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アイアンナックル/リマスター  作者: 高柳 総一郎
アメリカ合衆国初代神聖皇帝
38/57

皇帝即位

 彼はうずくまって雨を浴びていた。もう12月である。オールドハイトの冬は冷える。流れる雨粒は血液のようだ。

 まるで命が側溝へ流れていくような。

 ただ、彼はそこにうずくまっていた。ボロを纏い、髪は伸び放題だ。オールドハイトに一山いくらもいる、ホームレスの一人。それが彼だった。

 誰が言ったかは忘れてしまったが、ホームレスが失っているのは家だけではないという。ホープレス(希望なき者)。希望なき者に、何かを成そうという気力はない。このまま朽ち果てるまで、こうしてうずくまって、ゴミ箱を漁って、時には支援施設の厄介になって──それが彼の運命だ。

「それでいいのかい?」

 誰かが彼に声をかける。顔を上げる気力もない。オールドハイトのホームレスに話しかける者など、大抵が人買いか異常者だ。先日も、わけの分からない連中に何人も殺された──。

「もっと希望を持とうじゃないか」

 余計なお世話だ。

「この世の中は可能性に満ちている。ただ、人間というのは可能性に火をつけるのに物凄くエネルギーを使うものだ。だから、この私が火を点けてあげる」

 だれかの手が、頬を撫ぜたような気がした。一瞬のうちに、だれかの気配が消える。夢か、幻か。いつだったか、合法だとかいうハーブをやった時もそんな感覚だったのを覚えている。なんの慰めにもならない。強い酒を流し込んだほうがマシだったっけ。

 彼は久々に顔を上げる。雨はいつの間にか止んでいて、冬着の人々が行き交う。ふと、一人の男がこちらを見つめていた。銀フレームのメガネを拭いていたらしい、ビジネスマン風の、刈り込んだ髪。スマートな黒人。彼はメガネをかけながら、突然こちらに駆け寄ってきた。

「あなたの名前を教えて欲しい」

 男は興奮した様子で言った。

「ケイ──だけど」

「ケイ──なんと神秘的な──」


──


 わけがわからなかった。俺は単なるホームレスで、彼は一流のビジネスマンだ。なんの関わり合いもない。だが彼は突然俺の手を引っ張ると、彼の──ホプキンスの会社に連れて行かれ、社員用のシャワールームにブチ込まれた。

 外に出たら、いつ仕立てたのやら、高級スーツが用意されていた。カシミヤの白いマフラーと、ファー付きの暖かそうなコートも。

 ホプキンスは商社のCEOだという。彼の部屋はまるで中世趣味だった。有料チャンネルで見たドラマのセットみたいなバーカウンターには、みたことのない酒が山ほど並んでいた。フルプレートの中身のない騎士が、さも聖剣ですとでもいいたげに携えた剣を、絨毯に突き刺しているオブジェだけが浮いていた。

「一目惚れに近い感覚だな。ブランデーは? 体が暖まる」

 俺は彼の言うとおり、琥珀色の液体をグラスから一気に飲み干した。ハーブよりいい気分だ。

「一目惚れ? 俺はゲイじゃない」

「そうかい。ただ、男が男に惚れるというのは、どんな世界にもある。俺はあんたに何かをしてやりたくなった、それだけさ」

 わけが分からない。ホプキンスの考えが全く分からない。気味が悪かった。

「一目見て分かった。君はたぶん、世界を獲る男だ。俺は一目見てそれがわかった」

 ホプキンスはそう繰り返すが、俺にはよくわからなかった。

「俺は君の家来になりたい」

「何言ってんだよ」

 あまりのことに、俺はそう言葉を押し出すのに精一杯だった。メシにありつくことすら大変だったホープレスが、突然これだけ与えられるなどおかしい。うまい話しすぎる。俺の中の何かが、そう警鐘を鳴らしていた。

「俺は君のためならなんでもできるとも。たぶん財産を投げ打てるし、命だって惜しくないと、思う」

「なんだよ、それ」

「わからん。そういう衝動はあるが、流石に決意まではできない。だが君にあげたそのスーツやコートは君のものさ。そうしたくなったんだ。衝動的にね。ケイ、君はたぶん他人に衝動を起こせるんだ。そうでなけりゃ、俺はおかしくなってるのさ」

 試しに外に出てみなよ。そうすれば、君のために何かしたい連中がいくらでも出てくるだろうさ。

 ホプキンスはそう言ったけど、とても信じられなかった。今まで誰にも見向きもされなかった男が、いきなり注目されると思わない。こっちはハイスクールも卒業できなかったくずだ。何かの間違いさ。

 俺が会社を飛び出した瞬間から、すべてが変わった。人が近づいてくる。俺に施しを与えるために、祝福を、財産を、名誉を、貞操を捧げるために。

 日が傾く頃には、俺はオールドハイト中央区のペントハウスの中にいた。これまで、エロサイトでも見なかったようなホットな女を二人も抱いて、ベッドに転がして、吸ったこともないタバコを吸ってむせ返っていた。

 女と紫煙の香りで、俺はどうにかしてしまいそうだった。これがたったの五時間以内に起こったことだ。俺のみじめな人生は、たったの五時間でひっくり返ってしまった。

 俺の身長よりでかいモニターのスイッチを入れると、死ぬまで見きれないほど多い有料チャンネルの番組表が映った。俺はリモコンで適当にザッピングしていると、中国の古い映画がやっていた。

 年端のいかないガキが、中国のどこかで皇帝エンペラーに祭り上げられる。すべての人々が、ガキにひれ伏し忠誠を捧げる。

 ホプキンスは俺に言った。俺は他人に衝動を引き起こせる。俺に何かをしたいと思わせる衝動を。そうでなければ、ホームレスに何を期待するというのか。

 気味が悪いと思うのは、俺の精神がホープレスだからだ。この能力に相応しい人物になれば、相応しい精神が身につく。

「俺は皇帝か?」

 俺は名前も知らない女に問う。女は生まれたままの姿で俺の足に縋り付き、体を這い、耳にささやく。

「あなたがそう願うのなら、あなたは皇帝陛下ですわ」



──



「パトカーの後部座席に押し込められるの、何回目?」

 クリスがため息混じりに言う。説明するまでもなく、ここはOHPD(オールドハイト市警)のパトカーの中である。アンナ・マイヤーは不機嫌そうに、右人差し指で組んだ腕を叩いている。口元には火の点いていない葉巻。

「さあな。乗せられる度に一ドル貰ってりゃ、Tボーンステーキが食えるくらいじゃねえか」

「いいご身分だよね。警察までタクシー使わなくていいし、ステーキまで食べられるんだ」

「ああ、そうさ。アタシはステーキが好きで、タクシーの運ちゃんのチップをケチってんのさ。文句あるか?」

「倹約に熱心で頭が下がるよ。これが月に一度の外食デートに行く日じゃなけりゃ、僕は君のことホーキング博士くらい尊敬してた」

 クリスは不機嫌そうに窓の外をみつめた。運転席の警官は何も喋らない。助手席の警官もだ。彼女らは緊急事態だとうそぶくこの警官達にパトカーに押し込められ、護送される最中である。それが、二週間前から予約していたレストランの目の前でなかったなら、こんなにも二人が声を荒らげることはなかっただろう。

「はあ〜? アタシがカニバリストの精神科医と同レベルか? じゃあディナーの代わりにクリス、お前から丸かじってやるよ!」

 鉄腕はクリスを抱き寄せると、おもむろに脇をくすぐってみせた。不機嫌だったクリスもこれには敵わなかったと見え、こらえるように笑った。

「ははっ…! 違う! 違うって! それはレクター博士のことだろ! 僕が言ってんのは理論物理学の……!」

「知らねえ! ほら笑え!」

 警官達が怪訝そうな顔で、ミラー越しに二人を見つめている。繰り返すようだがここはパトカーの中で、理由はどうあれ連行されている最中だ。

「もっとおとなしくていいんじゃないか。そんなところか?」

 ハンドルを握っていた年配の警官が口を開いた。

「やめとけ。ビッグス、賭けてもいいがお前にゃ敵わん」

「何者なんです?」

 ビッグスはオールドハイト99分署に異動したばかりの新米だ。故に、この街のことをよく知らない。オールドハイトという街にとってそれは紛れもない罪である。そして罪人は何をされても文句は言えない。それすらも乗り越えられる力の持ち主か、敬意を持って学ぶか。それがこの街のルールだ。

「スーパースターさ。この街にゃ、軍隊も顔を青くするような連中がうじゃうじゃいる。彼女はその中でも指折りってわけだ。正面切って喧嘩売れるのは、うちのボスくらいだ」

 ビッグスは再びミラー越しに鉄腕を見た。相変わらず、連れの少女とじゃれついている。茶色の長い髪をポニーテールに纏め、同じ色のロングコートを羽織り、男物のワイシャツとスマートなスラックス。足元はスニーカーというラフさだ。右手だけに絹性の手袋を嵌めて、目元にはゴーグルのようなサングラス。

 『鉄腕』。『オールドハイトのスーパースター』。それが彼女、アンナ・マイヤーの肩書。

「今回のこともそうですが、わけがわからん街ですね、ここは」

「俺もそう思うが、じきに慣れる。まあ、そういう街なんだ、オールドハイトってのは」



 オールドハイト99分署最奥、強行班チーフ執務室。忙しく行き交う刑事達の間を縫って、鉄腕とクリスは扉の前まで案内された。ガラス製のパーテーションにはブラインド。中は見せられないということか。

 構わず、彼女らは中へノックもせずに押し入った。腹が減っている。苛ついているのだ。

 中では、案の定知己の──ランス警部が、椅子に腰掛けて、デスクに乗ったストロベリー・ドーナツをかじっているところだった。

 デスクを挟んだ先にある椅子にも、人影。その人物もどうやらしっかりとストロベリー・ドーナツを楽しんでいると来た。

「クリスピークリームドーナツは?」

「僕は、ナッツがまぶしてあるやつならなんでもいい。というかある分頂戴。食べていいんでしょ」

 鉄腕とクリスは図々しく──夕食を邪魔されて苛立ちが頂点に達しているのだ──ランス警部のドーナツに近づき、箱いっぱいに詰められたそれを手に取ろうとした。

「手ぐらいあらえよ」

 ランスは指についたドーナツのかすをなめ取りながら言った。白髪頭の無精髭、お世辞にも清潔感があるとは言えない。見た目とおりの悪徳警官だ。時折鉄腕を呼びつけて、ビジネスにかこつけていろいろ押し付けてくる。

「忠告感謝するがね、警部。こっちはディナーの邪魔されてんだよ。ドーナツの食い方くらい好きにさせ──おい!」

 鉄腕はそこでようやく、ランス警部の目の前にいた人物に気がついた。高級スーツに身を包んだ、筋肉質なからだが伺えるがっちりとした中年男性。彫りが深く、精悍な顔つきであるが、今は青ざめている。

「スティーブ市長! あんた、どうしてこんな汚えオフィスに」

「汚くて悪かったな」

 ランス警部は不機嫌そうに白髪頭を掻いた。スティーブはちらりとそれを見てから、なんとも話しにくそうに口を開いた。

「ランス警部に私から頼んだんだ。要は、なんというか……匿ってもらっている。偶然、市内視察中でね。今回の騒動から難を逃れることができた。この間のショッピングモールより、面倒なことになってしまったんだ」

「なに? 今度は宇宙人かなにか? 掃除は懲り懲りだよ」

 クリスが二個目のストロベリー・ドーナツを頬張りながら茶化したが、市長にはそんなギャグに応える余裕すら失われていた。どうやらよほどの面倒ごとらしい。

 鉄腕は彼のファンである。まるで頼れる弁護士のように彼の肩を叩いてから、静かに言った。

「市長。アタシとアンタの仲だ。まず話してくれ。できることなら力になる。……残念だが警部に聞かれてるんで、タダ働きはできないけどな」

 ランス警部がその言葉に頷いたのを見て、市長はすべてを話す気になったようだった。オールドハイトを揺るがしかねない、恐ろしい事件の全容を。

「今朝の話だ。『アメリカ合衆国初代神聖皇帝』を名乗る男に、市庁舎が制圧された」

「イカレポンチが一人でか? なんなんだそいつ。まさかドウェイン・ジョンソンみたいな超人じゃないだろうな」

 市長は首を振る。確かに筋肉モリモリマッチョマンが襲撃してきたら恐ろしいだろうが、彼が受けた報告はもっと恐ろしいものだったのだ。

「違う。当時市庁舎で勤務中だった五百人近い職員が、全員『喜んで』彼のことを受け入れたんだ」

 理解が追いつかなかった。受け入れる? それも、喜んで?

「異常はまだ続いている。すでにOHPDの警官までその中に加わっている。彼らは武器を手にして、市庁舎周辺区域の人間まで支持者になっているようだ」

「市長、一体どういう意味だ? わかるように話してくれよ」

「わかるようにだって? 私にも分からん! たった一人の皇帝を名乗る男に、市庁舎を拠点として侵略されているんだよ、オールドハイトは! それを市民が『受け入れている』! このまま続けば……」

「皇帝によるオールドハイト支配が待ってる。それも、民衆による支持を得た支配ってわけだ。民主主義にしちゃ物騒な政権交代だね」

 クリスは結局残ったドーナツを食い切ってしまったらしく、手をハンカチで拭きながらこともなげに言った。

 鉄腕は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、ようやく口を開いた。

「……アタシのぶんのクリスピークリームドーナツは?」

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