間違い
「ニーナ! お前との婚約を破棄する」
「…………王子、とりあえず落ち着きましょう」
ガタン。
今まで珍しく静かに座っていたはずのシルバ様が席を立った。そのせいで四本の足でしっかりとその場にいた椅子は背中から勢いよく倒れてしまった。
シルバ様がいきなり何かを思い立つことなどいつものこと。これもまた何かの思い付きだろう。そう思いつつ、倒れた椅子の足をくっきりとカーペットの上についた跡の上に置き、椅子の前に立つシルバ様の肩を垂直に押せば彼はストンと腰をおろす。
「シルバ王子、一ついいですか?」
「なんだ」
「婚約破棄の意味ってご存知ですか?」
「バカにするな! それぐらい知っている。婚約を破棄するということだろう!」
ああ、せっかく元の場所に戻したのに……。シルバ様が勢いよく立ち上がれば椅子はまた倒れてしまう。毎度毎度のことなのだから椅子の位置をもっと後ろに下げればいいのだろうが、後ろに下げればシルバ様が前に移動させるだけ。
昔教えた『使ったものは元の位置に戻しましょう』という言葉がはっきりとシルバ様の頭に刻み込まれている。だから、私が椅子を後ろに下げても、正しい位置、カーペットに丸くついている跡にぴったりと椅子のまるい足をはめるのだ。
だから、仕方ない。
シルバ様は教えを守っているだけだ。
椅子のことは諦めて私は若干興奮状態のシルバ様を落ち着けるために話を続けることにする。
シルバ様がまくし立てるように話すのならば、私はゆっくりとじらすように話そう。
それが私たちの話し方だから。
「そうですね。では、破棄とは?」
「なかったことにすることだろう? それくらい覚えている!」
「では婚約とは?」
「結婚の約束のことだろう?」
「正解です。では、私たちの関係性は何でしょう?」
「? 婚約者だろう? まあ、今はそれを破棄しようと……」
「不正解です」
正解、不正解――いつも通りの方法で。
私たちの関係性を強調するように。
シルバ様に教え込むように。間違いを正すように。
「お、お前。俺との関係を続けたいからと……」
「私はあなたの教育係を国王様からたまわっております。決して婚約者などではありません」
「な、なんだと!? お前、俺と結婚するって言っただろう!」
「言っておりません」
冷たく、シルバ様の言葉を否定する。考えを否定する。
これは教育。
間違ったことを覚えてしまった生徒の間違いを正すための。
間違いを正すのならばなぜ間違えたのかを問わなければ。
また同じ間違いをしないように。
私といるときに間違えるのならばそれでいい。それは授業に変わるから。
だけど、他で間違えたら?
彼はどうなってしまうのだろう?
私のカワイイ生徒。私の生徒の、少しおバカなシルバ様。
「言った、言ったぞ! 確かに俺はこの耳で聞いたんだ!」
「いつのことです?」
「お前が俺に初めて勉強を教えた日だ!」
「?」
「覚えてないのか! お前の出した問題に答えられるくらいに頭がよくなったら俺と結婚すると約束しただろう!」
……そんな約束をしたような気がする。
ああ、思い出した。
勉強をしたくないのだと、逃げ回る幼いシルバ様に追いつくよりも早く体力の限界がきて、何とか逃げ回るシルバ様を止めるために出た言葉。まさか本当に止まるとは、椅子に座るとは思っても見なくて。酸素不足になった脳から送られてきた案の一つだったもの。
でも、それは……。
「婚約とは言いません」
「なんだと?」
「婚約とはそんな幼子が口約束でしたもののことは言いません」
「だが……」
「シルバ様の婚約者は他にいらっしゃると思いますよ」
見た目は王妃様譲りの美しい顔立ちで、武術は国王様譲りの、全線で活躍する騎士たちさえも一目を置くほどで、本当に口さえ開かなければ完璧の王子様。それがシルバ王子。
こんな10以上離れた、嫁ぎ遅れの私なんかじゃなくて。歳が近くて、身分だって高い可愛いお嬢さんが、シルバ様の隣にふさわしい。
願わくば少しおバカなところも受け入れてくれるようなお嬢さんであってほしいと思ってしまうのは長い間、教育係をやっていたからだろうか。
シルバ様はちょっとおバカでも人のことを考えられる、優しい人なのだ。
「そんな……」
「よかったですね」
「何が……だ」
「相手に非がなかった場合は婚約破棄を言い出した側が全責任を負うのです。その場合にはそれはもう大量の書類が発生することでしょう」
「なぜ……」
「相手方の家への賠償問題、相手の女性の次の相手もこちら側で用意しなくてはなりませんし……」
いろいろと面倒事があるのですよ、シルバ様。
婚約破棄なんてシルバ様には縁のない話だって思っていたから、あの人と同じ過ちを犯すなんて思ってもみなかったから、教えてはいなかったけれど、教えておいた方がよかったのかもしれない。こんなこと、外でやったら大変だ。
「なぜ、お前の相手など用意しなくてはならないんだ!」
「ですから、私は婚約者ではありません。ですが、本当の婚約者様にそのようなことは言ってはいけませんよ」
そう、そんなこと言ってはいけない。
言ってしまったら私ももうどうすることもできないんです。
いくら教育係でも、間違いを正す機会さえ与えてもらえない。
「お前の相手は俺だ! 他の誰かがなっていいものではない!」
「王子、一旦落ち着きましょう?」
「落ち着いてなどいられるものか! お前、俺以外の男がいいというのか! そんなの許さないからな」
落ち着かせようとしてもシルバ様はどこにもいない、シルバ様以外の男とやらを想像して落ち着く様子はない。むしろそのどこにいるのかもわからない、そもそも存在さえしない、私が思いを寄せる相手に殴りかかりに行きそうな勢いだ。
「王子、落ち着いて。王子は婚約破棄をしたかったんですよね?」
「ああ、そうだ」
「なら、私が婚約者ではなくてよかったのではないですか?」
「……そうか! 手間が省けたんだな!」
「ええ、そうです。王子、よかったですね」
わかってくれた。よかった、よかった。
頭2個分ほど違う私が興奮状態にあるシルバ様を落ち着けるには言葉しかない。
この数年間、教育係としてシルバ様の隣にいた私にできることはたったそれだけ。
倒れっぱなしだった椅子を正しい位置に直して、王子はキチンと椅子に腰かける。
これが、正しい形。
「ああ、よかった。……ニーナ、俺と結婚しろ」
「はい?」
「聞こえなかったのか? 仕方ない、もう一度言うか。ニーナ、俺と結婚しろ」
シルバ様は一体何を言っているのだろうか?
いや、私の頭がついにイカれてしまったのだろうか?
こんなことだったら、兄の言う通りに早く村に戻ってどこかに嫁いでしまえばよかったんじゃないか。
「ニーナ?」
「……王子、もう一度聞きます。王子は婚約破棄をしたかったんですよね?」
「ああ、そうだが?」
「じゃあ、なんで私に求婚しているんですか!」
おかしいじゃないですか。
あの時、婚約者だったはずの彼が私とは違う女に贈った言葉。
ずっと頭から、耳から、離れてはくれない言葉。
彼が私を捨てた言葉。
私には向けられることはなかった言葉。
今後も向けられることはないだろうって決めつけていた言葉。
その言葉をなぜあなたが言うのですか、シルバ様。
あの時以上におかしなこと。
あの時以上にありえないこと。ありえてはいけないこと。
「婚約者は婚約を交わしている者たちのことだろう? 俺がなりたいのはお前の夫であって婚約者なんかじゃないからな。一度なかったことにした」
「王子……」
「なんだその顔は」
「王子、もう一度私と勉強しなおしましょう?」
「え?」
シルバ様にはまだまだ教えなくちゃならないことがたくさんあるのかもしれない。まずは『婚約』と『結婚』について教えよう。
間違い、なんてしないように。
兄から毎月のように送られてくる、いつもあいまいに返事を返していた結婚の催促の手紙にはっきり返事を返そう。
『結婚などしない』――捨てられたあの日は、もう二度とこんな思いはしたくないと、そう決めた。
だけど今は違う。
『結婚などしていられない』――だって私は、可愛くてちょっとおバカなシルバ様の教育係だから。
彼の間違いを正さなくてはいけない。そのためには結婚などしている暇はない。