閑話ー龍姫さんと力の化身
六
イレニア帝国の帝都、ノイン。広大な面積を持つこの都の中央には五つの塔が建っている。
全てが真っ白い素材で建てられたその塔は、通称『王の尖塔』。イレニア帝国の王族が住まう、人々にとって、特に序列を持つ者には憧れの場所である。
『王の尖塔』には王族と、その王族に許可された者しか立ち入ることは許されていない。部外者が入れば即座に見張りの者がやって来て、殺される。だからか、塔の周りには建造物も、それどころか人すら見当たらない。塔を中心に、舗装された地面だけが広がっているだけである。
その『王の尖塔』の一番左にある塔、そこの主であるレレリアは塔の中にある執務室でソファに腰掛け、ゆっくりと息を吐いていた。
レレリアは長身で、雪のように白い肌を持つ王族の一人である。華奢な体つきにいつも真っ黒いワンピースを着ていて、その上からは紺色のカーディガンを羽織っている。綺麗に形作られた輪郭の上には、慈愛すら感じるような微笑みを常に浮かべている。事実、レレリアは穏やかで人格者と評判でもあり、人々はレレリアの事を『帝国の良心』と陰ながら呼んでもいる。
しかし、彼女の短く切り揃えられた白髪の上には小さな褐色の角があった。そして背中には折り畳まれた、純白の翼が生えている。
角と翼、この二つを持ち合わせる種族は一つしかいない。
ーー龍人族。レレリアの種族は龍の血を引くと言われているそれだった。龍人族の事を言い表すならば、排他的で他種族と馴れ合うことを嫌い、他種族を圧倒する力と豊富な魔力を持っている、こんな所である。全ての種族の頂点に立ち、また長寿とされているエルフ族と同等か、それ以上の寿命をも持っている。唯一の欠点は子が成しにくく、またその子も産まれて十年は病弱な為、過保護に育てないと成長しない事だ。その代わり、十年を過ぎたら一気に体が成長するのだが。
しかし、龍人族は種族内の結束は強い。その為、子供が産まれるとその村の龍人族はその子を第一に育て、より他種族に対して警戒を強くする。そんな特性を持っている為か、どの国でも龍人族は見かけられない。たまに見かけても、それは社会勉強に来ている若い龍人族か、閉鎖的な村に嫌気のさした変わり者の龍人族だけ。
イレニア帝国は亜人の多く住まう国だ。だから龍人族が王族であっても、いや、むしろ龍人族だからこそ王族に相応しいのかもしれない。が、前述した通りの龍人族の振る舞いと、他にいる四人の王族がその名にそぐわない行動を取っている為か、レレリアの存在は異質とも言えた。
ため息一つ吐くのにも優雅さが滲み出ていた。血筋を重んじるマグリニアル王国なら、このような振る舞いは出来て当然。しかし、力を重んじるイレニア帝国ではそんな常識は存在しない。それ故、彼女の振る舞い一つ一つが王族である事実を再認識させる。
そんな彼女に目を奪われていた猫が一匹、レレリアの膝の上に座っていた。名をチェリス。黒闇猫という魔獣である彼女は、優しげに細められているレレリアの視線を浴びて、僅かにその身をレレリアの体に寄せた。
「……全く、困ったものですねヤグには」
決して軽くはない、だがどこか親しみの感じる柔らかい声音。形のいい眉を僅かにひそめる彼女は、たった今チェリスが伝えた報告の内容を聞いてそう呟いた。
「マグリニアル王国の八凰騎士団の副団長を匿い、執行人と無断で戦闘を行い、更にその執行人の男と秘密裏に取引を行う。そのいずれも私に報告をしない。違反行為だらけですね、彼は」
「……レレリア様。以前から十二班のヤグは違反行為が目立っている。……制裁は?」
「そうですね……」
黒闇猫のチェリスは、ヤグの行動を全て監視していた。シャラと話した内容も、執行人とどんな戦闘をしたのかも、執行人の男とどんな取引をしたのかも、そしてシャラの身分を隠して調査班の一人に加えようとしているのも、チェリスは全て見て、聞いている。それこそが、レレリアから与えられた彼女の仕事だからだ。
決して見つかってはならない。黒い毛皮に緑色の瞳を持つチェリスは、レレリアの言う事を遵守して仕事をこなす。そしてそんな彼女だからこそ、ヤグに罰を与えるのは当然だと結論していた。
他国の重要人物を匿い、更には断りもなく自分の部下に加えようとしている。何より問題なのは他国の執行人と取引を行った事だ。
執行人の仕事は阻害してはならない。これは王族直轄の部隊である調査班であれ変わらない。今回は他国の執行人であったため、温情次第で罰は逃れられるだろうが、その後の行為はどう見方を変えても許される行為ではない。
いくら優しいレレリアであれ、今度ばかりはヤグに制裁を与えるだろう。ならば、その役目はヤグを担当しているチェリスに回る。頭の中でどう罰を加えようか、考えつつその言葉を待っているチェリスに、レレリアは口を開いた。
「……チェリス、ヤグはシャラ・デ・アロンを正式に調査班に加えるために、私に申請書を出しましたか?」
「……はい。あと数日もすれば、ここに届く」
「そうですか……。でしたら、彼に手紙を書きましょうか。警告と、ちょっとした罰を加えて」
「……それだけ?」
「はい」
「……………」
「何か、不満そうですねチェリス。言いたい事は遠慮なく言いなさい。あなたは、少し消極的なところがありますから」
「では……」
チェリスは緑色の瞳でレレリアを見つめ、大人しい声音にほんの少し苛立ちを混ぜた。
「レレリア様は優しすぎる。十二班のヤグは本来であればとっくに処罰され、解雇されていてもおかしくはない。マグリニアルの奴らと取引をするなんて、重大な背徳行為。一度、誰が上かを分からせるべき」
「その必要はありませんよ、チェリス。彼は確かに自分が楽になるようにしか動きませんが、雇い主が誰かは理解していますから」
「それはない。理解しているなら、こんな行為はしない」
「……チェリスは心配性ですね」
困ったように笑うレレリアは、不機嫌そうに尻尾を曲げるチェリスの頭を撫でた。心地いい感触に思わず身を任せたくなるが、チェリスは耳をはためかせてレレリアの手を弾き、双眸を鋭くした。
「……レレリア様が呑気なだけ。駄犬は躾が一番大事」
「ヤグはどちらかと言うと猫ですよ、チェリス。あなたと同じですね」
「……駄犬と一緒にしないで」
ふふふ、と笑うレレリア。ヤグとチェリスは直接の面識はないが、チェリスが一方的に敵視しているのはレレリアも知っていた。
理由なんて興味はないが、ヤグの話を持ち出せば普段は表情を変えないチェリスもこうしてむくれる。それがなんだかおかしくて頬を緩ませたのだが、チェリスからすればいい迷惑でしかない。
「そんなに怒らないでください、チェリス。ヤグには罰を与えると、言ったでしょう?」
「……レレリア様の言葉は信用ならない。特に、ヤグ関連だと」
「安心してください。きちんと、ヤグにとってとっても痛い罰を与えますから」
そう言うとレレリアはチェリスの首根っこを掴んで床に降ろし、虚空から真っ白い紙を取り出した。
「……それは?」
「手紙ですよ。ヤグに宛てる、ね」
チェリスの問いに答えたレレリアは、手に持ったままの紙に人差し指を立てると、サラサラと文字を書き出した。
数秒して書き終えたのか、一目見てまだ真っ白い紙を折り畳むと、チェリスに差し出した。
「チェリス、ヤグはサリの街にいるんですよね?」
「いる。当分、出てこない」
「でしたら、この手紙を封筒に入れてサリの街まで送ってください。ついでにあなたも仕事に戻ってください」
「……手紙は何処に届ければいい?」
「ヤグが泊まっている宿の部屋にでも置いておいてください。見つからないようにね? あなたならそれぐらい、簡単にできますよね?」
「……分かった」
「あと、これも一緒に届けてください。ヤグへの贈り物です。丁重に扱ってください」
「……分かった」
小さな小箱を尻尾で受け取ったチェリス。にっこりと微笑むレレリアに否とは言えない。確かにその程度の仕事ならそつなくこなせるが、どうしてこう追い詰めるような言い方をするのか。
無駄な重圧に肩を重くしながらもチェリスは手紙を口で受け取り、部屋を出た。
「……おきをふへへ」
いまいち締まらない言葉を残して。
☆
チェリスのいなくなった執務室で、それは不意に現れた。
見た目はただ迷い込んだ少女に見える。童子くらいの背丈に白いワンピースを着ており、可愛らしくデフォルメされた兎の絵が描いてある靴を履いた少女だ。しかしそこから覗く手足や首は酷く華奢で、病的に白い。柔らかそうな頬の右側には閉じた瞳の刺青のようなものが見える。滲んだ青く長い髪をそのままに伸ばしており、真っ赤で大きな瞳を楽しげに歪めると、レレリアの姿をそれに映した。
少女はスキップをするような軽い足取りでレレリアの座るソファに向かっていくと、一歩だけ大きく踏み込み、レレリアの首に腕を回してソファ越しに抱きついた。
「レレリア! こんにちは!」
跳ねるような、楽しそうな声。レレリアは首を少し回して少女と目を合わせると、にっこり微笑んだ。
「アリス、こんにちは。今日も元気ですね」
「アリスはいっつも元気だよ〜。だって俯いてても、良い事は起きないからね〜」
「ふふふ、確かにそうですねアリス」
レレリアはそこで言葉を切り、首にかかるアリスの手をポンと叩いた。
「ですが、盗み見はお行儀が悪いですよ?」
「あれれ、バレてた?」
「バレてますよ。あなたは隠密が、それ程得意じゃないんですから」
「そっか〜。いちおー、猫ちゃんにだけしか目は送ってなかったんだけどな〜」
「だからですよ」
「へ?」
首を傾げるアリス。レレリアは笑顔のまま、答えた。
「チェリスは私の召喚獣ですよ? 念話で教えてくれました」
「あ〜、そっか。レレリアは召喚術師だもんね〜。この国って召喚術師が少ないから、すっかり忘れてたよ〜」
パタパタと、レレリアに抱きつきながら足を跳ねさせるアリスは、少女のように笑った。それからピタリと声を止める。そして鈴を転がしたような声音から一転、背中を這いずり回るような歪さを含んだ声でそっと囁いた。
「ヤグと一緒で」
ピクリと、レレリアの指が僅かに動いた。アリスはそれを見ると、笑みを捕食者じみたそれに切り替えた。
「あー、そっかそっか、ヤグはレレリアのお気に入りだもんね〜。心配しちゃうよね〜」
「……アリスは冗談が好きなんですね。私のお気に入りは私の召喚獣と部下だけですよ」
「その部下に、ヤグも入ってるよね? それでそれで、ヤグはその中でも特別お気に入り!」
決まりだねー、と青い髪を揺らして跳ねるアリス。その様子は見かけ相応の動きに見えて、状況を知らなければ微笑ましいとすら思える画だった。
「確かに、ヤグも部下の一人ですね。そういう意味では、気に入っていると言えます」
「それだけじゃないよね? レレリアはヤグの事、食べたいんでしょ?」
「人を食べる人はあなたくらいですよ、アリス」
「誤魔化すのはダメダメだよ、レレリア? あの猫ちゃんを見張りに置いてるのだって、もしもの時の為、なんでしょ?」
「チェリスには仕事を与えているだけです。あまり邪推するものではありませんよ?」
「あっははー! 言い訳が苦しいよレレリア! ギルド時代の『龍姫』の名が、えんえん泣いちゃうよ?」
パッと、アリスは首に回していた手を放す。ケタケタと一頻り笑うと、ソファを飛び越えてレレリアの目の前に降り立った。
そして口元が、傾いた三日月に歪む。
「そんな弱っちいレレリアは、アリス見たくないなー。レレリアは強くて気高くて、どんな手段を使ってでも目的のものを手に入れるからこそ、なのに。今のレレリアは、我慢してる子供みたい!」
真っ赤な瞳にレレリアの姿を映すアリスは、その顔をレレリアに近づける。互いの顔が触れ合うくらいにまで顔を寄せたアリスは、細い指でレレリアの首をなぞった。
「あんまりのんびりしてると、いつか取り返しのつかない事になっちゃうよ? 例えば……」
ーー可愛らしいアリスちゃんのお腹の中に入っちゃったり。
「……とか」
「ふふふ」
瞬間、レレリアは立ち上がってアリスの首を掴んで持ち上げる。畳んでいた翼を優雅に広げ、細めていた双眸から僅かに赤い色を覗かせた。白い肌にはうっすらと鱗を滲ませ、首を掴む指から生える爪は、僅かに伸びてアリスの柔らかい肌に食い込んでいる。
大人と子供ほどの体格差があるレレリアとアリス。片腕で宙に浮かされたアリスは、それでも笑みを作り変えなかった。
「あは、あはははは! やっぱり! レレリアはヤグがお気に入りなんだね! 可愛い! 可愛いよレレリア!」
「今日はお喋りですね、アリス。それに、楽しそうです」
「楽しいよ? だって、ずっと欲しかったライバルがやって出来たんだもん!」
「ライバル?」
「そう、ライバル! 同じ武王のゲンは強いけど可愛くないし、ニャコルはそもそも会えないし。他の王族の人達は弱っちいから、顔も覚えてないの。けど、レレリアは違う! レレリアは綺麗だし可愛いし、強いから大好き。だけどレレリアってアリスの事嫌いでしょ? 会ってもそっけないし、戦おうとしても周りの召喚獣ちゃん達が鬱陶しいし。だから、理由が欲しかったの! 戦う理由が!」
「……それがヤグだと。そういう事ですか?」
「そ! ヤグは弱いけど、前から狙ってたの! だって、ヤグってとっても可愛いんだもの! ずっと、食べたら美味しいんだろうなって、きっと良い声をあげてくれるんだろうなって思ってたの! 何より、レレリアも狙ってるんだもの! これは、あれ……一石二鳥だなって、思ったの。レレリアも分かるでしょ? だから、ヤグを狙ってるんでしょ?」
「愉快な発想をしていますね、アリス。龍人族は人を食しません。それに、私個人としてヤグに思い入れはありません。有用な人物だから手元に置いて、監視をしている。それだけですよ」
「……ふ〜ん。まだ、そんな事言うんだ」
アリスはボソリと呟くと、レレリアの手首を掴んで無理矢理引き剥がした。アリスの首筋に爪が引っかかって血が流れるも、彼女は気にした様子を見せず、床に足をつける。
それからにっこりと、無垢な子供のような笑みを浮かべると、
「ならさ!」
「っ!?」
レレリアの腹に蹴りを叩き込んだ。警戒していたレレリアでさえ視認がギリギリの速度で繰り出された蹴り。咄嗟に防御したレレリアだったが、その体は呆気なく壁まで飛ばされ、勢いよく叩きつけられた。
「くっ!」
レレリアはアリスから目を離さず、すぐに防御した腕に治癒魔法をかけると、
「下がりなさい!」
レレリアの声はアリスへ宛てたものではない。周りに置いていた、召喚獣達へ向けてのものだ。その声にアリスへ立ち向かおうとしていた召喚獣達は止まり、レレリアもすぐに体勢を立て直す。
その頃には、既に治癒も終わっていた。アリスはそれ以上の攻撃を加える気はないのか、レレリアに目も向けず軽やかな足取りで扉に向かっていく。
「アリス。正式な立会いの場以外で王族に手をあげるのは重大な違反です。例え『武王』であれ、それは変わりません」
「そんなの知らないよ〜。レレリアが嘘をつくのが悪いんだから」
アリスは扉に手をかけ、最後にレレリアを一瞥すると小さな舌を出した。
「嘘つきなレレリアには罰を与えないとね。今までは我慢してたけど、もうそれも終わり。恨むなら、自分を恨んでね、レレリア」
ふっと、アリスの姿が消える。どこへ行ったかなど、さっきまでの会話から簡単に推測できた。
すっかり痛みの抜けた腕を何度か摩ったレレリアは、大きなため息を一つ吐くと囁くように声を出した。
「……カンナ、タオ。今すぐヤグの所に向かいなさい。そしてヤグにアリスが接近したらチェリスと一緒に止めなさい」
『はい』
『了解』
命を受けた二匹はすぐに消える。それを確認したレレリアは翼を畳みながらゆっくりとした足取りでソファに向かって、腰を下ろした。
「……ポアレ、お茶をお願いします。それと、何か甘いお菓子を」
『あい』
また一つ、嘆息を吐いたレレリアは背もたれに身体を預けて目を閉じる。
「……全く、面倒を起こしてくれますねアリスは。どうして彼女がヤグの事を気に入ったのか」
ヤグとアリスが何度か会った事があるというのは聞いていた。しかしそれも顔合わせ程度のもの。直接会話をしているわけではないと、報告を受けている。
だが、そんな事は今はどうでもいい。アリスは気に入ったものは必ず手に、そしてそれが人の形をしていれば腹に入れる狂人だ。ヤグとその召喚獣達だけでは、アリスから逃れるのも難しい。彼女が『武王』である事は伊達ではないのだ。
「……サリの街に『龍姫隊』を派遣させましょうか。有能な人材を失くすのは惜しいですからね」
どこか言い訳めいたように呟いたレレリアは、自分の角をそっと撫でた。