不器用な俺の耳かき 前編
第一話、前編です。
物語の導入部分に当たります。
耳かきの描写は後編に入ります。
6月。初夏というにはさほど暑くなく、かといって春と呼ぶには日差しが強い、なんとも中途半端な時期。
ある者は普通の学生生活を謳歌し、またある者は部活動の大会や、様々な目標に向けて邁進している時期でもあった。
そんななか、俺……武藤 一 は定例である保健委員の会合が終わった後、一目散に図書室へ向かった。
とは言っても、俺自身は特別に読書好きって訳でもない。ここへ来るのは、別な理由があってのことだ。
息を切らして図書室の扉の前に辿り着く。そこに立って数秒、呼吸を整えてからゆっくりと扉を開く。
「ええと、今日は当番の日だから……っと」
図書室の扉を開けると同時に、カウンターへと視線を向ける。はたして俺の探し人は、いつものようにその場所で分厚い本のページを捲っていた。やや傾きかけの日差しが、まるでスポットライトのようにその横顔を照らしている。……少なくとも、俺にはそういう風に見えた。
その人は扉が開かれると、顔を上げて俺の姿を視界に捉える。だがそれも一瞬で、またすぐに手元のページへと視線を落とした。
そんな反応にも慣れたもので、俺は真っ直ぐその人へ近づき、声を掛ける。
「よっ。今日もお疲れ様」
「……うん」
煩わしげな様子はなく、かといって何か感情を含めた様子もなく。二文字の返事は、彼女…… 双葉 幸 にとって俺がどういう存在なのかを端的に表していた。
だが、その姿を見られただけで俺は充分であった。
◇ ◆ ◇
双葉と初めて会ったのも、この図書室だった。
最初は特別なイベントも何もなく。俺が委員会から調べものや何やらの指示を受けて図書室に向かうことが多かったため、何度も顔を合わせるうちに自然と興味を惹かれた……といったところである。どこに惹かれたのか、と具体的に言語化するのは難しいのだが、まあ恋愛感情などそんなものだろう。と、俺はあまり深く考えないでおいた。
ともあれ。そんな感じで、それから彼女が図書委員の当番になっている日はこうして図書室へ赴くことにしているのだ。なるべく意識して接する機会を設けているおかげか、双葉にも俺の顔を覚えて貰えていた。少なくとも、声を掛ければ多少は反応してくれる程度には、だが。
とは言うものの、今のところそれ以上の関係に発展する訳でもなく。こうして図書室浸りの日々を送っている。今日も今日とで、双葉から最近読んだ本や気に入った本なんかを教えて貰い、それを読んで過ごすくらいだ。
できればもっと声を掛けてみたいが、彼女の仕事を邪魔する訳にもいかず。また、彼女自身もあまり他人に接されるのを好むタイプでは無さそうだったのもあり、今は声を掛けるのも躊躇われた。
奥手といえば聞こえはいいものの、実際はただ一歩踏み出す度胸を持たないだけのただのヘタレ同然なんじゃなかろうかと、自分ではそう思っている。
普段はそのまま、閉室まで一緒の空間で時間を過ごす。今日も色々話しかけようかと迷ったまま、結局は勇気が持てずにいた。
――のだが。
「あのさ」
「?」
「ちょっと耳見せてくれない?」
「……え」
それでも声を掛けずにいられなかったのは、彼女の耳を視た瞬間に、潔癖症である俺の衝動が抑えられなかったせいだ。
俺は読んでいる途中だった本を置き、双葉の傍へと近づく。そして問いかけの了承も曖昧なまま、俺は彼女の髪をかき上げてそこにある耳へ視線を向けた。
遠目で気付いた“それ”は髪に隠れていたが、近づいてじっくり見るとそこそこ目立つ量だった。なるほど、彼女のセミロングにした髪なら注視しなければ気付けまい。だが、潔癖症かつこういう汚れを見逃さない性質の俺にはどうしても気になるものだったのだ。
「……あの」
「え。あ、悪い! いきなりこんなことして」
それでも発せられた一言に、俺は慌てて飛び退く。
なお当の双葉はと言うと、突然の俺の行動に対処できず、完全に体をフリーズさせてしまっていたようだ。彼女の顔を見ると、そこに浮かんだ感情までは見えてこない。だが困惑と恐怖を感じているだろうことは、自分の行動を鑑みれば予想が出来る。
……またやってしまった。いつものことながら、自らの悪癖に辟易する。
これは非常にまずい。今のはとても礼儀を欠いた行為であるうえに、下手をすれば変態だと思われてしまう。俺の背中を冷や汗が伝った。取り急ぎ、誤解されないようにと弁解の言葉を述べる。
「ホントごめんな、急に変なことしちゃって。実はホラ、双葉サンの耳――ちょっと汚れが気になってさ」
「……耳?」
「そ。その右耳、気にならない? 聴こえ方とか、むずむずするとか」
「…………」
そう。耳垢、である。
俺の言葉に、最初は小首を傾げていた双葉。だが、彼女自身が耳へと手を伸ばすと何かに気付いたようで、その表情に別な色が差したような気がした。ほんのわずかな変化であるが、それは――
「(ひょっとして、恥ずかしがってる?)」
「……ちゃんと、綺麗にしてるはずなのに」
「あー、耳奥の汚れってなかなか掃除するのは難しいからなぁ。普通なら、さほど手入れしなくっても問題ないんだけど……もしかして普段使ってるのって、綿棒?」
俺の問いかけに、双葉はコクンと小さく頷く。なるほど、そういうことかと俺は得心する。
「湿ったタイプの耳垢なら、それで問題ないんだけどさ。乾燥タイプの耳垢だと逆効果なんだよな」
そう。綿棒だと耳垢を奥へ押し込んでしまい、かえって状況を悪化させてしまうケースが多々ある。加えて彼女の場合、普段ほとんど人と話さないのも原因のひとつだろう。顎の動きなどによって、耳垢が外へ排出される……という通常のサイクルすらあまり作用していない可能性がある。
ともあれ。原因は彼女の不摂生や体質的なものではなく、不適切なケアを行なっていたが故。
であるならば。
「あの、さ。もし良ければ、俺が手入れしようか」
「え」
「いや俺って保健委員だからさ。性格的にも、そういうの放っとけないんだよね」
「…………でも」
俺の提案に、双葉は迷うそぶりをみせる。視線は俺の顔と床とを往来し、なかなか答えが出ない。かくいう俺も、勢いとはいえこんな提案をしてしまい心臓がはじけ飛んでしまいそうになっている。
が、こうなっては後に引けない。半ばやけくそのようなものだが、勢いそのまま、彼女を後押しするように言葉を重ねる。
「別に無理にって訳じゃないんだけど、それそのまま放っとくのは良くないよ。耳垢栓塞なんて言って、耳垢が取れなくなって病院に行く人も少なくないし」
「……んん」
それでも彼女は逡巡している様子だったが、やがて決心したのか俺の顔をじっと見て、小さく
「……じゃあ、お願い」
と、言葉を紡いでくれた。
後編に続きます。