顔の話
男は、およそ3日ぶりに自宅の洗面所で、
“自分の顔というようなもの”を確認した。
その、おぞましく酷くやつれた顔は、
もはや、“自分の顔というようなもの”であった。
男はこれまで、これ程自分の顔に、
激しい憎悪を抱いたことがなく、
男は、目覚めの悪い夢に誘い込まれる
心地がした。
男は、約2年程交際していた女に
酷く素っ気ない別れ話を切り出され
心傷を負っていた。
そのため、ここ2週間ばかり、
ろくな食事もせず、十分な睡眠をとった記憶がまるでない。
それでも、最初の1週間は、家から10分のスーパーに
赴き、セロリやトマトそれから発泡酒を買い、
それらの野菜を生で噛り付き、酒で流し込むというような
“諸作業”は行っていたが、やはりそれも
“諸作業”にすぎなかった。
そんな行為も億劫に感じてくると
男は家から出る事を止め、下着を取り替える事さえも
放棄し、およそ文明人らしい行動は、
一切しなくなった。
何一つまともな行動をしなくなった男は、
ただ洗面所に立ち自分の顔を呆然と眺めていた。
男は自分という人間に対して無頓着なものであったから、
今まで、自分の顔というものを逐一見た事が無かった。
男は、あまりに、自分の顔が不思議に思えて、
取り憑かれたように一日中隈なく確認した。
まるで、自分という存在そのものの所在を
確かめるかのように。
男は何時間も、顔面を確認したが、
やはり何ら感想を抱く事は、無かった。
ただ其処には、まさに30代の日本人男性というような
何ら面白みのない人相を持て余した哀れな
自分が突っ立っていて、ただただそれと、
睨み合うだけであった。
男は、ただ本当に“あること”を確認していただけなのだ。
ホクロの位置、歯並びの具合、目の色、鼻の筋、
耳の形に至るまで、ただそれらは、存在するだけであり、
男は、ただそれら“あること”を享受するだけなのである。
その“諸作業”も終えてしまうと、ついに男は、
息をするだけのガラクタになってしまった。
そしてガラクタとして息をし続けた男は、
その、3日目の朝にふと、気まぐれを起こして3日前と
同じ様に、鏡の前に立った。
しかし、其処には3日前と同じ様な顔は、
映らなかった。
最後に鏡で顔面を確認した時分には、
確かに生気の宿った自分の顔が写っていたのだが
もう其処には、人間味をまるで感じさせない、
精巧且つ趣味の悪い人形が写っていた。
いや、もしくは、悲しみに潰された死者の
顔だったかもしれない。
頬を覆う肉は、もはやなく、皮一枚といった程で
ただ鋭利な頬骨が力いっぱい突き出し、
青白いとは、言葉のままな程顔に血色は
無かった。
それはもはや人の顔とは、言い難いもので、
男は、その顔面に対して、えもいえぬ嫌悪感を
抱いた。
状況を理解できず、ただただ困惑しきった男は、
鏡を壁から引き剥がし存分に床に叩きつけた。
その時飛び散った破片は、綺麗に男のスネを
切った。
男は、血の赤を、確認して自分の所在を
取り戻す事が出来た。
それから1週間程経って、男は、正常を取り戻した。
正常に働き、正常に食事をして、正常に下着を取り替えた。
けれども、あの日男の心にまとわりついた
憎悪やら、嫌悪やらは、
ずっと男の命を捉え続けた。
今になって思うと、この感情こそが、
男が初めて自分自身について、抱いた感情であった。