陸
東条が警察病院に来る三時間ほど前のことである。
「車田さんですか? うちで働いていたそうですが、看護師の名前全部を覚えているわけではありませんし、彼女が来たのは四月くらいですからね」
鴨瀬病棟の医院長室で、東条は鴨瀬忠市に車田貴理子のことをたずねていた。
「それに、私も結構忙しい身でして」
「従業員と言ってはなんですが、把握はできていたのでは?」
「刑事さんたちに話したと思いますが、知らない相手からメールが来て、私も寝耳に水なんですよ」
鴨瀬はあからさまに嫌な表情を浮かべる。現に自分が犯人ではないかと疑われているからだ。
「ところで火事があった時はどちらに?」
「学会に出ていましたよ。なんならアリバイ証言をさせましょうか?」
そう言うと、鴨瀬は机の上に置かれている電話機の受話器を取る。
「いえ、そちらの方はこちらが調べておきました。先生が学会に出ていらっしゃったというのは、他の方々が目撃していらっしゃるようですし」
東条は鴨瀬にそう言うと、
「ところで、警察病院にお父さんが入院されていたとか?」
「えっ? ええ、父はアルツハイマー病でしてね。息子の名前すら覚えていませんでしたよ」
鴨瀬は、寂しそうな表情を見せた。
――たしかアルツハイマーにも種類があったわね。
「先生、お父さんは先生の名前を覚えていなかったんでしょうか?」
「ええ。進行が進んでいましてね。自分の名前以外忘れていましたよ」
――くそっ! こんなことになるなら早めに聞いておくべきだった。
鴨瀬の心の声を聞いた東条は、
「お父さんからなにか聞いてはいませんか? それこそあなたが得するようなことを」
とたずねた。
当然鴨瀬は驚いた表情を浮かべる。
「なにを言っているんですか? 父が亡くなったんだ。得するなんてことはない」
狼狽するように鴨瀬は東条たちに言い放った。
「そうですか。では車田さんとは一度も会話はなかったと?」
鴨瀬はうなずいてみせた。
「先生、そろそろ……」
鴨瀬の隣にいた看護師の井口が、鴨瀬に耳打ちをする。
「わかった。すみませんね協力できないで」
「いえいえ……。こちらこそムダな時間を食わせてしまって」
東条たちは、鴨瀬にちいさく頭を下げると、そのまま委員長室を後にした。
東条たちは、偽造火事があった病室へと足を運ぶ。
「煙が出ていたのは、ロッカーのあたりだったわね」
東条は、稲妻神社に立ち寄ったさい、阿弥陀から聞いたことを思い出す。
――まさか煙仕様の害虫駆除を使うとは思えないし、なにより臭いが……。
東条は不意に天井を見やる。
「榮川くん、たしか煙で害虫駆除をする時って、火災警報器にビニールを被せてから炊くのよね?」
「ええ、それがされていなかったから火災通報がされていたわけですし」
その言葉に、東条は天井に備えられている火災警報器の周りを見やる。
――さすがにちいさくて見えないか。
「榮川くん、はしごかなにか持ってこれない?」
「どうしたんですか?」
「まぁ一応確認だけね」
榮川は云われた通り、近くの倉庫から高さ一メートルほどのちいさなはしごを持ってくる。
東条はそれに乗り上がると、天井にある警報機に目をやった。
――煙探知式みたいね。まぁそれで火災通報が起きたんだろうけど。
「このヒモってなんだったっけ?」
「えっとたしかそれを引っ張ると警報機としての機能が停止するみたいです」
――停止する?
東条は訝しげな表情を浮かべると、ヒモに手をやった。
「榮川くん、これ取り外して調べることって出来ないかしら? あと久里川って消防団員がいたでしょ? その人も呼び出せない?」
「どうしたんですか?」
「警報って、ヒモを引っ張らないと止まらないのよね?」
「まぁそうですけど」
「久里川さんに警報がなっていたかどうかを確認するのよ」
そう言われ、榮川は携帯で福嗣消防署へと連絡を入れた。
それから三十分後。東条たちは福嗣消防署へと足を運んでいた。
そして敷地内にある消防団員の練習場に目をやるや、
「……あれ?」
と、東条は呆気にとられた表情を浮かべた。
そこには拓蔵が、壁にもたれて団員の練習を見ていたのである。
「な、なんで拓蔵さんがここに?」
「いや、ちょっとな瑠璃さんの迎えじゃ」
「――迎え?」
東条が首をかしげるや、
「チェストオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
と建物の中からけたたましい雄叫びが聞こえ、東条と榮川は驚くやいなや、背筋を伸ばした。
「おうおう、やられておるなぁ可哀想に」
拓蔵はケラケラと笑う。
「瑠璃さん、消防署でなにをやってるんですか?」
「合気道じゃよ? 団員の体力つくりにな」
「ってか、教える立場なんですか?」
あのちいさな体躯でそれは可能なのだろうかと、東条は思った。
「柔よく剛を制すと言うてな。瑠璃さんが刑事のころはかなり強かったからな」
「東条さん、久里川さんに会うんじゃないんですか?」
榮川にそう言われ、東条はハッとする。
「そうね。拓蔵さん、わたしたちはこれで失礼します」
東条が頭を下げると、
「知っとるか? 一般家庭では警報機が鳴っていたとしても、実際は消防署に通報されんのじゃよ。それから警報機は病棟が建ってからほとんど変えられておらん」
拓蔵の言葉に、東条は目を大きく開く。
「それって、どういう?」
「それを調べるのが、おまいさんたちじゃろ?」
拓蔵はそう言うと、その場を後にしようとする。
「拓蔵さん、瑠璃さんを迎えに来ていたんじゃ?」
「ちょっと近くのコンビニで時間を潰すよ」
そう言うと、拓蔵は東条たちに手を振りながら、消防署の門を潜っていった。
――普通の家は警報機が鳴っても通報はされない。
東条は拓造の言葉を心の中で繰り返す。
――もしかして、病棟の警報機も同じだって意味?
それは考えられなかった。いくらなんでもそれはないだろうと。
少なくとも命を預かっている施設だ。直接消防署、もしくは管理施設に通報が入るはずである。
「東条さん、久里川さんが来ました」
榮川の言葉に、東条はやってきた久里川に目をやった。
「お忙しい中すみません」
「どうかしたんですか?」
久里川は状況がつかめず、首をかしげる。
「実はすこしお聞きしたいことというか、確認したいことがありまして、久里川さんが遺体があった病室に入る前、その病室にあった警報機は鳴っていましたか?」
そう聞かれ、久里川は思い出すような素振りを見せると、
「いえ、鳴っていませんでした」
と答えた。
「榮川くん、あの部屋にあった警報機って、紐を引っ張るか、スイッチみたいなものを押さない限りは鳴り続けるのかしら」
「……だと思いますよ。ちょっと待ってください? つまり近くに人がいたということですか?」
驚いた表情を浮かべる榮川の問いかけに、東条は小さく首を横に振る。
「それは考えられないですよ。あの病室があったフロアで救出に入った消防団員も、不審な人物を見ていないって」
久里川も驚いた表情でそう言った。
――つまり警報が鳴っていたのではなく、そもそも警報が鳴っていなかったと考えると……。
「通報をしたのは?」
「たしか鴨瀬病棟に勤めている看護師の井口です」
――あの看護師が?
東条は小さく頭を抱える。
「それから五分ほど経って消防と救急隊が現場に到着。警視庁の阿弥陀警部たちは偶然その場に居合わせた」
「それに関してはもう聞いてるわ」
東条は久里川を見る。
「ところでまったく関係のないことなのですけど、久里川さんが最初に部屋に入ったんですよね?」
その問いかけに、久里川はうなずく。
「それがどうかしたんですか? もしかして僕が警報機の紐を引っ張って止めたと疑っているんじゃ?」
「いえ、そんなつもりではないんですけどね」
東条は片目を瞑り、久里川の心を聞く。
――部屋に入った時、肉が焦げる臭いがしたんだ。まさかそれが人間の遺体だったなんて……。でもどうして遺体をロッカーなんかに入れたんだろ?
久里川の心の声に、東条は、
――たしかに今回の事件で一番の謎がそれなのよね。遺体をそんなところに入れておくこと自体がまず考えられない。
そう考えた。遺体を遺棄することが目的ならば、まずしようとしない。
いくら空き病室だったとはいえ、永遠に空きというわけではないのだ。
「おい久里川、そこでなにをしているっ!」
救急隊長の一瀬の怒鳴り声が聞こえ、東条たちはそちらを見やる。
「すみません。あの人怒らせると怖いので」
そう言うと、久里川は東条たちに頭を下げ、一瀬のところへと足早に駆けていった。
それを榮川は目で追っていく。
「しかしあまりいい情報は得られませんでしたね。結局こちらが調べていること以上のことは聞けませんでしたし」
「ええ、そうね」
東条はそう発したが、
――なにか見落としてる? なにか……、なにか大切なことを……。
と思考していた。
「あの小娘が消防署に来ていたんですか?」
消防署の入り口で、瑠璃は不貞腐れた顔で缶ジュースを飲み干す。
「あちらさんは仕事じゃから仕方ないじゃろ? ほれ、ツマミにとサラミを買ってきたから機嫌を直せ」
拓蔵はあきれた表情で、コンビニで買ってきたサラミの袋を開け、瑠璃の口へと運んだ。
「これで飲んでるのがお酒だったら、絵的には合ってるんでしょうけどね」
そう言いながら、瑠璃はモグモグと口を動かす。
「そういえば瑠璃さんや」
「ふぁい? なんふぇす?」
「知り合いの猟師から、いい猪肉が手に入ったらしくてな、それで作ったハムをすこしばかりもらえると連絡があった」
瑠璃は、言葉を発しようと、口の中のサラミを飲み込む。
「猪のハムですか。まぁ同じブタですから難しくはないでしょうね。でもこの時期に猪とは」
「その人が言うにはな、猟が禁止される四月ころくらいに捕まえたはいいが、料理するにもデカくててこずっていたようだ。でようやく解体して、いい桜のチップが手に入ったとかでな」
「なるほど……。猪肉自体珍しいですし、貰えたらボタン鍋でもしますかね?」
「いや、もらえるのはハムなんじゃけどな。まぁ相談はしておくよ」
拓蔵にそう言われ、瑠璃は小さく苦笑いを浮かべた。
「しかし燻製ハムか」
拓造の妙に落ち着いた表情を見るや、瑠璃は首をかしげる。
「どうかしたんですか?」
「いや、いくらなんでも考え過ぎかのぉ」
と、それ以上言わなかった。




