欲求可処分年齢
とある国で超高齢化の問題の解決がせまられる。未来の研究で、ある一定の年齢をすぎると何かをしたい意欲や、何かをえたい欲求がすりへっていくことがわかった。そこれ未来の人々は、それを解決するために若者の研究をしはじめた。若者の意欲を再現するサプリや、人体にうめこみ欲求を作り出す装置、欲求を生み出す新しい臓器など、未来の人間がここまでするのにも並々ならぬ事情があった。老人が増えすぎたのだ。『老い』による能力の低下は、サイボーグ化や、パワードスーツなどで防ぐことができた。最後に残った問題は“意欲”だった。意欲がないといくら働いて稼いでも消費に結びつかないのである。それが問題だった。それをこれらのサプリや機械、人工臓器が解決しつつあった。
確かに多くの問題はそれらで解決したし、経済の循環は若者ばかりの世界と大差なくなった。だがこれらの商品にはいくつか欠陥があった。無理やり欲求をうみだすので、若いころのように純粋な元気がでるような気がしないだとか、若者のようにあれこれにお金を使うのがもったいないと思えるとか、若い世代のように活躍できたとしても若者に申し訳ないだなどというクレームや意見が商品に多くよせられた。
そこで新しい技術が開発された。現在でいうメタバースのような試みで、若者は若者らしい体験を記録したり記憶したりして、それを老人にデータとしてシェアする。老人は老齢になってからある楽しみを若者にシェアする、そうして“世代間シェア”をすることによってこの問題は解決したのだった。それにより老人は、全盛期の記憶を少しばかり思い出すようになり、消費に対する罪悪感や懸念を払しょくする事になった。
だが、ある若者がはっしたひとことがこの試みや、これらの商品の決定的な問題を洗い出すことになり、その言葉は名言として流行することになった。
『老人が若者になりきり、若者が老人になりきり、お互いのことを話すのであれば、機械をつかって記録や記憶をシェアする必要などなかったんじゃ……』