肆・氏神
阿弥陀と大宮の二人が、稲妻神社に訪れたのは、水氏沼で遺体が発見されてから、一週間経ってのことであった。
二人は、神主である黒川拓蔵と、その妻である瑠璃に、事件の詳細を説明する。
「つまり、薬師如来の見解によると、発見された白骨は女性のものだったと」
「それともうひとつ、あそこにはボートはありませんから。場所的にも落ちるということはないと思いますよ。落ちた時に気が動転して、もがいているあいだに身体が岸からどんどん離れていった……。とまぁ、こんな考えですが」
「問題は足を滑らせたか、もしくは誰かに突き落とされたか」
拓蔵がそう言うと、瑠璃は少しばかり顔を俯かせた。
「瑠璃さん、どうかしたんですか?」
大宮が首をかしげる。「いえ……。ほかに白骨は見つかったんですか?」
瑠璃はあえて大宮にではなく、阿弥陀にたずねた。
「いや、偶然にも成人女性のだけでしたよ」
「えっと……、なんか聞きようによっては、まだ白骨があるって感じがするんですけど」
大宮が冷や汗をかく。
「そりゃぁ、まぁなぁ……。わしも噂くらいでしか知らんし。そもそも、あれは伝説じゃろ?」
拓蔵は、カップ酒を一口飲みながら、阿弥陀にたずねた。
「ええ、あくまで伝説です。でもだからこそ、危険なのであそこは立ち入り禁止になっていたんですよ。子安神社の神主さんも、あそこ周辺だけは手をつけてませんからね」
「背丈ほどの雑草だからこそ、視界が悪くなる。よほど慣れた人でないと、あそこには行けんのじゃよ」
拓蔵がそう言うと、大宮は阿弥陀を見やった。そもそも現場に来れたのだって、阿弥陀や鑑識課の湖西主任がいたからだ。
おそらく、自分たちだけで行っていたら迷っていただろう。
鑑識課の菅田月も、帰りは大丈夫だと言っていた。
「それで、伝説っていうのは?」
大宮が、何気なくたずねた。特に今回の事件について関係があるとは思えなかったのである。
「忠治くんは、産女がどうして生まれるのかは知っていますか?」
「たしか、妊娠していた女性が事故かなにかで亡くなり、胎内の子供を抱けなかった悲しみから生まれた妖怪……でしたっけ?」
「ええ。その産女を生まないために、昔は胎内の子供を出し、母親と一緒に埋めることで供養していたんです」
瑠璃は、さみしそうな表情を浮かべた。
「じゃがな、あの水氏沼はちょっと違うんじゃよ。あくまで伝説なんじゃがな。病気で生まれなかった子供を、母親の胎内から取り出し、沼にうずめて供養をしていた」
拓蔵がそう言うと、大宮は大きく喉を鳴らした。
「蓮は『泥中の蓮華』と云われているんです。あの沼は、私たちの世界。そこで綺麗な花を咲かせる蓮は『さとり』と云われている。だからあの沼の水面に咲いている数多の蓮は、子供の数に比例するそうなんですよ。蓮が実を開く時、それはその子供が成仏することを意味しているそうです。まぁ、あくまで伝説での話ですけどね」
「だからあんなに綺麗だったのか」
大宮は、納得するかのようにうなった。
「それとな、水氏沼という名前も、言い換えれば『水子沼』とも言われているんじゃよ。氏は『し』とも読めるしな」
四人が話をしている中、二階から階段を下りてくる音が聞こえた。
「あら、阿弥陀刑事に大宮さん」
居間に入ってきた遼子が、二人に頭を下げた。それを習うように、阿弥陀と大宮も頭を下げる。
「なにか事件でもあったんですか?」
「ええ。だからここに来たんですけどね」
阿弥陀が苦笑いを浮かべる。「たまには関係ないときにでも来てくださいな」
遼子がそう言うと、拓蔵が割ってはいるかのように咳き込んだ。
「それで遼子さん、その手に持っているのは?」
大宮がそうたずねると、遼子は、手に持ったアルバムを皆に見せた。
「ちょっと整理をしてましてね」
「ただいまぁ」
玄関から声がきこえ、瑠璃が立ち上がり、玄関の方へと出向いていく。
そのすぐあとに、ドタドタと、慌ただしい音が居間まで聞こえてきた。
「こ、こんばんわっ! 阿弥陀警部に……、忠治さん」
大宮のところだけはにかむように、皐月は二人に挨拶をする。
「こんばんわ、皐月ちゃん」
「あら皐月、今日は部活じゃないの?」
遼子がそうたずねる。時間的には、まだ六時になっていない。
「一年はまだ基礎とかそんなんだから、なんかぬるくて。信乃なんて愚痴こぼしまくりだったよ」
皐月と信乃は結局、剣道部に入った。部活動における上下関係は厳しく、一年である二人は、基礎練習の他に、道具の手入れや掃除などを、一方的にさせられている。
「それでね、今度先輩たちと練習試合することになったんだ」
「へぇ、それじゃぁ頑張らないとね」
「大丈夫ですよ。負ける気なんてありませんから」
皐月が笑顔で答える中、拓蔵はムッとした表情を浮かべていた。
「調子に乗るのは勝手じゃがな、なにごとも油断してると痛い目をみるぞ」
「はい、気をつけます」
皐月は深々と、反省するように頭を下げた。
「それで遼子、そのアルバムはいつ頃のやつですか?」
瑠璃は、話題を、遼子が持ってきたアルバムに戻した。
「えっと、たしか十二年くらい前のやつだね。皐月、ほら覚えてる? 葉月がまだ生まれる二月くらいの時に、北海道へ旅行に行った時のこと」
そう聞かれ、皐月は小さくうなずいた。
彼女が四、五歳くらいの時だ。朧気にだが、行ったことは覚えていた。
遼子は、アルバムのページを捲っていくと、一枚の写真を取り出した。
「ほら、その時に地元の女の子と遊んだでしょ?」
そう言いながら、遼子は取り出した写真を皐月に渡す。
写真に写っている女の子は、たしかに私だ。もう一人の女の子は――誰だっけ?
皐月はそう考えながら、写真の少女を見た。
蓑笠を被った、皐月と同じくらいの、雪のように肌白い少女。
本来、人見知りの皐月であったか、歳が近かったこともあり、皐月が帰る日まで、よく一緒に女の子と遊んでいた。
そこまでは覚えている。しかし、女の子の名前が出てこない。
「ただいまぁ……」
今度は葉月の声が玄関から聞こえてきた。「帰ってきた」
「あれ? 二人とも来てたんだ」
皐月とは対照的に、葉月は少しムッとした表情で、阿弥陀と大宮を見た。
「葉月さん、遊びに行ってお疲れのところ悪いんですけど」
「――わかってます」
葉月はそう言うと、スッと卓袱台の前で正座をした。
阿弥陀は懐から写真を一枚取り出し、皆の前に差し出す。
「これが、発見された女性の白骨ですか?」
「ええ、でも鑑識課の菅田さんが何回も探しているんですけど、それ以外の白骨は見つかっていないんですよ」
「それじゃぁ、はじめるよ」
葉月は一、二度ほど深い呼吸を繰り返すと、目を瞑り、写真の上に手をかざした。
そして何度も、なにかを探すように手を動かしていく。
――水の音? なんだろ……、プールとかで聞くような。あ、靴の音。
葉月はその音を深く聞き取るように、意識を集中させていく。
――た……すけ……て……。くるしぃ。
聞こえてきたのは、子供の声だった。泣きじゃくる子供のようなそんな印象がある。
その一瞬あとのことだった。
まるで、憎悪に満ちた幾百もの子供の声が、葉月の耳元から脳へと、入り込むようにして流れ込んでくる。
葉月は、その声から逃げるように、体を震わせた。
「葉月っ!」
物々しい音を立てながら立ち上がった遼子が、葉月から写真を取り上げる。
葉月はハッと我に返り、居間を見回していく。
「なにか、聞こえたんですか?」
阿弥陀がそうたずねると、葉月は不意に、涙を流していた。
「なんだろ……、なんて言えばいいのかな。苦しそうだった。それに子供みたいな声が聞こえた」
それを聞いて、瑠璃は少し考えると、「もしかして、あの沼で供養された子供の声を聞いたってことですか?」
そうたずねると、葉月は、何もわからないといった表情で、瑠璃を見た。
「しかし、こっちは女性が何者なのかっていうのが気になるんですけどね」
阿弥陀は悔しそうに頭をかいた。葉月の霊視は体力を使うため、一日一回が限度なのである。
「でも、ひとつわかったことがあるよ。聞き取れなかったけど、靴の音が聞こえた。それに慌てた様子もない感じだった」
「それじゃぁ……、この女性は事故じゃなくて」
「殺された……と断言していいんじゃないですかね?」
阿弥陀がそう言うと、彼の携帯が鳴った。相手は湖西主任である。
「ああ、阿弥陀か。遺体の身元がわかったぞ。名前は落合美千流。殺された当時は二四歳だったそうだ。それとな、もうひとつ、警察庁にいる知人からの連絡なんじゃけども……。その夫である落合孝宏が先日殺されたそうじゃ」
――えっ?
阿弥陀は言葉を失う。
「どうかしたんですか?」
大宮がそうたずねると、「白骨の身元がわかったんですけど、その夫が……殺されたそうです」