漆・容易
警察庁刑事課の一角で、東条はためいきをついていた。
彼女が気にしているのは、清水が供述したことである。彼は落合孝宏が電話に出ているあいだ、角砂糖を被害者のカップに溶かし入れた。
ここまではなんとなくわかる。しかしだ。どうもそこが引っかかっていた。
電話のタイミングが、妙に合いすぎていることが、気になって仕方がない。
「毒が入っていたのは両方でいいのよね?」
東条は同僚の久志田刑事にたずねる。「はい。何度も言いますが、どちらも毒が入っていました」
「そうなると、犯人は落合が飲むことを知っていた」
たとえに、清水が先に飲んでいたら殺されていたのは当然、清水。
「入っていたことを知っていた――とは有り得ないわね」
「どうしてですか? 嘘の供述かもしれませんよ」
久志田刑事が首をかしげる。
――それはまずないわ。だって、私に嘘はつけないもの。
東条はそう思いながら、男性刑事をみやった。――今日も李ちゃんはかぁいいな。
「はいはい。褒め言葉として受け止めておくけど。あなた、たしか恋人いるんじゃなかったっけ?」
東条の言葉に、男性刑事はギョッとする。いま自分が東条に見惚れていたのが、バレたのかと思ったのだ。
「とにかく、清水の件は一旦忘れましょう。彼からこれ以上聞いても何も出ないだろうしね」
東条は椅子から立ち上がると、ヒールの音を鳴らせながら刑事課を後にした。
「はぁ、気になることかい?」
落合と大川が勤めている会社から、稲妻神社に帰るとき、皐月は、大宮に無理を言って、田原産婦人科に来ていた。
「はい。落合美千流が亡くなったとされる七年前の患者名簿を見せて欲しいんです」
「しかしなぁ、個人情報はたとえ事件でも見せれんしなぁ」
「そこをなんとかお願いします。もしそうだとしたら、犯人は三人殺したってことになるんです」
皐月がそう言うと、「三人? それってどういうことだい?」
皐月は、N銀行からここに来るまでのあいだ、瑠璃にもう一度電話をし、さきほどの続きを聞いた。
「落合美千流は失踪する前に妊娠したことがわかった。そうなると殺した犯人は、胎内にいる新しい命も殺したってことになる」
「そうか。落合孝宏に毒入りの角砂糖を渡した人物が、落合美千流殺害の犯人だとしたら――だから三人……か」
「お願いします。おばあちゃん」
皐月は深々と頭を下げる。
「先生、どうしますか?」
「うーん、無理難題を押し付けるね。まぁ気になるって言うんなら話すけどね。たしかに、落合美千流はウチの病院が診たよ。しっかりとカルテも残ってるし、ちなみに妊娠四ヶ月だった」
田原医師は、看護師にカルテを持ってくるようにと言った。
数分後、戻ってきた看護師からカルテを受け取り、紙を捲っていくと、それを皐月と大宮に見せた。
「でも、誰の子供かはわからないんですよね?」
「ああ、ほかの男からって考えてもいいね」
その言葉に、皐月は少しばかり顔を暗くした。
「やっぱり、恨みによる犯行なのかな」
「大川についてはまだわからないのかい?」
「ええ。毒入り砂糖についてもまだわからないことがあって」
田原医師が大宮にたずねると、皐月は悪寒を感じた。
「忠治さん、もしかしたら犯人は落合どころか、清水もろとも殺そうとしたってことになりません?」
「えっ? ――たしかに、毒入りのカップがふたつもあって、しかもそれを飲まなかった清水が生きている。飲んだ飲まなかったの問題じゃない。犯人は二人を同時に殺そうとしていたんだ」
皐月は一瞬、湖西主任にお願いして、現場に置かれている角砂糖の検査をして欲しいと思った。落合殺害の原因は角砂糖だ。それは間違いない。
だけど、基本的に事件は別々のものとして扱われており、それを警察庁が教えてくれるかどうか。
「ダメもとで……」
皐月は、湖西主任の携帯に電話した。数回鳴って湖西主任が出た。
「すみません。落合孝宏が殺された現場に置かれている角砂糖を調べることはできませんか?」
「いや、それはちょっと……、少し、十分ほど待っててくれ」
そう言うと、湖西主任は電話を切った。
「あー、もしもし、お前さんか」
湖西主任がそう言うと、電話先の男性はうなった。
「これは珍しい。今日はどうしたんですかな?」
「ちょっとな、いまそっちと合同捜査してる事件があるじゃろ?」
「ええ、確か落合美千流の白骨死体と、落合孝宏殺害の事件ですね」
「それでな、ちょっと気になることがあってな。落合孝宏の家にある角砂糖を検査して欲しいんじゃよ」
「ほう、それは構いませんが――。しかし、結構入ってましたよ」
「いくつか検査するだけじゃよ。それにな、もしかしたらってことも考えられるじゃろ? なぁ、文殊菩薩」
そう言われ、男性は「わかりました。ただ検査も時間がかかりますから――。そうですね、こちらから折り返しという形で」
「わかった。そのあいだに、こっちもいろいろと調べるよ」
湖西主任はそう言うと携帯を切った。
「渡辺警視、どなたからだったんですか?」
富楼那という、女性警官が、渡辺にたずねる。
「警視庁の湖西鑑識課長どのからだ。落合孝宏の家にある角砂糖を調べてほしいとのことだ」
富楼那は、少し首をかしげたが、「わかりました。それじゃぁ鑑識班と一緒に現場に行ってきます」
そう言うと、渡辺に対して敬礼をし、部署を後にした。
――二時間後。鑑識結果が出るや、渡辺と富楼那は喉を鳴らした。
「おいおい、ちょっと待ってくださいよ? これを作った犯人はなにを考えているんだか」
現場から持ってきた角砂糖を、それこそ、一つ一つ潰して元の粉状にしたものを、試験管の中で水に溶かし、成分検査を行っていった。
その砂糖水の中に銀を入れると、銀は化学反応を起こし黒く変色していく。
それらほとんどに対して、ヒ素系の化学反応が出たのである。
「もしかして、ここにある砂糖全部ですか?」
渡辺と富楼那は、にらむように、現場から持ってきた角砂糖を見つめた。
すべての角砂糖の検査が終わった時、半数がヒ素の化学反応が出ていた。
鑑識結果を聞いた湖西主任は、すぐさまそれを皐月の電話を通して、大宮に伝えた。
「皐月ちゃんが思ったとおりだったよ。犯人は落合が清水を殺すことを考えて、角砂糖にヒ素を入れていた。だから二人のカップ両方に毒が入っていたんだ」
「それじゃぁ、清水は犯人じゃないってことですか?」
「清水が警察を呼んでから十分後に警察は来た。そのあいだ彼はトイレに行っていたそうだ」
「もしかしたら、そのあいだに誰かが家に侵入し、清水のカップにも同じ毒を入れた」
考えられなくはないが、トイレに行っていた時間を三分と考えると毒を入れて溶かすまで数秒もかからない。
トイレの場所もリビングから離れており、彼がもう一度リビングに戻ったのは、行って五分後のことであった。
それらがわかったのは、翌日の、合同捜査会議でのことだった。
「寒いな……」
大川はコートを締め直した。四月もすでに中旬であったが、夜はまだ寒い。
「しかし、警察もバカだな。落合を殺したのは誰でもないのに」
大川はクククと笑った。「これもそれも、すべて彼女が悪いんだ」
「なるほど、結局一番の原因は、落合美千流の異常な面食いだったってことか」
うしろから声が聞こえ、大川は振り返った。
「だ、誰だ?」
「すみません。僕は警視庁の大宮といいます。ちょっと落合さんについてお聞きしたいことが」
「落合? 彼についてなにを?」
大川が首をかしげながら、大宮にたずねた。
「ちょっとね。彼はどうも奥さんが不倫していたことを知って、それを相手である清水に聞こうとしていたという話を聞きましてね」
「それならわたしも聞きましたよ。彼はたいそう怒り狂ってましたよ。殺してやるとでも言ってる感じにね。それでちょっと気になって彼に電話をしたんですよ」
「社会人だったら持っていても可笑しくない携帯に連絡をしないで、リビングにある固定電話に連絡をしたのも、足がつかないようにするためじゃないんですか?」
大宮のうしろで、皐月は大川を見やった。
「いやぁ、ちょっと待ってください? 実は携帯を忘れてしまっていてね。それにわたしが携帯を使って連絡をしたという証拠はないんじゃないんですか?」
「ええ、携帯の履歴なんてすぐ消せますからね。でも警察を舐めないほうがいいですよ」
大川から見て、右手の方から声が聞こえた。「東条刑事?」
「ここに当時の通話履歴があります。一人暮らしで固定電話はあまり使わないんでしょうね。数日のあいだにあったのは、あなたがもっている携帯からの連絡だけでした」
東条がそう断言できたのは、殺された落合孝宏の携帯通話記録も調べてのことだった。
ふたつの電話の通話履歴で、共通した携帯番号は、大川のものしかなかった。
「大川さん。あなたを落合孝宏殺害の容疑で……」
大宮が、大川に近づいた時だった。
「くくくっ! でも刑事さん。私はなにもしてませんよ? そもそも毒を混入させたのは清水でしょ?」
「たしかに、毒を直接盛ったのは清水で間違いはありませんね。でも、それを作ったのは大川さん、あなたじゃないんですか?」
「それを証明するものは? ないでしょ?」
「ひとつ聞いてもいいですか? 大川さん、あなた落合さんに角砂糖を差し入れてません?」
皐月にそう聞かれ、大川は首を横に振った。
「いや、やってませんよ。そもそも彼は猫舌でね。にも関わらず紅茶には目がなく、紅茶は熱い時に飲むものと思っていましたからね」
それを聞くや、皐月は小さく笑みを浮かべる。
「それは少し間違ってますよ。もし紅茶にこだわってる人だったら、ティーポットやカップを温めたりするはずだから、作るのに結構時間がかかるはずです。会社が終わるのは大体夕方五時あたり。それから家に帰って準備をするにしては、人を待たせている以上それは考えられないんじゃないんですか?」
大川は少し表情を曇らせる。
「事件当時のタイムカードでは、夕方五時ころに会社を出ています。殺害されたのは六時頃。家との距離や、そこの女の子が言っていることが本当にされていたのなら、時間は足りないはずですよ?」
東条が、大川をにらむように言った。
「それに事件当時、あなたは外回りでそのまま帰宅だったそうですね。それを証明できる人は?」
大川は顔を俯かせる。
「ははは……、あー苦しい。どうしてわたしが責められなければいけないんだ?」
「どうしてって、じゃぁ自分が犯人じゃないって証拠を」
皐月が問い詰めようとした時、大宮がそれを止めた。
「大川さん、ひとつお聞きしてもいいですか? 落合孝宏の奥さんである美千流さん殺害については?」
大宮がそうたずねる。大川は少し黙るや、気持ち悪いほどの金切り声で、哂った。
「それもわたしがやりました。ええ。彼女が産婦人科に行ったのが目に入ってね。予想通り彼女は妊娠していましたよ。だから彼女を水氏沼に連れて行ったんです。だってあそこはいらない子供を捨てる沼でしょ?」
大川がそう言うや、皐月の中にある、理性が吹き飛んだ。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよっ! あの沼で供養された子供は、お母さんのお腹の中で大切に育てられていたのに、いろんな理由でこの世に生まれることができなかった子供たちが供養されてんのっ! いらなくなった子供を捨てる場所じゃないのよ!」
皐月は、食いかかるように大川を糾弾する。
「それになぁ、あいつは俺たちと付き合っていたんだ。もう知ってるんだろ? 落合美千流がほかの男と関係を持っていたことくらい。あいつはてめぇの中にいる子供が孝宏のだと思ったんだろうな……。そんなわけないだろ? まぁ、あいつが妊婦になったらなったで、そっち系の嗜好を持ってる奴もいるからいいんだけどな。でもようそれじゃぁ楽しめないだろ?」
皐月は、顔を怒りで紅潮させ、鬼女のような形相を浮かべる。
「女の人の……、女性の身体をなんだと思ってんの?」
皐月が震えた声でたずねる。
大川は、つまらない表情で――。
「だって、あいつは会社の中じゃ男食ってた糞ビッチだぜ? そいつの身体がどうなろうが知ったこっちゃねぇだろ?」
大川がそう言った時、彼の顔面が大きくゆがみ、吹き飛んだ。
キレた皐月が、大川の顔をぶん殴ったのだ。
「さ、皐月ちゃんっ!」
さすがにやばいと思った大宮が止めに入った。
「やめるんだ皐月ちゃん、こんなやつに何を言ったって……」
大宮は、皐月の身体をうしろから羽交い絞めするように抱きかかえた。
息を荒くしながら、振り返った皐月の表情は、悔しさと哀しみで歪んでいる。
「忠治さん……、わたしどうしたらいいんですか? なんか女性の身体なんて、ただの道具だって言われてる気がして、すごく悔しいんですけど……」
冷静に……、冷静になれ。
皐月は頭の中でそう繰り返した。
「なんだよ? ははは、お前だって将来そうなるんじゃないのか?」
大川が笑いながら言った。
「えっ?」
皐月は、目の前にいる大川を見るや、ゾッとした。
自分は、それほどまでに力を入れていたのか。いや入れてないはずだ。
いくら激情していても、相手は人間だ。それはわかっている。
それなのに、大川の眼球は外に爛れている。
「お前だって、将来そうならないという保証はあるのか……?」
大川は、何事もなかったかのように立ち上がった。
「なぁ、どうなんだ? 恋人が出来たらいちゃいちゃして、やることやるんだろ?」
大川が皐月の肩を掴んだ時だった。
「――少なくとも、皐月ちゃんはそんなことしないよ……」
冷たい風が吹き、大川の体を震わせた。
「な、なんだ?」
大川が振り返った先には、皐月と同じくらいの背丈の少女がいた。
忍装束を着ており、顔は特徴的な柄の頭巾で隠れているため、見ることができない。
少女とわかるのは、頭巾からはみ出すように出ている、小さく束ねられた白髪だった。
風でなびく一本一本の髪が、雪のように白く、月夜のひかりに反射している。
「だ、誰だお前?」
大川がそう言うと、少女は小さく笑った。
「パカシヌルプネクルイタッイサムクレヘ(罰せられる人に語る名前なんてない)」
少女は小さく指を動かした。
その時である。大川の表情がみるみるうちに青ざめていく。
「さ、さむい? なんだこれは……」
ガタガタと歯を鳴らす。まるで極寒の中にいるような感触だった。
寒さを通り越して、痛みさえ感じてくる。
少女が隠していた右手を外に出すと、彼女の手にはサバイバルナイフほどの大きさがある小刀が持たされていた。
「閻獄第一条七項において、女性の身体をいたずらに痛めつけ、ましてやその中にいる胎児を殺めたものは、【等活地獄・極苦処】へと連行する」
少女はそう告げるや、大川に襲い掛かった。
「た、助けてくれ――!」
大川が逃げようとした時、足元が強い力で握られたのがわかった。
そしてそちらを見ると、大川は恐ろしいものを見てしまい、悲鳴をあげた。
彼の足首を掴んでいたのは、赤く澱んだ赤子だった。
「な、なんだよっ! なんなんだよっ!」
大川が赤子を振り払おうとした時、彼の額に御札が貼り付けられた。
「ぎゃぁあああああああああっ!」
大川の断末魔が響き渡ると、大川の姿はどこにもなかった。
「え、閻獄通知――っ? でもそれって、地獄裁判官や執行人以外できないはずじゃ」
皐月は、信じられない表情で、目の前にいる少女を見やった。
少女は皐月との視線を合わせないように、顔を俯かせる。
「ねぇ、ちょっと待ってっ! あなた何者なの?」
皐月が声をかけた時、少女は小さく笑みを浮かべた。
――本当に変わらないね、皐月ちゃんは。でもそれが自分はもちろん、周りも苦しめてるって自覚してる?
強い風が皐月と大宮、東条の周りに吹き荒れると、少女はもう三人の前から姿を消していた。