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区連戦記(仮)  作者: 傳氏蓮司
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はじまり

「郡より越南に至るには、海に従い南行する。三千里なり。」さる古代の史書にはそう記されている。越南は、大陸の南東端に突き出た半島である。気候は熱帯性のモンスーン気候で、その地に住む人々は小部落を形成し、農耕を営んでいた。統一的な王権はいまだ存在せず、人々は季節のうつろいのみにしたがって暮らしていた。そんな貧しくも平和な生活は、永遠には続かなかった。大陸を統一した大洛の侵攻である。ここでは『侵攻』としたが、実際はそんな大仰なものではなかった。大洛の軍勢に抗する術は、未成熟な社会しかもっていない越南には存在しなかった。朴訥な農民たちは、大洛に支配され、自らの社会が変容するさまを傍観するしかなかった。支配者たちは、彼らの言葉でいうところの文明を持ち込んだ。それは、明文化された法や税制、華夷思想といったたぐいのものであった。華夷思想とは大陸を支配する自らこそが世界の中心であり、その他の辺境部の人びとを未発達で野蛮な民ととらえる考えである。現代人的な感覚で言えば、傲岸極まる発想であるが当時の大陸人は本気で信じていた。そしてそれは、彼らの苛烈な支配を正当化するものであった。つくりかえられた社会の中で越南の民の多くは作ったものの多くを税として収奪され、一日一日をしのぐのにやっとな農奴と化した。そして彼らをそのような生活に追い込んだ張本人たちは、農奴たちを蛮として蔑み、彼らに文明をあたえたのだと自負した。まことにいびつなこの支配は、散発する反乱をともないながら200年続いた。しかしそのいびつな支配もまた永続はしなかった。

 西京の乾いた暑さの中、区連は故郷を思いだしていた。西京は、世界の半分とたたえられる大洛の都である。その暑さは、故郷の湿潤で強烈な暑さとは異なる暑さであったが、彼にとっては好ましく感じられた。彼の故郷越南は、寒さとは無縁の地であった。区連は、間借りした狭く質素な部屋の窓際から絢爛たる街並みを眺めた。西京に来て、1年経つが、何度見てもそのきらびやかさには慣れなかった。むしろそれは、大国による収奪の産物のように思えるのだ。怒りとまではいかないまでも、素直に感心する気にもなれなかった。越南には、大洛の行政区分である郡が3つ置かれた。北から交師郡、七真郡、月南群である。区連の父は、月南群の太守であった。区連もまた彼の言葉によるところの収奪の結果である豊かさを物的な面で享受してきた。しかしこと愛情とかそういった類のものにおいては、その限りではない。彼は妾腹の子であった。当の父には、正妻との間に二人の子がおり、区連の存在は頭痛の種であった。母親は『野蛮』な越南人であり、しかも息子が生まれて間もなく亡くなった。残された息子の扱いに困った父は、乳母をつけて我が子に邸宅の離れをあてがった。俗にいう厄介払いである。こうして遠ざけられた張本人は、悲嘆にくれるでもなくいたって冷静であった。物心ついたときには、すでに離れに追い払われていた区連はその状況を特別な悲劇とはとらえなかった。父からの不遇に対しては、諦めをもって報いた。しかしながら少なからず顔をあわせる正妻一家の冷めた視線は、彼を外界へと駆り立てた。西京への留学の希望を口に出した時、父はとくに反対しなかった。金銭面の負担よりも頭痛の種が消えることの方が好ましかったようであった。こうして区連は、故郷をはなれ、大陸の北西にある西京へと一路向かった。

「少爺、お客様です。」

扉の外から朱雲の声がきこえる。朱雲は、件の乳母の子で区連とは兄弟同然の仲である。

「誰が来たのだ。」

区連は扉を開け、短く答えた。ほんとうは17歳にもなって少爺(坊ちゃん)と呼ばれることにいささかの抵抗があるのだが、それを口にしたところで朱雲がやめるとは思えなかった。2つ年上のこの従者にとって区連は、永遠に『少爺』であった。

「董権さまです。」

「通してくれ。」

ほどなく上背のある均整のとれた体の男が入ってきた。

「久しいな、少爺。」

からかうように客人は笑う。

「大哥(兄貴)、少爺はやめてくれ。」

区連は苦笑した。少爺呼びなど朱雲ひとりで十分だ。

「自分が立派な大人だというのなら、しっかり太学にくることだな。いくら首席だからといっても、休みすぎだぞ。」

「ああ、その件ですか。てっきり、またただ酒をのみにきたのかと。」

区連は、冴えない冗談でごまかそうとした。太学は区連と董権が通う、いわば大洛の官僚養成学校であるが、区連が欠席を重ねるわけは董権には言いづらいものであった。

「お茶を濁すな。せめて理由を教えろ」

にわかに董権の目が据わった。区連は、董権の両眼からは逃れられないことを悟った。

「最近、太学で不穏な動きがあると聞いてね。宦官の誅殺をもくろむ不逞な輩がいると。」

董権の顔色が変わった。区連は、重ねて問うた。

「大哥、まさかそんな企てに加わってないでしょうね。」

「いま、朝廷を牛耳っている輩の方こそ不逞ではないか。」

開き直って董権はいった。大洛の朝政を主導していたのは皇帝と高貴な家柄の官僚たちであった。しかし時代が下るにつれて、台頭してきたのが宦官たちであった。もともと彼らは、去勢された後宮の小間使いにすぎなかった。しかし時代が下るにつれて皇帝の身辺の世話する立場を利用して、朝廷の政治に干渉するものが現れた。皇帝が彼らを深く信任し、政治の裁断をまかせたためであった。そして現在、朝政は中常時の呉忠秀によって壟断されていた。元来、宦官は卑しいものとみなされる。そのような下賤な小間使いたちによって政治的特権を奪われた名門出の官僚たちの怒りは、想像を絶するものがあった。そしてまた官僚たちの子弟が集う太学もまたその例外ではなかった。

「わたしも宦官たちに思うところはありますが…。」

区連自身もクーデターに参加するよう迫られた。しかし彼ははぐらかして下宿に戻るとその次の日から登校を拒否した。クーデターなぞに巻き込まれるのは、まっぴらごめんであった。彼は宦官の専制にも批判的であったが、同学の若者たちの暴発にもまた批判的であった。いや彼らの怒りそのものに対して、うすらさむいものを感じていた。怒りの根源は政治的特権を奪われたという極めて私的なものであるのに、その怒りを正義であると言ってのける点に対してである。そのような矛盾にきづかないほど特権意識に染まっていることの方こそ恥ずべきではないのか。クーデターの首謀者たちは、「下賤の者どもが皇帝陛下をたぶらかし、政権を壟断するとは」とことあるごとに口にした。政治に能力ではなく出自を問うとは。区連は、彼らの『義挙』を冷めた目で見ていた。しかし、そのような考えを説明したところで董権に説明したところで理解してもらえないことはわかっていた。董権自身は非のうちどころのない快男子であり、区連も好んで深く交わっていた。一方で、遠祖に宰相も出したという名門の出である董権もまた特権意識に蝕まれていた。彼は、区連に対して「君の才能は疑う余地もないが、惜しむらくは越南人との混血である点だな。」とよくいった。区連は、はじめてこの言葉を聞いたとき耳を疑った。彼ほどの傑物ですら自らの矛盾に気づかないとは。もっともこの時代において、出自は絶対的なものであり区連の方が異端であった。

「ならば、なぜ参加しない?今日、お前のもとを訪れたのはその件もあってな。呂産と公孫賀が、お前が密告するのではないかとしつこくて。俺はそんなことはないといったのだが、様子を見て来いと。」

「密告などしませんが、企てに加わるのもごめんです。」

「そうかならいい。こんな確認はついでだ。本題にはいろう。酒を用意してもらおうか。」

董権は、快活に笑った。区連もまたおもわず破顔した。そこからは、いつもの与太話であった。なんの生産性もない、しかしながらなによりも貴重な時間であった。特に董権が宰相になった暁には、酒で湖をつくるという話は傑作であった。そうして夜も深くなった別れ際、見送りに出た区連はこっそりとこういった。

「もしクーデターが失敗したと思ったら、私のところまで逃げてきてください。」

「そうか。もっとも我らには天帝がついておる。そう心配するな。」

董権は、磊落に笑った。失敗など一ミリも疑う様子ではない。そうして上機嫌で自らの屋敷へ戻っていった。その様を見て、区連は正体不明の不安に襲われた。

「そうか。大哥に会えるのはこれが最後かもしれない…。」

そうひとりごつと彼もまた朱雲のまつ自室へと戻ったのだった。



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