不器用な俺の耳かき 後編
第一話、後編です。
耳かきの部分に入ります。
今日は他に生徒もおらず、この状況を他の誰かに視られる心配は無かった。
「(ホント、誰もいなくて良かったよ。もしこんなところを見られたら、どんな誤解をされるか分かったものじゃないからな)」
そんなことを考えながら、俺はカウンターに設えてある予備のイスに腰掛け、彼女の方へ向く。彼女はと言うと、元々使っていたイスに座った状態のまま耳だけをこちらに向けている。要するに、普通に座っているだけなのだが。こういう処置をするときは、施術台を使うか座位のまま行なった方がいい。(膝枕などの姿勢で耳穴が上を向くと、取りこぼした耳垢がかえって奥へ落下してしまうリスクがあるのだ)
俺は懐の携帯救急箱から、竹製の耳かきを取り出す。ごく普通のスティックタイプで先端に匙が付いている、どこにでも売ってるような代物だ。
「……よくそんなの持ってるね」
「え?あ、ああ。俺、保健委員だからさ。万一に備えて、絆創膏とか消毒液とか持ち歩いてんの」
「……そうじゃなくて、耳かきのほう」
「あー……紳士の嗜み?」
実をいうと、さほど大した理由は無いのだが。
それは置いといて、さっそく俺は双葉への施術を開始した。
「じゃ、よろしく」
「……うん」
「今回は耳垢の除去だけが目的だから、手短に終わらせる。ちょっと奥までやるから、痛かったら言ってくれ」
「……(こくん)」
双葉が小さく頷くのを確認してから、俺は耳かきを構える
冷静に考えてみれば、好きな女の子へ耳かきをする……などと、気が動転して焦ってもおかしくないのだが。不思議と、先程よりも落ち着いて処置に入っている自分がいるのに気付いた。
恋愛感情よりも、自分の悪癖のほうが強いのか。何故だか妙ながっかり感と共に、俺は耳掃除を始めた。
最初は耳かきの先を温め、それで耳の縁を軽く押す。リラクゼーションを目的とした場合でも行うことだが、いきなり匙を奥へ入れると相手がびっくりしてしまうからだ。それで下手に動かれるとデリケートな耳壁を傷つけてしまうから、こうして縁からゆっくり耳かきを差し込むようにしている。
(グッ、グッ)と細かく押し、縁から全体までを順番に圧す。そうして耳を通して双葉の緊張をほぐすのだ。それによって、彼女を耳かきへと慣れさせる。(ついでにツボを押さえ、疲労回復も図る。本来の目的ではないので、あくまで“ついで”程度だが)
「どう、痛くないか?」
「……別に」
確認のため声を掛けるも、返ってくるのは相も変わらず素っ気ない言葉。このアブノーマルな状況にもマイペースだな……と、俺は苦笑した。双葉は唐突に笑った俺をじろりと見遣るも、すぐ視線を真っ直ぐに戻してしまう。その表情は、やはり窺えない。
そのまま続けていると、彼女の表情こそ変わらないものの、緊張し力んでいた肩肘が段々と下がってきた。
「(さて。そろそろ大丈夫か)」
程よく緊張がほぐれ、耳かきにも慣れてきた頃合いだろう。俺は耳かきを短めに持ち替え、眼前に座る双葉へと声を掛ける。
「んじゃ、耳かきを中に入れるぞ」
「……ん」
短い返事。双葉から了承を得られると同時に、俺は耳かきを耳の内部へと進ませた。
さすがに「ちゃんと綺麗にしている」と言うだけあって、入口辺りに目立つ汚れは無かった。耳かきで(こりこり)と耳壁を擦ると、綿棒で取り切れなかった耳垢が僅かに削れる程度だ。
が、このレベルの耳垢であれば、無理に除去するのは取り過ぎに当たるだろう。やり過ぎて耳が炎症を起こしでもしたら、それこそ本末転倒である。ひと通り軽く擦り、欠片を取り除く程度にとどめる。
作業の間、双葉はぴくりとも表情を変えない。反応が無いのはなんとも寂しいものだが、かといってそれを彼女に求めるのは酷というものかも知れない。
(かり、こり、こり)と耳かきの匙で、耳の血行を良くするように擦る。耳掃除を兼ねてのマッサージだから時間をかける訳にはいかないが、やらないよりはやった方がいいに違いない。
(かり……かりかり……)
「ここはそんなに掃除しなくても大丈夫だな。うん、綺麗だよ」
「……そ」
取り終えた耳垢の欠片(といっても、ほんのひと匙分にも満たない程度なのだが)を、カウンターに広げておいたティッシュの上へと落とす。パラパラと零れるそれを尻目に、俺は双葉の方へ向き直る。
「じゃー奥の方に行くぞー。痛かったらすぐ教えてくれ」
「……え」
「ん?」
「……なんでもない」
気のせいだろうか、双葉から妙な声が聴こえたような気がした。彼女の横顔へ視線を移すも、しかし本人は俺からすっと目を逸らしてしまった。
何やら判然としないが、まぁ今それを気にする必要はないだろう。改めて耳の奥へと意識を集中させる。
「(改めて見ると、やっぱ結構入ってるな)」
綿棒によって奥へ押し込まれた耳垢が、幾つも積み重なり圧縮されて塊となって耳穴を1/3ほど狭めてしまっていた。これでは聞き取りにも幾らか難があったろうけれど、彼女は気にならなかったのだろうか?
尤も、単純に気が付かなかったのかも知れない。と言うのも「自分では綺麗にしているつもり」だったとするなら、そもそも耳垢が溜まっているとはなかなか疑い難い。聴こえ辛さに関しても、急に耳が聴こえなくなる訳でもなく徐々に聴こえ辛くなるため、聴覚の変化にすぐ気付くのも難しい。
まさか双葉が、耳の異変に気付かないような鈍感……だとは思いたくないが。
「(それはそれで可愛いんだけど……っていやいや、今は耳に集中しないとな)」
再び思考が別方向へ行ってしまうのを、慌てて耳へ集中させ直す。どうも調子がくるってしまうのは、このシチュエーションのせいだろうか。
一度ゆっくり呼吸を整え、俺は耳かきを彼女の耳へ侵入させた。
相手は大物だけあって、一筋縄にはいかない。強く固着しているせいで、一気に引き剥がすことが出来ないのだ。
まず隙間を作るべく、耳壁と耳垢の間へ耳かきをそっと差し込む。(ちょいちょい)と細かく耳垢を剥がし、じっくりと隙間を広げる。
(こり、こり……ぺり、ぺり……)
ゆっくり、ゆっくりと耳垢を剥がす。慎重な作業だが、ここで焦ってはいけない。無理に奥へ挿入しようものなら、耳壁を傷つけることは間違いないからだ。
作業をしながら双葉の反応を窺う。彼女は目を閉じたままだが、よくよく見ると僅かに眉をひそめているのが分かった。きっとむずがゆさを感じているのだろう、もどかしそうに唇までもむずむずさせていた。耳のかゆさ、くすぐったさが取れそうで取れないその感覚は、さぞ強いものに違いない。普段の彼女からはあまり想像できないようなリアクションを取っていた。
そんな彼女の仕草を見ていたいと思いながらも、それをぐっと堪えて眼前の大物へ意識を向ける。余計な傷をつけないよう(こっ、こっ、こっ)とリズミカルかつ慎重に耳垢を攻める。
いつしか日は傾き、夕日が沈もうかという時刻に達していた。暗くなって見えにくくなる分を補うように、俺は双葉の耳へ顔を近づける。その状況に胸の高鳴りを感じずにはいられないが、それにかまけて彼女の耳を傷付けでもしたら大変である。集中力を高めて作業へ挑む。
それはムードもへったくれもない無機質な作業と化してしまったが、今の俺にはそんなことを楽しむ心の余裕など皆無なのであった。
(こっ、こっ、こっ……ぺり、ぺりり……)
ちらちらと双葉の横顔を確認しながら、作業を続ける。夕日のせいだろうか、心なしか彼女の顔に赤みが差しているような気がした。
やがて、耳壁に張り付いていた部分がおおよそ剥がれると、耳かきを置く。救急箱からピンセットを取り出し、それへ持ち替える。既に剥がれたものを取り出すのであれば、ピンセットを使用した方がよい場合もあるのだ。
「んじゃ、今度はピンセット入れるからな。俺も注意するけど、痛かったらすぐ教えてくれ」
「……うん」
一言、声をかけるとこれまた端的な回答が返ってくる。俺はそれに頷くと、耳かきよりも径の大きなものを、先ほどよりもっと慎重に挿入させる。
ここはより一層の注意が必要となる。
(そろり、そろり)と目標物たる耳垢まで近づけると、ピンセットの先端を開く。
ここは緊張の一瞬。というのも、うまく耳垢を掴めず何度もやり直す羽目になったり、耳垢の塊が崩れて掴めなかったりと失敗するケースがあるからだ。おまけにそれで何度もやり直そうものなら、それだけでデリケートな耳を傷つけるリスクが増える。こちらのイライラが募り、さらにミスを犯しやすくなるという悪循環のオマケつきで、だ。
じりじりとピンセットを操作し、そっと目標物を掴む。果たして今回は、しっかりと耳垢を挟み込むことに成功した。
ほっと気が緩みそうになるが、それはまだ早い。ここから外まで持ち出さなければならないのだ。
慎重に、はやる気持ちを抑えて機械のような精密さでもってピンセットを動かす。あまりの緊張に、思わず呼吸すら止めてじぃっと手先を見つめる。
「(焦るな。焦るなよ。ここは我慢のしどころだぞ)」
そう自分に言い聞かせて、ありったけの集中力を使う。
指先が震えてしまいそうになるのを必死に堪え、ゆっくりと動かす。たった1mmが何mにも感じられるような、そんな錯覚すら感じてしまう。
その緊張は双葉にも伝わっているようで、先ほどまでのリラックス状態から一転して肩に力が入ってしまっている。それに加えて耳垢の塊が微かに耳壁へ触る度に、もどかしさとむずがゆさがより一層増しているのだろう。その小さな体は小刻みに震えていた。
その体の震えすら計算に入れて、俺は精密作業を続ける。
やがて、その手にしたものが耳の入り口まで近づき――
「――ふぅ。やっと取れた」
見事、ピンセットに掴まれたその塊を取り出すことに成功した。すかさず、それをティッシュの上へ落とす。
緊張が解けたせいだろうか。取り出した瞬間、双葉は小さく「あっ」と声をあげた。よほど気になっていたのだろうその横顔には、どこかほっとしたような、開放感に満ち溢れた表情が――恐らくだが――浮かんでいた。
かくいう俺もずっと神経を張り詰めていたせいか、耳垢を取り出した瞬間にほっと肩の力が緩んでしまった。普段ここまでの集中力を使わないので、急に気疲れを起こしてしまったようだった。 思わず「ふぅ」と溜め息を吐いてしまう。
それが。
「…………ぁ」
偶然、その吐息が双葉の耳朶をくすぐってしまったようで、唐突に彼女が上ずった声を漏らした。
あまりに突然の出来事にはっとなり、彼女の顔へ視線を向ける。
そこには、驚愕と困惑とが――俺でも読み取れるくらいはっきりと――浮かんでいた。どうやら彼女自身にも、自分の身に何が起きたのか理解できていないようだ。
そしてその表情はすぐに色を変え、彼女が俺から顔を逸らす頃には明確な羞恥の色として浮かんでいた。
「うわ、ごめん! わざとじゃなかったんだけどさ、その……わ、悪かった」
あまりの気まずさに、俺も体ごと彼女から背を向ける。緊張する作業が終わったせいか、ここへきて急に様々な感情が濁流のごとく俺の思考を飲み込んでしまった。
頭の天辺まで熱を帯びる。きっと鏡を見れば、俺も顔面を真っ赤にしていることだろう。どこにも視線を合わせられず、かといって泳がせるのも不自然なので床へと焦点を合わせる。(それもそれで充分不自然なのかも知れないが)
「(っていうか、なんか普通に耳かきしてたけどよく考えたら色々マズくなかったか!?)」
施術前にも感じていたこととはいえ、あまりにも今更な感情であった。ひとつ気になることがあると、他のことに意識が向かなくなってしまうのが俺の悪い癖だ。(その割に、いつもより集中し切れない部分もあったのは、きっと双葉を相手にしていたせいもあるのだろう)
そうしてしばらく、互いに声をかけられないまま時間ばかり過ぎてゆく。二人とも背を向けたままじっと押し黙っている光景は、傍から見れば極めてシュールな様に映ったことだろう。
そのあまりにも気まずい静寂を破ったのは、意外にも双葉の方からであった。
「……あの」
「あ、ああ。なに?」
「……反対側」
「え」
「……反対側の耳も、お願いできる?」
てっきり怒られるのかと思い身構えた俺に対して、出てきたのは予想外の言葉。
ふと顔をあげると、そこにはまだ顔を赤らめ、視線を泳がせている双葉の姿があった。羞恥を感じつつも、しかしぐっと堪えて俺へ声をかけてくれたのだろう。その気遣いに、救われる思いだった。
ともあれ、それに応えるべく俺も気持ちを抑えて声を絞り出した。
「あ、ああ。それじゃあ、反対側の耳も確認しようか……」
「……うん」
そうして、もう片方の耳も合わせて掃除をさせて貰った。(もちろん、こちらも相応に汚れが溜まっていたのは言うまでもない)
◇ ◆ ◇
耳掃除が終わる頃には、図書室の閉室時刻となっていた。俺と双葉はいつものように、そろって帰路へつく。とは言っても、決して家が近いわけでもないので、帰り道が分かれる途中までだが。
学校では色々と非日常的なシチュエーションが展開されていたが、ここまでくるといつも通りといった感じで、お互い平常心でもって接することができていた。
「いや、今日はごめんな。変な頼み事をしちゃったりしてさ」
「……ん。大丈夫」
改めて声をかけるも、端的に「気にしていない」といった旨の返答にほっとする。これで変態認定されようものなら、きっと俺は今日のことをずっと後悔し続けただろうから。
自分の悪癖に振り回されることは今までも多々あったが、今日ほどそれを怖いと思った日はない。今後はもっと注意しようと、俺は心に誓った。
「……ところで」
「ん?どうしたんだ」
そんな俺の心中をよそに、双葉が俺へ声をかける。
「……私の耳、入り口の方は綺麗だったんだよね」
「ん、あぁそうだな。そっちはだいぶ綺麗になってたから、俺が手入れする必要は全然なかったぞ」
「……じゃあ、最初に私の耳が汚れてるって感じたのは、耳の奥まで見たからってこと?」
「そう、なるな」
「……よく気付いたね。普通、他人の耳なんて、そんなに注視しないと思うけど」
「うっ」
思わぬ指摘に、心臓をきゅっと掴まれたような錯覚に陥る。俺がそれに気づけた理由は二つあるのだが、それをここで全て口にするのも憚られた。
なので、口にできる方の理由でどうにか誤魔化す。
「あぁいや、ホラ。最初に言ったけど俺って保健委員だしさ。それにああいう汚れって気になる性格だし」
「……そ。観察力、すごいんだ」
「ま、まぁな。あはは……」
どうやら誤魔化せたようだ。彼女の声音や表情には、疑惑の類は浮かんでいないように感じる。俺はそのことにほっと胸をなでおろした。
そんなこんなで、気づけば道は岐路に辿り着いていた。ここで帰り道が分かれるので、俺と双葉はいつもここで分かれている。
「じゃ、また今度な」
「……ん」
いつものように、短く言葉を交わして分かれる。そうして互いに背を向け、それぞれの帰路へと着く。
そのはずだった。
だが。
あの図書室での耳かきのせいだろうか。今日の俺は、いつもと違って、ほんの少しだけ踏み込む勇気が持てそうな気がした。
だから、いったんは歩き出した自分の体をくるりと反転させ、双葉の傍へと走り寄る。
「あ、あのさ」
「……?」
いつもと違う俺の行動に、彼女は小首を傾げる。その感情までは読み取れなかったが、仕草からして怪訝に感じているのだろう。
そんな彼女へ、俺は図書室のときよりももっと気持ちを緊張させながら、言葉を紡ぐ。
「今度の日曜、一緒にどこか出掛けない?」
飾り気もへったくれもありはしない、しかしヘタレな俺にとっては精一杯の言葉。心拍数を跳ね上げさせながらも、どうにか言葉を組み上げられた。
それに対する、彼女の返事は。
「……えぇー」
怪訝そのまま、困惑と……ちょっとだけ、嫌そうなニュアンスを含んだ一言。
「(あ、これ駄目なパターンだ)」
まだまだ、俺の恋路は前途多難のようだった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
第二話に続きます。