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姦~魔禍霊噺~  作者: 乙丑
第十三話・地蔵虐
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 部屋の中は鬱蒼とした空気に満ちていた。炊事場の蛇口から流れる音は、せせらぎのように安らかな音を奏でず、ドロドロとした不感を漂わせている。冷蔵庫の中にはなにも入っておらず、カビたなにかが入っているだけ。リビングのテーブルも汚れ、ゴミが散らばっている。部屋の電気はつけられていない。いや、つけることは出来なかった。

 玄関のドアを叩く音が聞こえ、寝室で寝ていた三十代後半の女性が、のっそりと起き上がった。ボロボロの服を着ており、見窄らしい身形だ。

「役場のものですが……長谷川さん、いらっしゃいますか?」

 ――うるさい。今何時だと思ってるの?

 長谷川久美子は無造作に手を伸ばした。なにかが手に当たる。時計だった。デジタル時計の表示は、電池が切れていて、なにも写っていない。

 久美子は苦痛に満ちた表情を浮かべる。昨日なにを食べたか、そもそも最後に食べたのはいつだったか。

 ――まだあいつは帰ってきていないのか……

 ふと、自分の息子のことを思い出す。小学校に通っているため、昼食は大丈夫だろう。いや、むしろうらやましいとさえ思った。

 久美子は起き上がる気力すら出なかった。いまだにドアを叩く音が聞こえている。

「長谷川さん、お話があります。いらっしゃるんでしょ? 出てきてください」

 職員の声がやまない。そろそろ帰ってくれないかと久美子は思った。

 居留守を使おうと思ったが、それも無駄な足掻きである。

「今日こそは出てきてもらわないと困るんです。秀一くんのことですこしお話が――」

 声が途中で止まった。それからすぐに怒鳴り声が聞こえてくる。

 隣の部屋の住人が、騒音に苛立って文句を言ってるのだろうと、久美子は想像した。その想像は当たっており、町役場職員は、隣の部屋に住んでいる、益荒男という文字が似合うと言っていいほどに、ガタイがいい男に注意を受けていた。周りの迷惑がある以上、役場職員は渋々退散しなければいけなかった。

 久美子は静かになったのを確認すると、ようやく起き上がる気になった。


 水を飲もうと炊事場に歩み寄り、蛇口を全開にする。

 手に持ったコップも汚れていた。水を汲み、飲む。吐き気がした。

 お湯を沸かそうにも、ガスも止められている。

 光熱費の不払いで止められるのは、順に、電気、ガス、水道となる。

 生活保護を受けるという考えもあったが、自尊心が強かった久美子は、離婚した元夫から受けた慰謝料と、今まで培ってきた自分の給料からなんとかたった一人の子どもを育てられると思い込んでいたため、拒んでいた。

 限界だった。いや、限界を通り越して、考えが麻痺していたとも言える。

 息子が戻ってくるまで、あと何時間あるのだろうか――。

 そう思いながら、久美子は……


「どうかしましたか?」

 稲妻神社の境内で、凛とした瑠璃の声に気付いた少年が、そちらに目をやった。

「あ、あの……」

 見た目からして、少年のほうが背丈は大きかった。だがオドオドとした雰囲気に、腰を、それこそ傴僂(せむし)と言わんばかりに曲げていたため、瑠璃から見れば、なにかに怯えているように感じられた。

「あなたに怯えられる覚えはないのですが、それに先ほど夕方のチャイムが鳴っているの聞いてませんでしたか?」

 苦笑いを浮かべている瑠璃の言う通り、夕方を知らせるチャイムが響いてから五分ほど経っていた。まだ夏も終わる頃だったため、日は出ており、周りも明るい。

「え、えっと……」

 瑠璃は少年の顔を注視する。少年の青褪めた表情は、なにか恐ろしい物を見てのものではなく、体調の低下から見られるものではないかと思ったのだが……

「す、すみません」

 少年は瑠璃から逃げるように走りだす。しかし鳥居を潜った先は緩やかな階段となっているため、足が縺れ、転倒してしまった。


「長谷川……くん?」

 鳥居の下で倒れている少年――長谷川秀一を、おどろいた表情で葉月と浜路が見下ろしていた。

「ふたりとも、知っている子ですか?」

 駆け寄った瑠璃がそうたずねる。

「違うクラスの子ですけど、どうしてこんなところに?」

 葉月が怪訝な表情で瑠璃にたずねる。

「それが、さきほどちょっと声をかけたら逃げられまして……あ、葉月、拓蔵を呼んで来てください」

 そう言われ、葉月は母屋のほうへと駆けていく。

「浜路、この少年についてなにか知っていますか?」

「違うクラスの子ですし、体育の合同授業以外はあまり見かけないんです」

 浜路はスミマセンと謝る。

「だけど、なんでうちの神社に来たんでしょうか? 別に面白いものがあるとは思えませんし」

「あ、その子の家なら知ってます」

 浜路はあるマンションの方を指差した。

「なるほど、あちらの方に住んでいるんですね」

 瑠璃は倒れている秀一を一瞥すると、浜路に名前を聞いてから、

「その秀一くんの親御さんにすこしお話がありますので、拓蔵が来たら、この子を母屋まで運んでくれるようお願いしてください」

 そう伝え、先ほど浜路が指差したマンションへと走っていった。


 マンションまではさほど時間は掛からなかった。

 ――長谷川……長谷川……

 マンションの入り口にある郵便受け一つ一つを指で確認しながら見ていく。部屋の数だけのポストがあり、それに部屋の住人の苗字と部屋の番号が書かれている。瑠璃はそれから少年の家を探しだしていた。

 ――あった、二〇五号室。でも……

 名前が見つかり、部屋の番号を暗記する。ポストにはあふれんばかりの郵便物が入れられていた。

 瑠璃は嫌な想像をしてしまう。先ほどの秀一の具合からして、ただごとではないことは火を見るよりも明らかだったが、ポストの状態からして、もしものことがあるのではないかと感じていた。

 部屋の前に行き、チャイムを鳴らした。まったく反応しない。

 今度は軽くドアを叩く。

「すみません、稲妻神社のものですが、ちょっとお話が……」

 反応が感じられない。ドアを開けようとしても、鍵が閉められていて開けることが出来なかった。

「ごめんくださいっ! すこしお話があって、長谷川秀一くんについて……」

「てめぇッ! いっつもいつも、うるせぇんだよッ!」

 隣部屋のドアがけたたましく開き、男性が顔をのぞかせた。

 男性は憤怒の表情を瑠璃に見せたが、

「なんだ? 瑠璃さんじゃないですか?」

 と、相手がいつもの役所職員ではなく、瑠璃だとわかるや、顔色を変えた。

「あなたはたしか、拓蔵の飲み仲間の、梨元さんでしたっけ?」

「え、ええ。それにしてもどうかしたんですか?」

 苦笑いを浮かべながら、梨元邦彦がそうたずねる。瑠璃は稲妻神社で倒れた秀一のことを説明した。

 梨元はおどろいた表情を浮かべ、

「それだったら、こっちから入れませんか?」

 と自分の部屋のベランダへと瑠璃を連れて行く。

「なるほど、こちらから入れはしますが……」

 瑠璃はすこし躊躇った。隔て板という隣室との隔てに建てられた薄い壁である。火事などの緊急時、ドアが壊れ身動きがとれない時に壊して隣の部屋に避難するものなのだが、強度はとてもじゃないが壊すのは容易なものではない。

 試しにベランダから身を乗り出し、隣の部屋を覗いてみた。電気は点けられていないが、ベランダのガラス戸の鍵が降りているのが見える。部屋は二階にあり、届くくらいの距離に木がそびえ立っている。距離はかろうじてあったが、うまく行けば飛び移れるくらいの距離だ。

「うーん、壁はそんなに厚くないし、フェンスもあるんで、むこうに渡れないわけでもないんだがな、瑠璃さんじゃちょっと無理があるか」

「まぁ、あなたは鳶職人ですからね。これくらいの距離なんてたやすいことなんでしょうけど」

 そう言われた梨元は、違いないと笑った。


「しかたない。管理人にお願いして部屋を開けてもらいましょう」

 瑠璃は梨元を一瞥する。

「そうですね。それじゃぁちょっと待っていてください」

 梨元はそう言うと、部屋を後にした。数分ほどして、マンションの管理人である、渡部涛平という初老の男性を連れて戻ってくる。

「これは瑠璃さんじゃないですか? 今日はどうしたんで?」

「それがよぉ爺さん、瑠璃さんは長谷川さんとこに用事があるみたいなんだが、まったく反応がないんだよ」

「そうですか、それじゃぁちょっと待っててください」

 そう言うと、渡部は鍵束から部屋番が書かれた鍵を取り出し、鍵穴に差し込み回した。


 鍵が開き、ドアを開く。

「うわぁ、なんだよこれ」

 部屋の悪臭が、三人の鼻をくすぐる。

「長谷川さん、いらっしゃいますか?」

 渡部が声をかける。まったく反応が見られない。

「スリッパは……これですね。ふたりも、もしもの事がありますから履いてください」

 瑠璃は靴を脱ぐと、スリッパを履き、部屋の中に入る。

 部屋の中を見渡していき、部屋の掃除どころか、人がいるのかすら思えてきたと同時に、もしかすると外出しており、自分は不法侵入しているという嫌悪感に陷る。

 だが、部屋の悪臭は、普通生活している人からは想像がつかない。ましてや子どもを育てている家とは思えなかった。

「お、おいっ! ちょっと来てくれ!」

 台所から梨元の慌てた声が聞こえ、瑠璃はそちらへと一瞥した。

 その視線の先に電子ピアノが置かれているのが視え、その上だけはなにも置かれておらず、場違いなほどに綺麗にされていた。

「どうかし……」

 先に渡部が厨房に入り、異変に気付く。瑠璃も遅れて中を覗いだ。


 そこには、長谷川久美子がうつ伏せの状態で倒れていた。

「お、おいっ! どうした?」

 梨元が声をかけるが、久美子は反応を見せない。

「梨元さん待ってください」

 瑠璃が久美子の傍まで駆け寄り、首元に手を当てた。そして首を振る。

「う、うわぁああああああああっ!」

 梨元は目を見開き、悍ましいものを見てしまった恐怖に満ちた表情を浮かべる。

「渡部さん、警察に通報してください」

 そう言われ、渡部は慌てた表情で管理人室へと降りていった。

「る、瑠璃さん?」

 部屋の外から声が聞こえ、瑠璃はそちらを見やる。そこには葉月と浜路……秀一の姿があった。

「秀一くん? もう大丈夫なんですか?」

 瑠璃が声をかけたが、秀一はまるで聞こえなかったと言わんばかりに部屋の中に入る。

「しゅ、秀一くんか?」

 まるでこの世にいないようなものを見るような目で、梨元は秀一に声をかけたが、秀一は聞く耳を持たんと言わんばかりに、久美子の傍まで近寄り、ジッと彼女を見下ろした。

 瑠璃は、秀一の無表情に対して、なにが起きているのか、理解出来なかったのだろうと思った。

 いや、そう思いたかった。

「――っ?」

 翳りを見せる秀一の口元が、一瞬禍々しいほどに歪んだ笑みを浮かべるまでは。


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