殺し屋ドモンの憂鬱(Cパート)
チョロチョロと水が流れる音。汚水ならではの鼻をつく臭い。先の見えない暗闇に向けて、サイはオイル・ライターの炎を灯し、暗闇に向けた。吸い込まれそうなほど暗い闇。
ドモンは白いジャケットの端を、スペツナズ・ナイフの刃で裂いた。
同じように、サイのスーツも裂いて包帯代わりに彼の右腕に巻いている。幸い傷は浅く、血管や神経が切れたりといったことはないものの、あのパクという男が追跡してこないのが不気味であった。
「あいつ、何者なんだ?」
「順当に考えりゃ、彼がネイリストなんでしょう。僕の刀が指の力だけで折れるなんて、いくらなんでも。ネタはあのマニキュアってところですか」
マニキュアを塗った手が鋭い刃物と化す。理屈はわかるが信じられない。ドモンはジャケットをスペツナズ・ナイフの刃に固く巻いて即席の柄にし、ベルトに差し込んだ。モノがないわけではないが、とにかく武器は多いに越したことはない。
「そうじゃない。ますますわからなくなった。パクは単なる都市伝説の模倣者なんかじゃない。ありゃ、お前のご同業だぞ」
でしょうね。口をついて出た言葉に、ドモンは頭を抱える。面倒ごとに巻き込まれるのだけはゴメンだとなんども言ったはずなのに。
「とにかくそのご同業とやらがこっちに来ないのが不気味です。移動しましょう」
「くそっ。痛えもんだな、ナイフで切られるのは」
「ぶっ刺されなかっただけマシですよ。とにかく、下水道ってやつはどこかに流れ出るようになってるもんです。海か川かは分かりませんが、出られない行き止まりってことだけはないはずです」
ライターをしまい込み、スマートフォンの懐中電灯アプリを頼りに、二人は移動を始めた。下水道の中はあいにく圏外。助けは期待できない。
ひたひたと足音。わずかな水音。存外にこの下水道は静かだ。時たま、遠くからガタガタ音が鳴る。
「オールドハイト・サブウェイの音だろう」
サイは自分に言い聞かせるように言った。
「辿れば、メンテナンス用の通路に出られるかも」
そんな希望を口にした矢先の出来事だった。ざぶ、ざぶ。水を押しのける音。もちろん二人はこんな汚水に足を突っ込む気などさらさらない。考えられるのは、自分たち以外のなにかがこの空間にいる、という最悪の可能性。
「君、知ってますか? 下水道には金持ちが持て余して離した、でっかい白いワニが住んでるって」
ドモンはふと、思い出したことを口にした。
「ニューヨークだったかボストンだったか、そっちのほうだろ。だいたいワニってお前。リアリティがねえよ」
サイがふと光を向けた方向に、『それ』はいた。
背中を丸めた黒く大きな影。ごつごつとした皮膚、爬虫類特有の縦に伸びた瞳──何よりも『それ』は、後ろ足で二足歩行していて、大きな口を開けて威嚇してきたのだった!
巨大アルビノクロコダイルならまだマシだ。かわりに出てきたのはそれよりなお恐ろしい、アルビノ二足歩行クロコダイル怪人!
二人は大人の男だったので、叫び出すことだけは耐えることができたが、そのまま動けなくなってしまった。あまりの異常に恐怖は、二人をその場に釘付けにしてしまうのに十分。だが逃げ出さねば生きて帰れない。このごつごつしたワニ皮のどこに刃物を突き入れれば死ぬというのか?
ワニ怪人は不気味に大きく口を開けて、威嚇するように歯を見せている。齧られれば、ひとたまりもない!
その時であった!
「伏せろ、諸君!」
二人が言うとおり伏せた直後、アルビノ二足歩行クロコダイル怪人が爆裂。ドモンが声の方向を恐る恐る見上げると、人影がひとつ。
長い三つ編みにハンチング帽を載せ、トラディショナルなフィールド・コートを羽織り、手には三連装ショットガン。
彼女は銃身を折り、ゆうゆうとショット・シェルを排莢した。新たに三発押し込むと、銃身を戻す。
「マン・ハントは趣味じゃない。仕事なら別だがね」
「おいおい……ドモン、やばいぞ。ありゃ伯爵だ。セントラルパークから出てくるなんて聞いたことがないぜ」
サイの懸念をよそに、伯爵はゆうゆうとコートのポケットを探り始める。ようやく見つけた不格好な紙巻きタバコを取り出すと咥える。
「ドモン。ああ、そういえばショッピングモールでご一緒したかな? サムライくん。刀はどうしたんだい。……スーツの君、頼むよ」
「なんだよ」
伯爵はちょいちょいとタバコを指差した。
「君はタバコの臭いがする。ライター、もってないのかい? レディが困ってるんだ、火を点けてくれたまえ」
仕方なく伯爵のタバコに火を点けてやると、明らかにタバコとは異なる怪しい臭いが漂ってくる。彼女はご満悦といったばかりに緩んだ笑みを浮かべると、ゆっくりと口を開いた。
「君たち、こんなところでどうしたんだい」
「追われてましてね。脱出をしようとしたらこの有様です」
「それはそれは……僕は見てのとおりハンティングさ……狐じゃなく、ワニ狩りだがね……フフフ」
何がおかしいのやら、にやにや笑みを浮かべ始める始末だ。ドモンはサイと目を合わせる。こいつは役に立つのか。少なくとも、銃は持っている。仲間にしたほうがマシだ。
「ところで、伯爵さんはなんであんな化物を?」
ドモンは彼女のことを知っている。薬中だが腕っこきのスナイパー。セントラルパーク周辺を事実上支配している。近づく者を気まぐれに狐狩り(フォックスハウンド)と称し撃ち殺すこともあると言う。イカれているのだ。下手に出るに越したことはない。
「さっきも言ったろ。ハンティングさ。あのワニ怪人は、最近この下水道に湧いて出たらしくてね。ワニ皮は儲かると聞いていたし、こうしてやってきたというわけさ」
フィールド・コートの下には、肩から斜めがけに身につけたガン・ベルト。十発程度のショット・シェル。それにナイフが下げられていた。これだけあれば、パクだろうとワニ怪人だろうと平気だ。
「なら、ぜひ俺たちも一緒に連れてってくれ!」
サイは辛抱たまらぬといった様子で切り出した。無理からぬことだ。こんな状況では、薬中でも頼りたくなるというものだ。
「構わないよ。狩りは大勢で楽しむものだしね。……そうそう、ワニ皮は君たちで持ってくれ。ワニがこんなに大きいとは思わなかったのでね」
「ミス・ディアナ。プロジェクトは一度中止です」
薄暗い地下通路の中に、工事用ライトで照らされた休憩所がある。不自然に誂えられたSOHKSの前線基地。その中でもさらに不自然な、まるで車──『カマロの前列シート』を再現したような休憩室。パクは助手席で淡々と告げる。
「ヘルブラウ教授の試作生体兵器を使用した地下の偵察は失敗しました。ワニ兵は微弱な電気信号によってコントロールできますが、それが仇になった形になりますね。理由はわかりませんが、あの空間は電波を狂わせている」
ディアナと呼ばれた女は、紫色のタバコを咥え、火を点けた。顔は古びた包帯でめちゃくちゃに巻かれていて、包帯の間から金色の毛が覗き、左頬は裂けてそこから牙がはみ出している。
異形。
現在のSOHKS最高頭脳──科学的秘密結社であるSOHKSにおいて、知能の高さと地位の高さは、ジャンルの違いがあれど比例する──には、ボディガードたるエージェントが何名か存在する。
自身の研究分野の技術を投入し、強化されたエージェントも多い。このディアナという女はその最たるもので、ヘルブラウの得意とする、動物のDNAを組み込む身体強化や、物質組成を変える手術をふんだんに使い、ほぼ人間を辞めてしまっている。
全く喋りもしないし、話が通じているのかどうかも分からない。ただただ、不気味な存在であった。
『ヴァイオレットの差し金かな』
カマロのカー・ステレオから、ヘルブラウの声が響く。パクは動じない。ポーカーフェイスは交渉に必須のスキルだ。
『……どちらにせよ、確かにワニ兵の投入はやりすぎだった。既に投入から一週間経ったが、回収できていないしね』
「追加の情報ですが、どうやら二名ほど地下へ入り込んでいるようです。これ以上は、騒ぎになりかねません。今回の地下の探索は打ち切るべきです」
ディアナは返事代わりに、ぐるる、と喉を鳴らし、お気に入りのカセットテープを押し込んだ。インク・スポッツ。
『聞き捨てならないな。……僕も、ディアナも電波異常空間では作戦行動が取れない。君や、ヴァイオレットがどういうつもりなのか知らないが、僕には手が出せないということだ』
「存じていますとも。……つまり、ここからはわたしに引き継ぎをさせてもらいたい。幸いまだ地下に紛れ込んだのは二人で済んでいる。……ならば、始末すればそれまででしょう」
ヘルブラウはノイズと共に唸った。悩んでいるようだが、パクにはもう彼の答えは見えている。どう考えても詰んでいるのだ、彼は。
始末しなければ、オールドハイトの地下にあるモノに気づく者が出てくる可能性がある。しかし始末すれば、発見された死体から、地下道でなにかが起こったことに勘付く者もいるはずだ。
どちらにしろ、ヘルブラウにとってはマイナスだ。ヴァイオレットにとっては、プラス。チェックメイトキングトゥ。彼女は、オールドハイトの地下を自分たちSOHKSが暴くことに抵抗を覚えている。
だから、あの地下であの新聞記者が死ぬことを望んでいる。死亡記事をさぞ大きく取り上げてくれるはずだ。
そうすれば、オールドハイトの地下はSOHKSだけのアドバンテージではなくなる。必ず眠るモノに気づく者が出てくる。
ともすれば背信ともとられかねない危険な賭けに、ヴァイオレットはベットした。オールドハイトという実験場は、それほど彼女にとって魅力的だったのだ。
「安心してください。……ネズミ狩りにドブさらい。こっちにとっちゃ、得意ジャンルでしてね」




