陸
「黒川さんですね。お待ちしておりました」
葵から紹介された美容院に入り、受付をしようとした時、店員の女性にそう言われ、皐月はギョッとした。
「あ、今日は私じゃなくて、こちらの方を」
そう言って、皐月は矢畑を紹介する。
「よ、よろしくお願いします」
オドオドとした表情で矢畑は頭を下げる。
店員は、予想以上に大きい矢畑の体躯に、思わず喉を鳴らした。
「それじゃぁ、ちょっとこちらへ」
店員の案内で、皐月たちは、店の奥にある個室へと案内された。
五畳ほどの小さな部屋で、真っ白な壁が一面を覆っており、漆のような艶のある黒い箪笥が部屋の隅にポツンと置かれている。
その箪笥の中には、何種類もの化粧品が飾られており、ひとつだけある小さなテーブルの上には、化粧ケースが置かれていた。
「矢畑さんでしたね。こちらにお座りください」
すでに部屋にいたもう一人の店員が、矢畑にそううながす。
「よ、よろしくお願いします」
矢畑は、ゆっくりと椅子に腰を掛けた。
「――暇だね」
部屋の隅で、矢畑がメイクアップされていくのを見ながら、信乃が言った。
「皐月ってさ、化粧しないよねホント」
「それを言うなら、信乃もしないでしょ?」
「わたしは――ほら、これがあるから」
と言って、信乃は自分の鼻に指を当てた。
鳴狗家の先天性で、普通の人よりも鼻が利く。
その嗅覚は、犬にも匹敵するほどである。
「化粧品の匂いとか小さい時から苦手でね。そりゃぁ無臭なやつもあるかもしれないけど、香水とかダメ」
「石鹸は?」
「あれはまだ大丈夫。植物系樹脂とか嫌いじゃないから」
「ノンノはどうなの?」
「クアニもあまりしないかな」
希望はちいさく首をかしげた。
「はい。もういいわよ」
矢畑に声をかける店員の声が聞こえ、皐月たちはそちらを見やった。
「へ、変じゃないでしょうか?」
不安そうな声で矢畑はたずねる。
「あなた、結構いい肌してたし、化粧ノリが良かったからやりやすかったわ。それからスポーツをやっているようだけど、エイジングケアをしっかりしていたってのもあるわね」
店員が、矢畑を皐月の方へと向けた。
「うわっ……」
皐月たちは呆気にとられたような声をあげる。
矢畑の血色の良い肌にスッと通った鼻筋、チークと唇はフワッとした薄い桃色である。
その唇が艶のように潤っており、皐月たちは一瞬見惚れてしまった。
「へ、変じゃないかな?」
「変じゃないですよ。あ、でもそうやってオドオドとした表情だと、せっかくいいメイクも台無しじゃないですかね?」
信乃の言う通り、癖ということもあってか、矢畑は眉を潜めてしまう。
「ほら、明るい表情しないと」
信乃は矢畑の肩を叩く。
「こ、こう――?」
矢畑はぎこちない笑みを浮かべる。
「えっと、好きな人を思い浮かべるとか」
皐月がふとそう言うと、
「す、好きな人?」
カッと、矢畑は顔を紅潮させる。
――あれ? この反応って……。
まるで皐月が大宮を思い浮かべた時と似た反応じゃないかと、信乃は思った。
「好きな人か……」
矢畑はふと亥川を思い浮かべた。
その時、ちいさく目を細め、柔らかな笑みを浮かべる。
「ほら、そういう感じですよ。それじゃぁメモをっと」
皐月は、店員の方に視線を向けた。
「はい、コレがあなたたちのサイフでも大丈夫なようにしてるし、社長の紹介だから少し安くしてあげるわ」
店員が化粧品とメイク方法が書かれたメモを皐月に渡す。
「あ、これくらいだったら私が払います」
矢畑はそう言うと、ポーチからサイフを取り出す。
「大丈夫なんですか?」
「ええ、授業料と思えば安いものよ」
矢畑が一万円札を渡そうとした時、
「あ、今日使ったやつはサンプル品だからお代はいいわ。でも普通にうちの店で買ったらそれくらいはするってこと」
と、矢畑は店員に耳打ちされた。
「そうだったんですか?」
「その様子だと、やっぱり化粧品とか普段買わないみたいね。あなた、ほとんどスッピンだったもの」
矢畑はそう言われ、
「わたしみたいなデカ女は化粧をしたってモテるわけじゃないですから」
と自虐する。
「そうかしら? こうやってメイクの仕事をしてるとね、その人の日々の努力がなんとなく分かるのよ。化粧ノリがいいってことは、それだけ肌を大切にしてるってこと。スポーツをしてると汗とかで肌が乾燥しやすいの。まぁ、普段からしっかりしてるからそれを忘れないでおけばいいわ」
そう言われ、矢畑はちいさくうなずいた。
「よし。それじゃぁ今度は服を……」
信乃がそう言った時、
「あ、それも葵さんに相談して、見繕ってもらったから」
と、皐月が釘を刺す。
「えっ? ここに来るまで色々考えてたのに?」
「変な格好だと可笑しいでしょ?」
ムッとした表情で、皐月は信乃を睨む。
「まだなにも言ってない」
「それじゃぁいったいどんなやつ考えてたの?」
「黒のスーツでビシっと決めたような」
「……却下」
「って、最後まで聞きなさいって」
「ノンノは?」
信乃の文句に耳を傾けず、皐月は希望にたずねる。
「クアニ? クアニはそうだな。先輩ってスラっとしてるから、足を出すミニとかかなぁ」
「そ、そんなの恥ずかしくて履けないよ」
話を聞いていた矢畑が、そう口を挟む。
「いや、でもありかもしれませんよ。スラっとした足とか憧れますし」
「それに胸もありますから、胸元にVラインの入ったドレスとか」
「二人とも、あくまでデートだからね?」
皐月は、葵に服のことも相談しておいてよかったなと、心から思った。
「元浦さん?」
矢畑の洋服を買いに行く途中、皐月たちはその店の近くにある喫茶店でお茶をしていた。
「はい。彼女が殺された日の放課後、誰かに会っていたかもしれないんです」
皐月がそうたずねると、
「それ、私なんだ」
と、矢畑は答えた。
「矢畑先輩が? でもどうして?」
「彼女からラブレターをもらってね」
それを聞くや、
「希望が見たっていうカップルといい、矢畑先輩の話といい、福嗣高にキマシタワーを建てようっ!」
信乃はグッと拳を握った。その目は興奮でギラついている。
「なにわけわからないこと言ってんの?」
信乃のうわ言に、皐月はサラッとツッコミを入れる。
「それでどうだったんですか?」
「断ったわ。彼女のほうが私よりモテるだろうって思ったから」
「え~っ、勿体なくないですか? せっかくラブレターもらったのに」
「信乃、先輩にだって選ぶ権利があるんだから。それじゃぁ元浦さんを見たのはそれが最後だったんですね」
そうたずねた時、矢畑の表情が一瞬だけ暗くなる。
「え、ええ……。それから部活に行ったわ」
「そうですか」
妙な違和感があったが、皐月はそれ以上は聞かなかった。
「どう思う?」
矢畑がトイレに行っている間、皐月は信乃たちにそう問いかけた。
「やっぱりあの反応って、その後にも会ってるってことだよね?」
「それはまだなんとも言えないけど、それなら、あの手形は先輩の身長なら合うんじゃないかな?」
「でも、ノンノが見たっていう高身長の先輩も気になるな。矢畑先輩と同じくらいだったんでしょ?」
「うん。名前を聞かなかったらその人が矢畑先輩だって思ったよ」
皐月は、ポケットに忍ばせている携帯に手を掛ける。
「どうする? 大宮さんに連絡する?」
信乃にそう言われ、
「まだちゃんとした証拠があるわけじゃないし、それに、本当に矢畑先輩が元浦さんを殺したのだとしたら、彼女が着ていたシャツの説明もできない」
皐月は、昨晩稲妻神社で大宮たちと話した時の事を説明した。
「もしそれが本当だとしたら、衝動的殺人じゃないかもしれないってことよね?」
「あれだけ大きな手形だから、軽く見たってシャツのサイズはXLだろうしね。元浦さんの身長を考えるとプカプカでしょ?」
信乃の言葉に、皐月はうなずく。
「先輩の胸ってどれくらいなんだろうね?」
希望がそう言うや、
「風花さん、それってどういうこと?」
と信乃が首をかしげるように聞き返す。
「先輩の服って制限される気がするんだよね。たしかに高身長の人用に服があるんだろうけど」
「だから同じ服でもサイズ別にあるんでしょ?」
「もしかして先輩、サイズのサバを読んでる?」
「普段胸を強調してるわけじゃないみたいだし、今日着てきた服だって、男性用のゆったりとした服だった」
「たしかにね。練習試合の時、先輩の胸びっくりするくらい弾んでたしなぁ。皐月は胸いくつだっけ?」
ゾッと悪寒を感じた皐月は、自分の胸元を隠し、
「……覚えてない」
と、ジト目で信乃を見る。
「ほんとに? わたしが見たところじゃぁ、Dなんて余裕で超してるでしょ」
信乃は両手をワキワキと動かしながら、皐月に詰め寄る。
「その手をやめなさいっての」
と、皐月は伝票が挟まれるボードを、信乃の頭に当てた。
「だいたい、そんなの聞いてなんになるのよ? そもそも身体測定以外で測ったことなんてほとんどないんだから。ちょっと胸がきついなって思うことはあるけど」
「いやいや、女子たるもの毎日体重計くらい乗るでしょ? それにあんたんちの脱衣所に体重計あったわよ?」
「あれはほとんどお母さんしか乗らないから。でも最近は葉月も乗ってるかなぁ」
「ほら、葉月ちゃんだって、体型が気になるお年ごろなのよ。ってかあんたは無頓着過ぎるのよ。いくら食べても太らない妖怪ブラックホールっ!」
「ブラックホールは妖怪じゃありません。それにちゃんと運動もしてるし、寝る時間や食べ方を考えてるから太らないんです」
皐月と信乃の喧嘩を見ながら、
「コロロロロ」
と、テーブルの上で座っているコロロが苦笑いを浮かべた。
「仲いいよね。コロロ」
希望は、喧嘩をしながらも、どことなく楽しそうな笑みを浮かべている皐月と信乃を見ながら、ケーキを一口、コロロに食べさせた。




