不知名(ブーチーミン)
アジアンストリートは狭い。そして独特な匂いが漂っている。香辛料の匂い。人の匂い。雨の匂い。料理の匂い。そして、血の匂い。
飛び交う中国語。タガログ語。韓国語。日本語。鍋を振る音、怒声。ガラスが割れる音。銃声。銃声。銃声──。
「やめてくれ、頼む……許してくれ」
傷だらけの男であった。体も大きく、威圧的なスーツ。部下も屈強なサングラスの黒服を十人は連れていた。数分前に肩で風切り、このアジアンストリートを歩いていたこの男は、今は膝をつき手を組みまるで神か仏を拝むようにある女を見上げていた。
背の高い女であった。身長は百八十か百九十。パステルピンクのガーリーなワンピース。浅黒く健康的な肌。ミニサイズまでカットされたスカートから覗く長く美しい脚には、てらてらとおびただしい返り血が飛んでいる。バチバチと音を鳴らすネオン・サインの輝きが、不気味に血の跡を輝かせた。
「あなた、おばあちゃんは?」
ネオンサインが雷めいて女の顔を照らす。恐ろしい顔を。ハラジュク系の大きなリボンのついた、ヴェールつきのゴシックなハットの中の、恐怖を。
「はっ?」
三合会の若頭、ワンは思わずまぬけな声を挙げた。女は肩に置いていたピンクフリルつきの傘を、聖剣を突き立てる騎士のように地面に突き刺し、少しずつ顔を近づけながら言った。恐ろしい顔を。恐怖を内包する顔を。
「おばあちゃんはご存命?」
「あ、ああ……故郷に……」
「そう。おばあちゃん孝行はしているの? 最近手紙は送った? メールでも、電話でも……」
穏やかな声に、ワンは困惑した。何を言っているのか。自分が言われているのか。彼女は微笑む。いびつな笑み。
「さ、最近はしてねえ……」
「どうして?」
被せるように女は言った。
「どうして何もしてないの?」
「それは……」
「自分のおばあちゃんはとても大事にしなくちゃならないわ。自分を産んだお母さんやお父さんを産んだおばあちゃん──。そうした偉大なおばあちゃんに愛しているとメッセージを送る。それは敬意を払うという行為の始まりだと思わない?」
女はゆっくりとヴェールを剥いだ。ワンは両目に、女の顔を焼き付けていた。恐怖を。恐ろしい顔を。彼は恐怖を耐えようとしていた。ともすれば喉の奥から出てしまいそうな悲鳴を、なんとか耐えようとしていた。
「敬意を払う──それは、どんな立場の人間であってもしなくてはならないことよ。あなたは自分のおばあちゃんに手紙一つ、メール一つ、電話一つしない。つまりあなたは、誰に対しても敬意を払えない人間と言う事になるわね」
「ち、ちが……」
ワンが悲鳴に近い否定を吐こうとした矢先、女の履いていた赤い鋼鉄パンプスが唸りをあげ、ワンの顔を真正面から砕いた!
「言い訳は聞きたくねェーんだよ……」
女は低い声でそう吐き捨て、血の糸を引くパンプスを顔から離す。そしてすかさず、横っ面に蹴りを入れた! ワンの顔が百八十度折れ曲がり即死!
「敬意を払えない人間に、くっせえ口を開く権利はないわねェ……」
雨が降る。強い雨が。重い雨が。すべてを押し流すような雨が──。女はゴシックなフリルつきの傘を開く。すべてが雨で流される。血も、暴力の跡も──。
「中華料理食べさせてくれるの」
クリスがまず聞いたのは、そうした期待の言葉であった。もちろんそれ自体は鉄腕──アンナ・マイヤーも期待している事項ではある。
ビズには打ち合わせが必須だ。そこには、とうぜんもてなしを受けることもある。相手の格によって、そのもてなしの格も変動する。
そうした意味では、今回の依頼人の格は高い。中国マフィア三合会。世界中に支店を持つマフィアの古株。当然、オールドハイトにも支店がある。歴史を持った支店だ。オールドハイト東部、通称アジアンストリートには、移民国家であるアメリカの例にもれず、アジアの国々の人々が身を寄せ合って生きてきた歴史がある。そうした人々が、互助会のようにマフィアとしての勢力を広げてきたのだ。
三合会は、そうしたアジアンストリートのマフィアの中でももっとも古株だ。その組織の長老が、鉄腕に依頼があるという。何を頼まれるかはまだ分からないが、打ち合わせの料理は期待してよいだろう。
修理中のハーレーの代わりに、オールドハイト・キャブに乗り、ご立派なアジアンストリートの大門を見上げる。アジア人のるつぼ。男も、女も、店も食い物も、ここでは皆エキゾチックだ。
「チャーハンが食べたいんだよね」
いつものサスペンダー付きズボンにフォーマルなシャツという男装少女クリスの関心は、まず食事、次に知識だ。今回は腹が減っているらしい。無理もない。食事に期待して朝飯まで抜いてきたのだ。
「エビチリと、マーボー豆腐も……」
「ハニー、せっかくのデートなんだ。こういうところの雰囲気を楽しんだらどうなんだ」
鉄腕はコートの裏ポケットから銀色のシガレット・ケースを取り出しながら笑った。言っても無駄な事はわかっている。ギロチンめいたシガーカッターで吸い口を切り、長いマッチで火を点ける。ヘンリエッタ・Y・チャーチルズ。二十七ドルの香りが、文字通りのエキゾチックな香りの中に溶けて消える。
様々な言葉が飛び交う通り。漂ううまそうな露店の香りからクリスを引っ張りながら、鉄腕は小さな肉屋の扉を開けた。中はタイル張り。貧弱そうなパイプ椅子に、灰色の人民服に身を包んだ丸眼鏡の男が腰かけ、新聞を読んでいた。『古都新報』。オールドハイト・タイムズの中国語版だ。
「かけて」
これまたみすぼらしいパイプ椅子が二つ。クリスは迷わずそれに座り、鉄腕もそれに倣った。
「『長老』に呼ばれてきたもんだけど」
「存じています。『鉄腕』と呼ばれているあなたならば、長老はこの事態を解決できると信じておられるのです」
鉄腕は白手袋を嵌めた右手と、そうでない左手を組んだ。呼ばれてくるのは何でも屋、トラブルシューターである鉄腕の矜持であるが、その先で受けるかどうかは彼女の自由だ。
「気に入らんね。アンタ、代理人かい。アタシは金さえ積まれれば依頼を受けるが、えり好みをしないとは言ってないぜ」
「気に入りませんか」
「ああ。一方的に名前が知られてるあたりが特に気に入らねえ。まずは名乗んなよ」
鉄腕は感情の赴くままに、紫煙を強く吐き出した。クリスが少し顔をしかめたが、目の前の男は無表情のまま新聞を折りたたむだけであった。
「そうですね。あなたの言う通りだ。……私の名前はシェンと言います。よろしく」
男は右掌と左拳を合わせ、頭を下げた。鉄腕もそれにならった。郷に入っては郷に従え。鉄腕は無頼であるが、ビズに対しては慎重になれるのだ。
「それで、シェンさん。長老とやらはなぜ顔を出せないんだ」
当然の疑問であった。呼びつけられておいて本人は顔を出さないでは、ビジネスは成り立たない。ビズにおいて互いの立場は同一でなければ、グッド・ディールは成り立たないのだ。
「彼はこの事態を重く見ているのです、鉄腕さん。彼は長い間、均衡と静寂を重んじてきた。アジア人は皆排他的だ。そうした彼らに、アメリカ人も排他的だった。長老は、ならば同じアジア人同士助け合わねば生きていけない。そうしたお考えなのです」
「大した考え方だ。アタシにはとてもできそうにない。ああ、アジアン・ビューティにはできるかもしれねえ。彼女たちとの夜は静かだが熱があるんでね」
鉄腕はへらへらと笑ったが、シェンは笑わなかった。想像以上に彼は切羽詰まっているようだった。
「……話を続けても?」
「すまんね。頼んでなくても口が勝手に動くんでね」
「長老は、あの恐るべき『不知名』の事を恐れておられる。ヤクザや、ベトナム系、韓国系のマフィアたちもだ。我々の若頭──ワンも昨日、無残に殺されたのです。もはや、このアジアンストリートの静寂を守るためにも、生かしてはおけない、そういうわけなのです」
静寂を守る。御大層な題目だが、その目的はたかがしれている。つまりは、自らの手を汚したくない、というわけだ。それに、その不知名とやらをどこの組織の誰が殺したとしても、今までが静かすぎたこのアジアンストリートに角が立つ。勢力図が動き出す。
つまりはそれほど、不知名はここで暴れすぎたのだ。始末することが、組織の勢力図を塗り替えてしまう事実に発展してしまうほど、存在が大きくなりすぎた。
そこで、鉄腕と言うよそ者が登場しなくてはならない理由が産まれる。よそ者が始末すれば、誰の手柄にもならない。
「ウェット・ワークは高くつくぜ」
「成功の暁には、全てアメリカドルで八千を支払う用意があります」
鉄腕はシェンの言葉ににやりと笑みを浮かべて言った。
「前金で二千。それに、中華料理を食べ放題もつけてもらおうか」