色とりどりの、世界の裏側。
朝、通勤の時間。左から来る電車に、彼女は乗っていた。彼女は僕の最寄りが乗り換えの駅らしく、最後尾、ホームでいうならもっとも左端にあたるドアから降りて、向かい側に来る電車を待つのだ。その場所は、僕が電車を待つ位置でもあった。
出会いは、偶然だ。
その日たまたま早く駅に着いた僕は、一つ早い電車に乗れると思いながら、いつもの場所で電車を待っていた。すると、左からホームに侵入した電車から、真っ白のワンピースを着た女性が降りてきた。女性は電車から一歩踏み出した瞬間に顔を上げ、ホームに僕が立っていることに気がつくと、ふいに、瞳から一粒淡い灰色の涙をこぼした。僕は驚いて、隣を早足に通り過ぎようとする女性の腕を、反射的に掴んでいた。なぜか放ってはおけなかったのだ。
女性は仕事のストレスで急に泣けてしまったのだと語った。僕は納得したふりをしてなだめたけれど、本当は信じていない。だってあの瞬間、この人は確実に僕を見て涙を流したのだから。けど、言いたくないのであればそれで良いと思った。もし僕と話したことでこの人を縛り付ける何かが少しでも解けてくれたのなら、それで良い。
それから平日は、毎日一本前の電車が来る前にホームに立ち、降りてきた彼女と言葉を交わして、次に来る電車に乗って彼女に見送られ出勤するようになった。楽しかった。灰色の空だって、輝いて見えるような日々だ。
「ここには、色がないんです」
あるとき彼女は俯いて、そんなことを言った。ヘンなことを言う。僕が首を傾げて彼女を見ていると、彼女ははっと顔を上げ、目元を押さえながら苦笑した。
「気にしないでください。つい、言いたくなってしまって」
何かを必死に誤魔化そうとするような笑み。僕はその時、彼女の中にある何かを察した気がした。恐らく彼女は色に弱いのだろう。濃淡とか、そういうものが分からないに違いない。
何か彼女の支えになることはないだろうか。
まだ知り合って間もないけれど、そう考えてしまう程度には、すでに僕は彼女のことが気になり始めていた。
今日も彼女は、左から来る電車に一人乗ってくる。電車がホームに侵入する頃にはドアの前で待ち構えていて、僕の顔を見つけるとにこりと微笑むのだ。扉が開くと、彼女は軽い足取りで僕の前に降り立ち、小さく頭を下げる。一つ間が空いて、彼女の横から大量の人間が電車になだれ込む。
「おはようございます」
電車がホームを離れた後、改めて彼女は僕に挨拶する。透き通った声。この世のものではないような美しく白い肌。今日は、真っ黒な帽子をかぶっている。よく似合っていた。そのすぐ下、淡い色の髪の隙間から覗く形のいい耳に、小さな乳白色のピアスが輝く。ひいき目なしで彼女はとても女性らし素敵な人だ。
「おはよう。帽子、似合ってる」
照れながら言うと、彼女も少し頬を染めて笑った。
「ありがとうございます。一目惚れして、つい買っちゃいました」
僕が乗る電車が来るまでの数分、なんてことない世間話に花を咲かせる。時には仕事の愚痴を言い合ったりもする。
彼女は、いつも綺麗な格好をしていた。少し華やかなメイク、カールした髪をふんわりとまとめたヘアスタイル、そしてなにより、お出かけ用かと思うほど可愛らしい洋服。アパレル関係なのだろうか。いつもくたびれたスーツを着ている僕とは大違いだ。
いつか、こんなに美しい彼女の隣に立って……下心が僕の脳裏をよぎり、慌てて振り払う。まてまて、こういうことは順序が大切なんだ。落ち着いて、一歩ずつ距離を縮めていかなければ。
「あ、ネクタイ緩んでますね。ちょっと失礼します」
白百合のように美しい指先が、僕の首元まで伸びてきた。心臓が一度大きく跳ねる。お願いだ、こんな機会滅多にないんだから、心臓よ大人しくしててくれ。汗も流れるんじゃないぞ。
「はい、できました。……て、私ったらなんておこがましいことを。あの、ご迷惑ではなかったでしょうか」
慌てて指を引っ込めた彼女に、僕は精一杯の笑顔を見せた。
「迷惑なわけないよ。ありがとう」
「そうですか、よかった。実はちょっと憧れていたんです。大切な人のネクタイを結んであげるとか、そういうの。今日、できてよかった。ありがとうございます」
大切な人、その言葉が妙に耳に引っかかった。大切な人にしたかったことを、行きずりの僕なんかにしてしまって良かったんだろうか。
「あの、どうかしました?」
「いいや、なんでも。手先、器用なんだね」
「そんなことないですよ。普通ですよ」
彼女が謙遜して手を振ったその時、ごう、と音を立てて僕が待つ側のホームに電車が入ってきた。僕らの前まで電車の鼻先がきて、ぴたりと止まる。そしてアナウンスが流れ出す。
『終点ー、終点ー。お降りの際はー、足元に注意し、お忘れ物のございません用に、お気をつけてお降りくださいませー。なお、この電車はー、折り返して……』
アナウンスが終わらないうちに扉が開き、大量の人間が溢れ出す。僕らは流れの邪魔にならない位置で、人がいなくなるのをじっと待った。最後の一人がホームに降り立つと、お別れの時間だ。
「じゃあまた」
「はい、また」
短い言葉を交わし、電車に流れ込む人の中に僕も混ざった。始発駅だから、そんなに慌てなくても確実に座れる。だから僕は、扉が閉まってもドアの前に立ち続け、彼女が見えなくなるまで手を振り続けた。そういえば彼女は、あの駅で乗り換えて、どこへ向かうのだろう。今度、聞いてみようかな。
出会ってからちょうど一ヶ月が過ぎた。その日彼女は、真っ黒のワンピースを風になびかせ、憂いを秘めた目で僕を見つめ待っていた。さした日傘で彼女の顔に影が落ち、さらに彼女を特別な存在にしているようだった。彼女の周りだけ、明らかに空気が違った。
僕はなぜか、どくどくと鼓動が早くなるのを感じる。ひやりと冷たいものが背筋を走り抜け、寝ぼけてぼーっとしていた目が覚める。
「今日は遅かったですね」
「あぁ、ちょっと寝坊して」
「初めて会った日と、逆ですね」
彼女は意味深に微笑んで見せた。いつもは凝ったアレンジをしている髪も、今日はおろして風に吹かれるままになっている。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「う、うん。なに?」
彼女はすっと空を見上げ、薄い唇を開く。
「空の色は、何色ですか」
僕は早くなる呼吸をどうにか落ち着けるため、一度大きく息を吸い込み、はいた。
「いつも通り、灰色だよ」
言えた。ほっと安心して頬の力を緩めた瞬間、彼女の切なげな瞳とぶつかった。僕は、何かを間違えてしまったのだなという淡い悟りとともに、後悔で胸を締め付けられた。急に辺りが暗くなった気がして、足元がおぼつかない。一体何を間違えたというんだろう。
「そう、いつも通り、毎日毎日、来る日も来る日も、ここは灰色だった。雨が降るわけでもないのに、灰色だったね」
その言葉が意味するものがなんなのか、僕には分からなかった。ただ何かが終わろうとしている。そういう、漠然とした確信だけが、徐々に僕を冷静にしていく。
「このピアス、何色に見える? 本当はね、黄色なんだよ。……君がくれた、黄色のピアス。片方渡しておくね。私と君が、共に生きた証だから」
「黄色? 一体何を言って」
僕の言葉などお構い無しに、日傘を閉じ、右耳からいつもしているピアスを外して僕の手に押し込む彼女。その時、慌てた様子の放送が急に僕を引き戻した。
『えー、先の電車ですが、一つ前の駅で急病人が発生したため、本来の到着時刻より五分ほど遅れて到着いたします。大変ご迷惑おかけして、誠に申し訳ございません。反対側、先に電車参ります。ご注意ください』
彼女は一度目を瞑ると、小さく頷き、僕を見つめ直した。
「そろそろ行かなきゃ」
くるりと踵を返し、反対側に歩き出す彼女の背を追う。
「また、会えるよね」
手のひらを、強く強く、握りしめた。ちくりとピアスが肌を刺す。手が痛いのか、心が痛いのか、もうよく分からなかった。
彼女側の電車が先にホームへ入ってきた。左から侵入した電車から、人がずらずらと降りてくる。
『終点ー、終点ー。お降りの際は……』
アナウンスが遥か彼方で響いているような気がした。
「ええ、きっと。またいつか」
降りる人の隙間を縫って、彼女は車内に乗り込む。無情にも、扉はすぐに僕と彼女とを分断した。
手を振る。僕も振り返す。今日は、僕が見送る番だ。震えていた。手も足も、唇もだ。それでもひたすに、またねとつぶやき続けた。
不意に、手を振る彼女の姿が誰かに重なった気がした。
そのまま彼女は、右へと進み出した電車に揺られ、帰っていった。
もしまた会えた時には、今度は僕から、空は何色なのか、聞いてみよう。
僕の乗る電車が、右からゆっくりと、ホームに入ってきた。
どうもこんにちは、優華です。またも短編ですね。よろしくお願いいたします。
長編は書いてはいるんですけどね、どうにも集中力がもたなくて。相変わらずのサボりぐせが発動してますが書いてるので許してください。
そんな言い訳祭りはどうでもいいですね。これは突発的にお題で小説書いてみよーって話になって勢いで仕上げたものです。諦めたら負けだと思ってとにかく書き上げました。内容薄いとか言うな。
多分ここにこうやって書いておけば、同じお題で書くと決めた相方の方も仕上げざるを得なくなると思うので書きました。そう、プレッシャーかけてます。退路塞いでます。そのために私は先にさっさと完成させたと言っても過言ではない。
作品についてはそれほど語ることもないですね。読んでいただければ、そのまんまです。夏なんで爽やかな感じと、少しホラーな雰囲気を作り出せたらいいかなぁくらいの気持ちで書きました。演出できてますか? え、むしろ爽やかどころかねちっこいって?
知るかそんなもん。私が爽やかと言ったら爽やかなんだ。ほら、ワンピースとか夏っぽくて爽やかなアイテムだろ。
なんだかんだ長々書きすぎました。家に着いたからこれくらいにしておきましょう。
それでは、また。
2016年6月26日月曜日 春風 優華