりが薄れていく背中に、さみしいさ混じりの悲哀がわく。 もっと抱きしめて欲しかったのに。 そんなワガママを口にできないのは、霞くんにこれ以上嫌われたくないという思いが強すぎるから。
羞恥心で色づく頬を隠したくてうつむく僕の心臓は、休息を与えてはもらえない。
「輝星が可愛いことを言うから」
恥ずかしさで震えた声にドキリ。 語尾までちゃんと僕の耳に届き、顔面がさらに燃えそうになってしまった。
「雨に濡れないところに行こう」
「え?」
「二人きりになれる場所。ねっ、いいでしょ?」
僕の意見を問うような言い方なのに強引で、僕に拒否権は全くなくて、拾った傘を僕の上に掲げた霞くんは僕の肩に手を回しながら歩き始めた。
もちろん霞くんの腕の中から抜け出すことはできる。 連行を拒否して、僕だけ真っ赤な傘の下から逃げ出すことも可能だ。
でも僕の足は大好きな人に従順なのかもしれない。 霞くんのそばにいたいと必死に足を動かし、たどり着いたのは大きな屋根の下。 運動部の部室として使われている棟の軒下。
首を左右に回してみたが、昼休みで雨が降っているということもあり生徒も先生も誰一人見当たらない。
霞くんは持っていた傘の雨を払い、傘を閉じると、ベンチの横に立てかけた。
「流瑠さんありがとう」
真っ赤な傘に向かって、優雅に微笑んでいる。
いまのは、傘を貸してくれたことへのありがとうなのか? 確かにこの傘がなかったら、僕たちはずぶ濡れだったに違いない。
それとも、僕とあいあい傘をさせてくれたことへの感謝? なーんて、後者はないか。 僕の告白はスルーされた。完全に振られちゃったわけだし。
でもわからないのは、背後から抱きしめられたこと。
一度目は、飛んできたテニスボールから僕を助けるためだからわかるとして。 じゃあ二度目は? 僕を抱きしめる必要性なんてなかったでしょ?
二人だけになれる場所に行こうと肩を抱かれてまでこの軒下に連れてこられた理由も分からない。
得意の作り笑いが浮かべられないほど、僕はいま困惑をしている。
「雨が強くなってきたね」
奏でられた声が陽だまりみたいに優しくて、戸惑いながらもあごを下げる。 二人掛けベンチの右側に座った霞くんが、残り一人分の座席に手を置いた。
「輝星も」と促され、目を泳がせながら腰を下ろす。 精一杯の左端に座ってもたものの、右腕がこそばゆい。 霞くんとはリンゴ1個分の距離を保ててはいるものの、僕が傾いたら腕同士がぶつかってしまいそうなほど近くて、心臓もくすぐったくて。
校舎から見えない場所にたたずむ部室棟。 僕たちの背後には壁があり、目の前は景色をぼやけさせるほどの強雨。 僕がドキドキで困惑している間に、ザーザーぶりになっていたらしい。 まるで黒ずんだ雨雲が、僕と霞くんを二人だけの世界に閉じ込めてくれたみたいだ。
嬉しい。嬉しいはずなんだ。
でも感情が迷宮にでも落っこちてしまったのか。
わからないわからない、自分がどうしたいのか。 霞くんとしゃべりたいのか。ドキドキから逃げたいのか。
心臓を落ち着かせたい。 でも心の爆つきが消えた瞬間、霞くんを独占している夢のような時間は消えてしまうだろう。
やっぱりこのままがいい。 でもハートが苦しい。 二人だけは気まずいよ。 何を話していいかわからないよ。
なんで僕をここに連れてきたの?
雨でテニスができなくなったのなら、教室に戻れば良かっただけのことなのに。
二人だけになれる場所って……
輝星が可愛いことを言うからって……
あぁもう、心臓が肌から逃げ出しそう。 過呼吸気味の肺が限界に達しそう。 ベンチの端で体を縮めていた僕に、心配そうな声が降ってきた。
「やっぱり痛む? 右腕」
無意識に右腕をさすっていたことに気がついて、手首まで隠れていた袖を指先まで伸ばす。 首を横に振ってはみたが、霞くんの表情を確認する勇気はない。
霞くんはまだ、僕の腕の広範囲に刻まれたやけどの跡に責任を感じているんだろうな。
自分のせいだって思ってほしくないから、僕は年中長袖を着てこのヤケド痕を霞くんから隠してきたんだよ。 僕はこのヤケド痕が誇らしい。 愛おしくてたまらない。 これが消えたら僕じゃなくなってしまうとさえ思うんだ。
ねぇ教えて……
「なんで霞くんは、僕を避けるようになったの?」