Wolfs Reißzähne werden nicht sterben(狼の牙は死なず)
数日が経った。
私達はいつものとおり過ごしていたが、内心はそれどころでは無かった。謎の軍服男が言った私の名前。私が言ったミッターマイヤーという名前。
私には記憶がない。だが、それは記憶そのものが無いというわけではなく、封印されているという事だ。なにかのきっかけで、蘇ることがあるに違いない。
第四帝国? 軍人? 私がそうだというのか。たしかに、この左腕や身についている戦闘能力はそれらしい。
『ねえ、レフティ』
オリィが肩に触れようとした手を、右手で握ったところでようやく、私は話しかけられていることに気がついた。オールドハイト中央区のダイナー、レッドドラッカー。今日は清掃のバイトはお休みで、オリィの路上ライブはそれなりに好評を得た。コーヒーにホットドッグをつけてもらって、少し休もうと一息ついたところだった。
「──ああ、すまない。少し考え事をしていた。なんの話だった?」
『貯金の話。レフティからいいだしたんじゃん。五千ドル貯まったら、オールドハイトを出ようって』
私はオリィにあの日の話を出来ずじまいでいた。当然だ。彼女は優しい。ましてや、私と一緒に、例の軍人どもに狙われたこともある。余計な心配をかけたくなかった。オリィは曖昧な返事が気に入らなかったのか、少しむくれるようにコーヒーをかき回した。
「ああ。あちらでの生活は、君の方が詳しいだろ。とりあえず、当座の資金があれば部屋か何か借りられるだろう。それから……」
「なに、レフティ。アンタ、オリィを連れてっちゃうわけ?」
ニッキーがコーヒーポットを手に、こちらに近づいてきた。私は彼女にコップを差し出した。彼女はオリィの友達だ。今後のことを知る権利はあるだろう。
「ま、そういうことになるかな……彼女の故郷へ帰るのさ」
「この子、苦労してっからねぇ。レフティ、アンタこの子を守ってあげてよ」
彼女のことを守る。簡単なようでいて、難しい。だが少なくとも、ウエストヴァージニアへ移れば、あの連中も私を追いかけて来ないだろう。そこまでの価値が、私や彼女にあるとは思えない──いや、思いたくなかった。
私は、自分の価値をもうそんなところに求めたくなかった。
だから、私はニッキーの言葉に頷いてから、言った。
「もちろんだ。私は、彼女を守るよ。約束する」
もはや取るべき手段は少なく、時間は無かった。
第四帝国地下基地『新・鉄狼の巣』の司令室に座る男は、巨大モニタの光を浴びながらデスクに指をこつこつぶつけていた。
『まずはじめに君に言っておきたいのは、総統閣下は君の事を評価しているということだ』
忠誠こそがわが誇り。第三帝国時代からのスローガンがドイツ語で表示され、カギ十字をバックに音声のみが響く。
『戦術人形計画は数多くの失敗実験兵器の一つでしかなかった。それを君は一定のラインにまで仕上げ、十分実用に足るところまで押し上げた。これはこれまでの君の評価をゼロから構築する必要に値する。もちろん、プラスに転じるためにね』
「だが、もう一つの実験兵器は、本来流出すべきものじゃなかったし、そもそもこちらの切り札になるべきものだったはずだ。違うか、ゼウス」
ゼウスと呼ばれた巨大モニタは、マシーンらしく抑揚の薄い機械音声のまま続けた。
『だが、君も予想したとおりだった。あの少佐は本物だ。我々が使役できる可能性のある、最強の切り札だ。それが確認できただけでも、価値ある実験では無いのかね?』
男は目深に被った軍帽をかぶり直した。帽子から覗く金髪がわずかに乱れ、男の耳たぶが欠けているのが分かる。
「しかし、彼女は彼女じゃない。俺も、彼女の知るミッターマイヤーではなくなってしまった。それに彼女は、我々と反目してしまっている。どう考えても、こちらの思惑どおりに動いてくれるとは思えない」
ミッターマイヤーは立ち上がり、神の名を冠する機械の前に立った。
「総統閣下は、俺にオールドハイト基地の最大目的についてお話くださった。少佐も、記憶さえ戻れば俺の話を聞いてくれるはずだ。だから──」
『彼女らを泳がせておく、と? それは問題外だよ、ミッターマイヤー中尉。僕は君だけでなく、戦術人形達すべての情報を吸い上げ、精査している。結論としては、あまり時間がなく、強制的な措置を取らざるを得ないと判断した』
ゼウスはいつも性急だ。それが正しいと判断すれば、それが合理的であれば──そこに人間の感情は必要ない。
そして、彼に判断を仰ぐ相手は居らず、既に結論のみがある。
『戦術人形ユニット《ゼーレヴェ(あしか)》小隊を派遣した。ミリィ・ハーネ少佐には気の毒だが、記憶の再調整が必要だ。彼女には、それだけする価値がある。それに、総統閣下はもう一つ彼女に関して関心をお持ちでね』
「なんだって?」
『ミリィ少佐と一緒に生活している女性。戦術人形は彼女のギターを聞いた末、焼死している。オールドハイト特有の特殊能力者か、はたまた持っているギターが異常なのか──SOHKSやGRUが動き出している今、奴らの戦力増強を指をくわえて見逃す事もないだろう?』
「しかし、一般人だろう。それを──」
『残念ながらこれは総統特命でね。……いかに君の意見具申といえど、口を差し挟むことは許されない、というわけさ。君は、小隊の指揮を司令部からとりたまえ』
午後からは清掃の仕事が入っていた。なんでもない仕事だが、目標があるのはいいことだ。
未だにわたしの記憶は戻らないが、わたしの過去にはこんな穏やかな目標はなかったのではないか。
モップで、ホームセンターの床をもくもくと磨きながら、わたしはそんなことを考えていた。
わたしは、明日も明後日もモップで床を磨いていたいと願っていた。オリィと一緒なら、それでいいと思っていた。
「レフティ、すまない。ちょっといいか」
フロア長のタッカーが、ヒゲをさすりながら大きな身体を揺らして近づいてきた。お世辞にもまともな風体でない──左目と左腕が包帯でぐるぐる巻きの、身元不明な女を──雇ってくれた恩人だ。
「は。なんでしょうか、フロア長殿」
「相変わらずお固いね君は……それより、レフティ。今日は少し残業をしてくれないか。これから棚卸しがあってね。終わったらホコリを払って、モップがけをしてほしいんだ」
「お安い御用です。お任せください」
残業すれば、それだけ目標に近づく。が、わたしはひとつ失念していた。わたしは携帯電話を持っていない。オリィの番号はわかるので、事務所の電話を借りたが、留守番メッセージが流れるのみだった。
『オリアンティです。今は忙しいので、また後ほどかけ直してください。正直かけ直すのは面倒なので、出なかったらごめんなさい』
どちらにしろ、オリィと喋れはしないが、メッセージを残せば安心するだろう。
この時間が、わたしは好きだった。
オリィはもう喋れない。わたしが彼女の声を直接聞ける機会は、この短いメッセージを聞くときだけだ。
わたしはそれで満足して、電話を切ろうとした。その時だった。
『もしもし』
受話器を耳に戻すのに、苦労した。オリィは喋れない。ではこの声は。
「誰だ?」
『先日顔をお見せした者の仲間です』
「……なぜこの電話に出る」
いうだけ間抜けな質問であった。分かり切っている。オリィは彼らの手に落ちた。そして、電話を奪って、出たというところだろう。
『あなたは地上でモップがけをしている場合ではないのですよ、少佐殿。今ならば、総統閣下もすべてをお許しくださる』
「オリィはどこだ」
わたしの口をついて出たのはそれだった。
「わたしが冷静でいられるうちに、言え」
言葉が震えているのが自分でもわかる。なにを言っているのかが消えてしまいそうな中でも。
『不承知です、少佐どの。今この段階でお話できません。しかし、ご自宅に
新・鉄狼の巣の位置情報を残します。ぜひ、いらして下さい』
「そうまでしてわたしを呼び込みたいのか」
『ひいては総統閣下のご命令ですので』
「オリィに、指を、触れるなよ」
わたしのなかで、感じたことのない感情が、煮込まれたシチューのように沸騰しているのがわかった。電話は既に切れていた。
わたしは踵を返し、タイムカードを切り、作業着であるブルゾンを脱いだ。タッカーがぎょっとしたような顔をしているのが、視界の端に見えた。
「レフティ! どこに行くんだ。残業だろ」
「フロア長殿。……申し訳ありません。たった今、どうしても外せない私用ができてしまって」
「バカな!」
タッカーは珍しく声を荒げて言った。
「今日は君を頼りにしてたんだぞ。そんな勝手をされたら、君をクビにするしかなくなる!」
「申し訳ありません。……失礼します」
わたしはブルゾンをタッカーの胸に押し付けると、脇目も振らずに早足でその場を離れた。背中でなおもわたしを呼ぶ声がしていたが、やがてそれも消えていった。
部屋に似つかわしくないカセット式の小型プレイヤーが、堂々と鎮座しているのに、そう長くはかからなかった。
位置情報と言ったあの声が、置いていったものに違いない。わたしは迷わずイヤホンをして、それの再生ボタンを押した。
妙に耳慣れたドイツ語で、歌が流れる。
耳から入ってくるドイツ語が、わたしの脳に記憶の濁流をもたらした。第四帝国。病気で失った右腕。SS(武装親衛隊)。炎。硝煙。南米での作戦。総統閣下。未確認飛行物体。新しい左腕。そして──。
「ミッターマイヤー」
わたしは次の瞬間、洗面所へ駆け込むと、猛烈な吐き気に襲われて胃液を吐いた。夕飯前で助かったというべきだろう。
そして、すべてを理解した。
このわたしが、ミリィ・ハーネという女であることを。
レフティという名前に逃げていたことを。
わたしが、戦わなくてはいけない存在であることを。
誰もいない部屋には、オリィがいたことを示すものだけが虚しく残っていた。飲みかけのコーヒーと、空のギター・ケース。わたしはギター・ケースをとった。まるで電流が走り、電源が入ったように、わたしの目的意識がはっきりと目を覚ました。
封印して焼いてしまおうと思った装備をクローゼットの中から取り出す。モスグリーンの軍服。同じ色のマント。コンバットブーツ。『忠誠こそが我が誇り』のエングレーブが施された短剣で、左目を覆っていた包帯と、義腕に巻きつけていたものを切り、取った。
眼帯代わりの黒布を巻こうとした時、わたしは迷った。
こんなことをして何になる? わたしは軍人だ。組織に捨てられた事もあったが、今は第四帝国という組織に忠を尽くすべきではないのか?
軍人、ミリィ・ハーネ少佐がわたしにささやく。軍のために忠を尽くせ。
わたしは言い返す。
わたしが忠を尽くすというのなら、それはおそらく第四帝国ではない。何もかも失ったわたしに、明日を見せてくれたオリィに対してだ。
ここにはもう戻れないかもしれない。わたしはオリィの宝物を持っていくことにした。テープが切れるかもしれないからと、一度だけ聞かせてくれたカセット・テープを。
『お父さんがギターを引いて、わたしが歌を歌った、一回だけのセッション・テープ。わたしの一番の宝物なの』
迷わずプレイヤーに押し込むと、軍服の裏ポケットに入れた。行こう。わたしの腹はもう決まっている。
例えこれまでのわたしの生き方にツバを吐くような行為だとしても、わたしはオリィに忠を尽くそう。
思い出を残したまま、わたしはオリィのアパートの扉を閉め、鍵をかけた。
次はどこに行くか。それもまた決まっている。オールドハイトには、私的な武器庫にしていい『輩』が、山ほどいるのだから。




