陸
阿弥陀が稲妻神社に訪れていたその日の晩、駐車場に一台の車が止まった。赤の軽車で、降りてきたのは大宮である。彼は慌てた様子で稲妻神社の母屋の玄関へと走って行く。
チャイムを鳴らし、インターホンが取られる音が闇夜に響く。
「もしもし、忠信くんですか?」
受話器をとった瑠璃がそうたずねる。
「はい。阿弥陀警部はそちらにいらっしゃいますか? さきほど捜査本部に連絡をしましたが、戻ってきていないと聞きましたので、恐らくこちらにいるんじゃないかと思って」
「ええ、あなたがここに来るのではないかと思って、私が止めていました。その様子だと、なにか掴んだようですね。そこで立ち話もなんでしょうから、まずはお入りなさい」
大宮はゴクリとうなずく。夜になり、用心のためにかけていた鍵を、小さな影が開いているのが見えた。
大宮は、その影が葉月なのではないかと思った。
居間に入ると、ちょうど夕食が終わった頃だった。
「いやぁ、久しぶりに瑠璃さんの手料理を食べましたが、なるほど、また腕を上げましたなぁ」
阿弥陀が足を崩し、すこし膨れたお腹を叩きながら、褒め称える。
「お世辞として受け取っておきます」
居間と厨房を往復しながら、食器を片付けている瑠璃が、素見の目を見せながら言う。
「お世辞だなんてとんでもないことをいいますなぁ。わたしは感想を言ったまでですよ」
阿弥陀は心外だと、眉尻を下げる。
「お前さんの場合、真偽が分からんのじゃよ。まぁ瑠璃さんの料理は、そこらへんの三流料理に比べれば、月とすっぽん、提灯に釣鐘じゃなぁ」
酌をしながら、いつもの上座に座っている拓蔵が笑いながら言った。
「爺様が言うと、お世辞どころか、惚気話になるからその辺にしてね。あ、忠治さん、コートお借りしますね」
皐月は、大宮がサマーコートを着ているのに気づくや、壁にかけていたハンガーを取り、それに掛けた。
「うん。気配り上手な奥さんはいいものねぇ」
毘羯羅がからかうように言った。最初、その意味が理解できなかった皐月だったが、次第に意味が分かりだすや、
「いや、違うからっ! ほら帽子と一緒! 家にいるのにジャンバーとかジャケット着てると可笑しいでしょ? それと一緒だから」
と耳まで赤くして、しどろもどろに反応した。
「でも、まったく無駄がなく、それでいて自然に気付き、なおかつおじけずにしたのですから、皐月はいいお嫁さんになりますよ。……お菓子以外の家事全般できれば文句はありませんが」
瑠璃は自分の横腹をつまむ。皐月のお菓子作りは日に日に上達しており、瑠璃はその試食をしていたせいで、少々体重が増えた。
「うぅむ。すこし運動した方がいいですかねぇ。境内の掃除も運動にはなりますが、ほとんど職員巫女のアルバイトがしてくれてますし」
「あの、そろそろお話してもよろしいでしょうか?」
大宮が席に座り、その隣を自然な形で皐月が座る。瑠璃たちはまったくそのことには触れず、大宮に事件の調査について話すよう促した。
「事件当時に行われていたというビデオチャットの件ですけど、容疑者の三人の家の近辺に聞き込みをしましたところ、その時間で部屋の電気がついていたのは、緒方准教授の部屋のみでした」
「他の二人、鬼頭と北沢の部屋の電気はつけられていなかったんですね」
「いや、二人の部屋はアパートでね、その両隣の家も、その時間外出をしていたようなんだ」
「偶然でしょうかね?」
「ひとつは家族が住んでいて、外食をしていたそうです。もうみっつは仕事や、集中でヘッドホンをしていたとかで、物音には気づかず、いたのかどうかも分からないと言われました」
「外からはどうでしたか?」
「ふたつとも、窓が見える方には高速道路がありまして、目撃証言は難しいかと」
「そうなると、北沢さんの証言も危ういですな」
「出前で訪れた店員はチャットが始まる前ですし、そもそも殺害理由もわからないままですしね」
大宮がそう言うと、周りの空気が一変した。
「どうかしたんですか?」
困惑している大宮に、阿弥陀がここに来てからの疑いについて説明する。
「えっと、それはどういうことですか?」
「やはりこれは人間の構成から説明するしかないですかねぇ」
瑠璃は頭を抱える。
「要するにホルモンというのは、男性と女性にそれぞれひとつあるのではなく、両方あって、なおかつバランスよくなくてはいけないんですよ。男性なら、その特徴である髭が目立っていきますし、女性ならば胸が膨らみ、おしりの形が整っていきます」
「逆に男性が女性ホルモンの分泌が異常だと、胸が膨らむわけ。太った人の胸が大きくなるわけじゃないわよ。あれはただの無駄な脂肪だから。女性が男性ホルモンの分泌バランスが悪ければ、髭とも思える産毛が、顎に生えたりするしね」
瑠璃と毘羯羅の話を聞いていた大宮は、すこし頭を抱える。
「いや、その……、聞き込みをしていて知ったことなんですが」
「どうかされたんですか?」
「その鬼頭さんと同じ高校にかよっていたという人に会ったんだけど、大学に入ってからの彼を知らないというし、そもそも――」
大宮の言葉に、皐月たちは眉を潜めた。
「つまり、彼……いいえ、彼女は性同一性障害を持っていたということですか?」
「うん。中高では男性よりの態度や性格で、よく指導を受けていたそうなんだよ。それにもしかしたらだけど、日本で性別適合手術が許されているのは十五歳からだから、その治療をしていたんだと思う」
「正確にはホルモン治療が許されるのがその年齢からですけどね」
「でも、そうだとしたら、なんであの時、女性用トイレに入っていたんでしょうか?」
「皐月が入る前に鬼頭が入っていた。男性だと思っていた皐月は当然鬼頭が入っているのは男性の方だと思い、待っていたが出てきたのは鬼頭だけ」
「それが皐月の中で鬼頭が女性じゃないかという疑問になったわけですよね?」
「それに、北沢さんの証言からして、吉永教授はビデオレターに出ていない。いやビデオチャットに出ていたのは、それ以外の三人だけ」
「でもそのビデオチャットというのも、周りが見えるはずだから、どの部屋か分かるんじゃないの?」
毘羯羅が何気なく言葉を発する。本当に何気なくだ。
だが、その一言が小さな場所にハマった。
「たしか北沢さんが、吉永教授はいつも研究所からビデオチャットをしてから帰ると言っておりましたな」
「部屋の模様替え……。いやもしかして――そう見せかけるように部屋を作り替えた」
「テーブルにクロスがかけられていませんでしたし、仮に白色のものを使っていたとしたら、偽造くらいはできますな」
「カメラもあまり性能がいいものを使っているとは思えませんし、コントラストをいじれば、色までは分かりませんからね」
大宮はスット立ち上がる。阿弥陀も同様だった。
「もう一度現場に行って、妖しい物がないか調べてみるよ」
「それだったら、私も」
皐月がそう言った時、うしろから殺気を感じ、そちらを見やった。毘羯羅が皐月を睨むような目で見ている。そして、壁時計を指差した。――針は八時手前を刺している。
「忠治、現場までは車でどれくらいかかる?」
「えっと、ここからですと、一時間は掛かりますね。それに一度本部に戻って報告もしないといけませんし、なによりまずは証拠を見つけるのが前提ですから」
「だとしたら、鬼頭が妖怪に取り憑かれているという可能性もまだ分からないわけね」
「なにが言いたいの?」
怪訝な表情で、皐月は毘羯羅を見る。
「皐月、天探女っていうのは知ってるかしら?」
「えっと、古事記に出てくる巫女神だっけ?」
「まぁそうだけど、天邪鬼の語源……要するに元となっているわ」
皐月は喉を鳴らした。
「つまり、どちらに転んでいても、あなたは勝てない」
毘羯羅は突っぱねた口調で言う。
「そ、そんなのまだやってみないと」
「たかが人間風情が、神仏に勝てるとでも思ってるわけ?」
毘羯羅は、その幼い容姿からは想像もつかないほどに、悍ましい声で言い放った。その異様な雰囲気に飲み込まれ、皐月は毘羯羅を恐々しく見つめる。
「私は皐月が大好きだし、できれば傷ついて欲しいって思ってない。それにさっきも言ったけど、天探女と天邪鬼は似て非なるもの、天邪鬼が鬼頭の心の隙間に入り込んで悪事を働いているのなら、止めはしないけど――」
毘羯羅は口を閉ざす。彼女の苦痛の表情を見るや、皐月も彼女に言い返せなくなっていた。
「毘羯羅、まだそうと決まったわけではありません。それに神は人を殺せない。たとえ人を操っていたとしても、それは天探女ではなく、鬼頭自身がしたこと。妖怪ならば取り憑けますが、神は告げるだけでなにもできない」
阿弥陀が毘羯羅を諭すように言った。
「それでも、勝てる見込みがまったくないんですよ」
毘羯羅は顔を歪め、阿弥陀に言い返す。
「大丈夫。無理だって思ったら、逃げるくらいはするよ」
皐月はアッケラカンとした表情で言った。毘羯羅はその表情の意味が理解できず、
「どうして? どうしておじけずにそんなことが言えるの? 相手が神仏だったとしたら、倒せるどころか返り討ちにあって……」
と詰め寄ってしまった。
「毘羯羅、まだ自分が犯した罪を気にしているんですか?」
「だって、私がもっとぬらりひょんと摩利支天の真意に気づいていれば、朧は殺されなかったかもしれないし、おりんや栢も殺されずに……」
「それ以上は言わないで」
皐月は哭いている毘羯羅を落ち着かせる。
「あれは、毘羯羅のせいなんかじゃない。結局は朧を信じてあげなかった人間が悪いの。毘羯羅のせいなんかじゃない」
顔を上げ、毘羯羅を見つめる。
「それに私は執行人として、罪を犯した妖怪を地獄に連行する義務がある。それは阿弥陀警部、ううん、十三王が私に科した罰だって自覚してるから」
その言葉に、阿弥陀と瑠璃は申し訳ない表情を浮かべた。
だが、もっと悲痛の表情を浮かべていたのは毘羯羅だった。
皐月に大黒天の神力を与えたのは、言うまでもなく毘羯羅である。だからこそ、彼女の苦痛を誰よりも知っていた。
「それに怖いよ。ううん、怖いって思わない人はただの馬鹿だって、最初のころに瑠璃さんから言われたことがある。私だってできれば普通に生活がしたいけど、でもなんだろうね。爺様と一緒なのかな? 困った人を見るとたとえムリだって分かってても、手を差し伸べたくなるんだよ」
皐月の決意に満ちた表情が、毘羯羅には『彼女』とダブって見えた。
「大宮くん、そろそろ行きましょう」
阿弥陀が大宮を促す。大宮は後ろ髪をひかれたように、皐月と毘羯羅を一瞥した。
「……阿弥陀如来さま」
「なんですかな? 毘羯羅」
「――まだ相手が天探女だという保証はないんでしたね」
「ええ、そもそも妖怪に取り憑かれているかも定かではありませんがね」
その言葉を聞くや、毘羯羅は小さく嗤った。話に笑っていたのではない。みっともなく怖気づいている自分に嘲笑ったのだ。
「皐月、もし今の力で勝てないと思ったら、『オン・ビカラ・ソワカ』と念じてから大黒天の真言を唱えて。いくらか楽になるだろうから」
「二重真言……? でもそれは」
「訶梨帝母と地蔵菩薩の二重真言による『凰翼権化』。それに三面六臂大黒天も成功しています。でも大黒天の真言だけはまだ思い通りに使えていない」
「諸刃の剣ではないでしょうかね?」
毘羯羅は阿弥陀の言葉を否定しない。
「だけど、今の実力で勝てない相手だとしたら、ムリはしないで、あくまで力の制御を緩めるだけだから、それに大黒天の力は私よりもはるかに強いからね」
毘羯羅は皐月のお腹を軽く小突いた。
「……ホント、ムリだけはしないで」
「分かってる。それじゃぁ行ってくるね」
皐月は大宮を見る。
「それでは、できる限り遅くならないようにしますね」
阿弥陀は瑠璃にそう言うと、大宮と皐月を連れて、急いで現場へと向かった。
「毘羯羅、結局は付け焼刃ではないのか? お前自身、大黒天の力を抑えることは容易なことではないだろう」
物陰から姿を見せた迷企羅が、毘羯羅にたずねた。
「分かってる。だけど今後赤マントと対峙したとしたら、仮初めの神力なんかじゃ勝てないのよ」
毘羯羅は奥歯を噛みしめ、苦痛の表情を浮かべる。
「どういう意味ですか?」
瑠璃が困惑した表情を浮かべる。
「私たちは彼女の力が通用しないとなれば、赤マントは人間、もしくは幽体ではないかと思ったのです、しかし奴の言動や、殺意からして妖怪以上……神とまではいかないでしょうが」
「以前アイヌカイセイと対峙したさい、希望が虎杖丸に神力を宿し、ようやく地獄へと連行することができましたが」
「崇徳上皇がなにかしらの力を与えている……そういうことですか?」
迷企羅は答えるようにうなずいた。
「それに関しては、こちらもまだ捜査中です」
迷企羅の避けたような口調に、瑠璃と拓蔵はなにかを隠していると感じたが、彼が答えるとは思えず、詰め寄らなかった。




