肆
信乃と瑠璃が稲妻神社で皐月のことを話題にしていた頃、その当人である皐月は、あるアパートの手前に来ていた。
――変わらないなぁ、ここ……。
目の前のアパートを見ながら、皐月は物思いにふけた表情を浮かべる。
アパートの名は『コーポ・はなくも』であった。かつて友人である緒方海雪が住んでおり、そして自殺した場所。
皐月は、できればここには二度と訪れたくはなかった。それくらいここには来るだけで、彼女の痛々しい姿を思い出してしまうほどにトラウマを持っている。
皐月は、先日の海雪の雰囲気を思い出す。なにかを伝えようとしていたのは分かるのだが、その内容が解らない。
ここに来れば、なにかしら分かるんじゃないかと思い、やってきたのだが、ほとんどの部屋が使われていない。
海雪が自殺してから、アパート契約数が減り、住人も気持ち悪くなってか、引っ越しをする者が増えてきた。辛うじて二部屋ほど使用しているようだが、その住人もいつ出ていくか分からない。
――おばあちゃん、いったいなにを云おうとしてたのかしら。
皐月はため息を吐く。ふと、人の気配がし、そちらを見やった。
そこには、初老の男性が、アパートの入り口の前を右往左往しているのが見える。
グレーのスーツを着ており、見た感じ紳士的な雰囲気がある。
皐月はその男性を目で追った。
男性はアパートから離れ、南の、悟帖ヶ山の方へと歩いて行く。
皐月は男性を尾行することにした。
なぜそうしたのか、彼女自信、分からなかった。
悟帖ヶ山を半分ほど登ると、男性は少し脇道に逸れた。
――あれ? あっちってたしか……。
皐月は男性の行き先に、すこしばかり覚えがあった。
先を歩くと、鬱蒼とした雑草畑が姿を見せ、その中心に卒塔婆が身を隠すように突き刺されている。
男性は卒塔婆の前で立ち止まると、周りを見渡した。皐月は慌てて身を隠そうとしたが、姿を消すほどの壁や、背丈の高い雑木があるわけもなく、そのまま男性に見つかってしまった。
「……君は?」
男性は驚いた表情で、皐月を見る。
「え、えっと……」
皐月は言葉がしどろもどろになった。さすがに男性を尾行していた、とは言えない。
「あの、あなたはどうしてここに? おばあちゃんと知り合いなんですか?」
「おばあちゃん?」
男性は、皐月の言葉に首をかしげた。
「あ、いや……。友達のニックネームというか、愛称というか」
「そうか……、そんなふうに言われていたんだね」
男性の寂しそうな声に、皐月は怪訝な表情を浮かべた。
「君は、そのおばあちゃんとは仲が良かったのかい?」
「あ、はい。今でも友達だって思っています」
これは素直に答えた。
「そうか。友達には恵まれていたようだね」
「あの、おじさんって、おばあちゃんとはどういった関係だったんですか?」
そうたずねると、男性は少し考え、
「近くて、遠い関係だったのかな……?」
と答えた。
「近くて、遠い関係?」
皐月は鸚鵡返しをするように聞き返す。
「いや、私だけがひとりよがりに、そう思っているだけかもしれない」
男性はふたたび寂しそうな声を出す。
「ところで、君は私の後を付けていたのかい? それとも自分からここに?」
そう聞かれ、皐月は男性から視線を逸らす。それが男性には答えているように感じた。
「そうか。いや、別にそれはいいんだがね。ここにはいつも来るのかい?」
「あ、その……、だいぶ来ていません」
皐月は、いつくらいから来てなかったけ? と考えてしまった。
男性は袋からお菓子を取り出し、それをお供えした。
「ここにはいつから? それにおばあちゃんのことは知っていたんですか?」
「彼女のことを知ったのはもう四年くらい前だったかな。ここに墓標があることを知ったのはごく最近だがね」
男性は中腰になって、手を合わせる。皐月も立ったままだったが、手を合わせた。
「そうだ、できれば彼女のことを教えてくれないか? それにそろそろお昼だ。ごちそうするよ」
「――え?」
皐月は目を点にした。このタイミングでナンパをされるとは思わなかったのだ。が、皐月から見れば男性は自分の父親以上に歳を取っている。いくらなんでもナンパはない。
「警戒しなくてもいいよ。すこし彼女のことを聞かせてくれればいい。それに君くらいの若い娘には、いくらでも会っているようなものだからね」
「どういう意味ですか?」
皐月が首をかしげると、男性は懐から名刺を取り出した。
「T大学で准教授をしている、緒方悠二というものだ」
「そうか……、小学生の時にそんなことがあったのかい」
悟帖ヶ山を下り、少し歩いたところにある大衆食堂で、緒方と皐月は昼食を取っていた。
「その時のおばあちゃん、おばあちゃんって呼ばれていましたから、演劇会の時におばあちゃん役させられてたんです。まぁ本人もノリノリで演ってましたけどね」
皐月は苦笑いを浮かべるように話す。緒方は優しそうな目で皐月の話を聞いていた。
「他にもありましたよ。えっとたしか水泳の時だったかな? おばあちゃんって私たちより胸が大きいから、いつも男子にからかわれていたんですよ。『お前おっぱいデカすぎなんだよ。どうしたらそんなふうになったんだ』って。一種のいじめですかねぇ」
「ほう……」
「でもおばあちゃんは逆に男子に言い返したんですよ。『勝手にそうなったんだから、知るわけないでしょ』って、おばあちゃんらしいというか、その時はさすがに誰も言い返せませんでしたよ」
皐月はあきれた表情で緒方を見やる。
「強い子だったんだね。……そんな子がまさかあんなことをするとは」
その言葉に、皐月は緒方が海雪のことを言っているのだと確信した。緒方の見せた表情が、大切な人を失ったという、悲愴感をのぞかせていたのだ。
「どうして止められなかったのか、今でも後悔しています」
皐月は申し訳ないという表情しか浮かべられなかった。
「彼女を救えなかった。だけど君はその時まだ小学生だった。彼女は友達を巻き込みたくなかったんじゃないかな?」
「……っ」
皐月はそうだったとしても、一言だけでも相談して欲しかったと思っていた。海雪の中では決着がついていて、皐月と信乃もそれ以上は首を突っ込まないことにしている。だからこそ、高校生になってから一度も、あの卒塔婆には来ていなかった。
「本人の中で決着をつけているのなら、それ以上のことはしない方がいい。君だって傷痕に触れられたくはないだろ?」
皐月は小さくうなずいた。
「あれ? 緒方先生じゃないですか」
声が聞こえ、皐月と緒方は声のした方を見た。
「おお、鬼頭くんじゃないか。君もここにお昼を食べに来たのかい?」
「ええ、でも先生、いいんですか? その子、高校生みたいですけど」
鬼頭は皐月を見やる。
「――っ?」
皐月は一瞬、妙な違和感を覚える。鬼頭の視線が、自分に殺意を向けていると思ったのだ。
が、鬼頭はすぐさま笑みを浮かべ、皐月に会釈する。皐月はそれに倣うと、先ほどの違和感は気のせいだと考えた。
「いや、知り合いの友人みたいでね。昔話を色々と聞かせてもらっていんたんだよ」
「そうだったんですか? だけど人の目は気にしてくださいよ。悪いうわさが出るかもしれませんし」
鬼頭に忠告され、緒方は苦笑いを浮かべる。
「はははっ、さすがにこの歳になると女性を求めようとは思えんくなるよ。それに私には妻がいるからね」
「奥さんは大事にしないといけませんよ」
鬼頭はそう言うと、トイレの方へと入っていった。
「知り合いなんですか?」
皐月はトイレの方に目をやる。
「大学で研究の手伝いをしてもらっている鬼頭晃司というんだが、真面目な生徒でね」
皐月は特に興味が持てなかった。
「あ、ちょっと済みません」
皐月は立ち上がり、緒方に小さく頭を下げた。不意に、尿意にかられたのである。
緒方はそれに気づいたのか、特に聞きはしなかった。
トイレは女性用と男性用にと、ふたつ扉が設置されていた。男性用には小と大で分けられているが、女性の方は赤ちゃんのおしめを変えるための台が設置されている以外は、便器がひとつしかない。
――使用中かぁ。
皐月は目の前の、女性用の扉に目をやる。ドアノブの上が赤くなっており、使用中だというのが見て取れる。
男性用の方を見ると、こちらは小と大で分けられているためか、こちらからは使用中というのは分からない。
――すこし待ってみるかぁ。
そう思い、皐月はトイレと店内の間に立つことにした。
少し経ってから、鬼頭が出てくるのが見えた。
「あれ? 君は……、もしかして待っていたのかい?」
「え、ええ。でもトイレは使用中だったので」
「そうかい……。でも俺が見た時はもう空いていたけどね」
鬼頭はそう教えると、緒方の方へと歩み寄っていく。
皐月の耳では、二人の会話は聞き取れなかったが、それ以上に、さすがに我慢の限界が来ていたので、慌てて女性トイレへと急いで入った。
開放感……。それを終え、手を洗っている時だった。
――あれ?
皐月は妙な違和感を覚える。
――あの人以外に、出入りした人っていたかな?




