苦ヶ坂峰悪人譚 3
自分の名字と名前が共に嫌いだった。それを名付けた両親が嫌いだった。
別に名前を嫌う理由なんて無い。この世界に僕を呼ぶ言葉が無い事だけを感じていた。一人で勝手に孤独を感じて、捻くれて拘っていただけだ。僕の事ながら割り切れない。
ある日、見知らぬ誰かが、知らない人を殴っているのを見た。僕は小学生だったか。
彼は事情があって人を殴って居るのだろう。理由なく殴る訳が無い。
彼には理由があって人に殴られて居るのだろう。理由なく殴られる訳が無い。
理由があれば許されるか? 許しては貰えないだろう。
小さい頃はよく言われていた。『人に暴力を振るうと地獄に落ちる』らしい。疑う事を許さない真理の一つだそうだ。
そんな事を言っていた母も、自分の意思を守る為なら暴力を厭わなかった。
信心の高い人間だったが、死後救われたのだろうか?
母は嘘を嫌っていた。学校の宿題、子供達の秘密、なんだっていい、誤魔化す僕を蹴り飛ばして怒鳴り散らす程に。
——嘘をつく様な子に育てたつもりは無い!
正直者の母の事だ、きっと全て正しいのだ。
地獄に落ちたのだろう。
この世界は悪人ばかりだ。
「立てこもりだなんて間違ってる! きちんと話せばみんな解ってくれるはずです!」
アートさんが街の外で仕事をする手伝いとして、僕が頼まれたのはクライアントの扇動だった。
先にクライアントの元へ向かい、事を起こす人間が、どれ程本気かを確かめる作業だ。
全く持って僕向きの作業らしい。相手も完全に舐めてかかっている。口を滑らすなら弱く見せるべきだろう。
「アンタは俺たちが人間だと勘違いしてる。だから話そうなんて思えるんだ」
僕の煽りに対して交渉役は意外と冷静に語った。
落ち着いて会話できる人間性を評価したいが、僕的には彼がブチ切れて襲いかかってでもくれれば楽ができた。彼は演技派には見えないし、感情的になれば多分の本気度は伝わるはずだ。面倒くさい。
彼の姿や、仲間らしき奴らの表情から察するに、この男は恐らく指導者に従っている。一切の理解を見せない僕を殴って気が済むよりも、誰かの描いた地図を現実にすることを目的にしている人間だ。経験則だが。手が出るまで煽らないと本音を語らないだろう。
戦闘能力皆無の僕が攻撃を受けることは避けたい。
なら指導者のやる気を見るか? 理性的な彼をどうにかするよりは手間が掛からないだろう。だが僕にテレパシーは使えない。ここに居ない人間とは話せないって事だ。テレパシーがどういう条件で誰と繋がるかも知らないし、そもそもテレパシーってそんなに万能じゃないのかも知れない。
「あなた達は間違ってる! 理解されることを諦めてしまったらあなた達は、ただの悪人になってしまうんです!」
「悪人……悪人。産まれた時から認められない俺たちは悪人以下だ。悪でも何でも人に成りたいんだ」
「なら、分かりあって手を取り合って——」
全力で脳内お花畑を演じる僕の体が地面に並行に7m吹っ飛び、倉庫のコンクリート壁に叩きつけられる。
何されたかサッパリだ。何でされたかはキッパリ言える。煽りすぎた。
ダイナミックな吹っ飛び方だったが手加減の出来る異能らしい。一撃で殺されなかったのが最高に幸運だ。腹部に衝撃を貰ったが内臓関係のダメージは薄い。背中の打撲がメインだろう。全力で煽ってた身としてはこの程度で済んだと言える。
しかし、この程度とはいえ、鍛えてない僕は背中の打撲でも蹲って動けない。僕の見たてでは後、一……二発……三発。最多三発迄なら耐えてもいい。四発目までは受けたく無い。
「これでも最大加減してんだ。分かり合おうぜ。ぶつかり合って分かり合おうぜ。対等に友人になろうぜ。喧嘩した後握手しようぜ。好きだろ! 相手してやるよ!」
叫びながら彼がこちらに歩いてくる。完全に頭に血を登らせた。プライドは高い様だ。ともあれ、仕事は終了。後は謝って命乞いするだけでいい。
「ストップ、だよ」
奴らのボスらしき存在が僕の後ろにいた。いつの間にか後ろの階段を登って来たのだろう。正直、命乞いした時に磨り減る尊厳程度は助かった。
「このお兄ちゃんは多分、アートさんの手先だよ。お兄さん、私たちを調べに来たんでしょ?」
僕の目的はあっさりと割れた。完全に騙せてた積りだが、分かる奴には分かる。そういうものだ。理由を付けるのも馬鹿らしい。この界隈にはそういう輩がいるのだ。
「その通りだよ。君がここのボスだろ? アートさんに報告しとくよ、部下の一人が逆上して僕を殴り付けたって」
困らせるような言い回しをするが実際は高評価だ。手加減分は評価を加減させてもらうが。
「よろしくね! アートさんにも、お兄さんも!」
「僕は恐らく今回限りだ、よろしく。アートさんは後から来るはずだ。段取りは本人と頼むよ」
手を振るボスに素っ気なく答えて、廃建造物から立ち去る。
僕はここから舞台裏に潜らせて貰う。本業、彼等の起こす事件のサポート兼副次利益のコントロール役だ。
本来は怪我しない役回りが本領なのに、しょっちゅう危険な相手との交渉に回される。交渉役が悪人坂に居ないのが問題だ。
アートさんは完璧だが今回みたいに試さないと気が済まない。もう少しマシなのは居ないのか。
そもそも悪人坂の住人自体アートさんの知り合いと、その関係者で構成されている。彼の出自を考えれば、交渉向きの人間が居ないのも頷ける。魔女狩りの時の少年が悪人坂に来てくれればいいのに。
「爽太さん! お話終わりましたね! あの人たちはどうでした?」
考えを巡らせていた僕にシアカちゃんが息を切らせて駆け寄って来た。今回の僕が切らなかった切り札だ。僕が殺されそうになった時には先手で撃って貰う事になっていた。
そういえば考えに夢中で帰りに合流するのを忘れるところだった。シアカちゃんが来なかったら置いていく事になっていたかも知れない。
いつもなんやかんやでシアカちゃんは合流するからそんなに心配してないけど。
「ボスは気に食わないタイプだった。あいつらはきちんと事を起こすよ。そこそこ上手く行くんじゃないかな」
「ボス!? どんな人でした? 情熱に燃えてましたか?」
「女の子だったけど、見てない? 僕の背中側から来たから、窓枠とかから見えるはずだけどなぁ」
「女の子は見てないです。そもそも階段には窓有りませんから見えません」
頭が痛くなる。シアカちゃんの狙撃位置からは廊下が見えていた。わざわざ見られないルートを通る必要は無いだろう。
階段付近の部屋から階段を登るのならば見られないかも知れないが、僕は行きで各階の階段付近の人間を確認している。もちろん部屋の中もだ。流石に女子トイレは見て居ないが。
女子トイレに最高のタイミングで入っていたと思い込む程、僕は楽観しない。階段の出口から声を掛けたのは狙撃の目から隠れるためだろう。僕をアートさんの手先と判断したのも、狙撃手の存在からか。
「シアカちゃん。バレてない?」
「私は一流ですから! 撃つまでは見つかりません。疑うなんで失礼ですよ!」
シアカちゃんはプクプク怒った。そういう所が全く頼りに出来ない。どうせまた狙撃場までは隠れなかったりしたのだろう。
「バレても、バレて無くても別にいいよ。今回の仕事は終わりだ。この街に残ってアートさんの仕事を待とう」
「見つかってないですからね!」
まあそうなのだろう。
「奴らのボスは結構出来る奴だって事が解ったからいいよ」
「——で、結局何が気に食わないんですか?」
「すげぇ普通だったからつまんないなって」
「普通? 例えば、何と無く遠くに人影をみて、隠れて撃たれない様にします?」
「確信が有ればする。彼女にはそれが有ったんだ。撃たれたく無いから隠れる。普通だ」
そんな彼女がテレビ局を占拠する集団のリーダーには見えなかった。気に食わない。