弐
福嗣高校一年二組の教室内は異常なまでにどよめいていた。
それもそうであろう。一学期の期末テストが先日終わり、今日はそのテスト結果が発表される日である。
一年は、ただでさえ中学の頃とは違う勉強量でついてこれている人間と、ついてこれていない人間がひと目でわかる時だ。
皐月、信乃、希望の三人も、もちろん例外ではない。
「……っ」
皐月の視線の先には、裏返しになった細長い紙が置かれている。
「――南無三」
と、皐月は無駄に気合を入れて、紙を表にした。
そして、結果を見るや、机に顔を埋めた。
「皐月、どうだった?」
信乃が、弱々しく声をかける。
「――理科が全然ダメだった」
皐月は、テスト結果が書かれた紙をひらひらと見せる。
それを信乃は摘み取った。
【現代文八四。古文八九。理科四三。数学Ⅰ七四。
数学A六四。現代社会七四。保体九四。英語六七。
音楽八九。地歴五二。技術家庭七八】
と、皐月のテスト結果を見ていく。
「信乃はどうだった?」
「わたしは英語ダメだった。あ、でも地歴は九〇点台いったわよ」
「さすが歴史好き。ノンノは?」
皐月は、希望の方を見やる。
「コロロロ」
と、希望の肩に乗っていたコロロが、苦笑いを浮かべている。
その希望は、猫背になっていた。
「ダメだったのかな?」
「ほら、鳴狗さん、自分の席に戻って」
担任である笹賀が促すように手を叩く。
「また後でね」
そう言って、信乃は自分の席へと戻っていった。
「あ、赤点取った人は、今日から一週間、赤点を取った科目の補修があるからね」
笹賀がそう告げたが、生徒たちのほとんどは自分のテスト結果に対する喜怒哀楽に忙しく、まったく聞いていなかった。
休み時間。皐月の机には信乃と希望が集まっていた。
「えっと、信乃のテスト結果は――」
皐月と希望は、信乃からテスト結果の紙を見せてもらう。
【現代文八五。古文七九。理科五二。数学Ⅰ六三。
数学A五三。現代社会六四。保体九八。英語四六。
音楽六五。地歴九二。技術家庭六三】
となっている。
「風花さんは?」
そう言われ、希望も、自分のテスト結果を二人に見せた。
【現代文七四。古文六二。理科六五。数学Ⅰ六二。
数学A五四。現代社会二三。保体八五。英語三二。
音楽三二。地歴四四。技術家庭六三】
という結果。
「あ、社会と英語赤点だ」
「あうぅ―っ」
と、希望は頭を抱える。
「二人の音楽の結果可笑しいでしょ?」
希望は皐月と信乃を睨むように言った。
「わたしたちはまぁ、教えてくれる人が身近にいたってだけなんだけどね」
皐月がそう言うと、希望は首をかしげた。
皐月と信乃は、かつての親友であり、今は地獄で脱衣婆として働いている海雪に、色々と教えてもらったこともあって、ある程度は成績が良かっただけなのである。
「皐月は保体の成績良かったじゃない?」
「瑠璃さんが色々と教えてくれた。信乃だって成績いいじゃない」
「まぁ、元々は体育科で受験しようと思ってたからね。それに、赤点食らったら、放課後補修だったから、部活をやっている手前、逃れられてよかったわよ」
信乃はサラッと言ったが、
「え? 鳴狗さん、今なんて?」
希望は、唖然とした表情で聞き返す。
「いや、先生の話聞かなかった? 赤点取った生徒は、今日から一週間、放課後補修だって」
信乃がそう言うと、希望は更に頭を抱えた。
「えっと、なにかあったの?」
「――あまり遊ぶ時間がなくなったなぁって」
「でもノンノって、文化系の部活に入ってるでしょ?」
「――生物部に入ってるから、まぁ一週間くらい大丈夫だとは思うけど」
本当は、十二神将の一人である波夷羅から、学校が終わった後、希望がもつ、自然の摂理を自在に操る力の制御について、色々と指南を受けているのだが、そのことは二人には秘密であるようにと言われていたため、口にすることができなかった。
「それはまぁ、仕方ないと思ってあきらめて」
「ふたりとも赤点逃れられたからそう言えるんだぁ」
希望は、涙を浮かべながら、二人を睨んだ。
放課後、皐月と信乃は部活に、希望は赤点組が集まる空き教室へと向かった。
「失礼します」
教室の扉を開け、中を覗く。
教室には二〇人くらいの生徒が、各々好きな席に座っている。
「――あっ!」
見知った顔が見え、希望は声を上げた。
教室の隅に、茲場の姿があり、
「なんだよ? 風花も赤点か?」
と、声をかけられ、希望は答えるようにうなずく。
そして、茲場の隣の席に座った。
「社会と英語がダメでした。茲場くんは?」
「おれはまぁ全滅だ」
茲場に関して、あまり勉強ができるタイプじゃないなぁと、希望は前々から思っていたのだが、ここまでサラッと言えるのは、ある意味大物だとも思った。
補修が終わったのは、五時を回ろうとしていた頃だった。
校舎を出た希望は、軽く腕を伸ばす。
「これが一週間も続くって考えると、身体もつかな?」
希望は、苦笑いを浮かべながら、肩に乗っているコロロに視線を向けた。
「コロロロ」
コロロは、希望の頭を優しく叩く。
「うん。頑張らないとね」
「ノンノ、今帰り?」
皐月の声が聞こえ、希望はそちらを見た。
というよりも、希望のことを【ノンノ】と呼ぶのは、皐月しかいないのだが。
「皐月ちゃんたちも今帰り?」
「うん。ノンノって福嗣駅でしょ? ちょっと信乃が本屋に用があるからって、私も読みたい本があったし、ついでだけど」
「というわけだから、途中までいっしょに帰らない?」
そう言われ、希望はうなずいた。
校門を潜ると、目の前に見知った車が停まっていた。
「――皐月、あれって」
信乃は皐月に声をかけ、その車を指で示した。
その車には、男が寄りかかっている。
「あれって、いつぞやの刑事さんだ」
希望も、その男には見覚えがあった。
「――なんで、忠治さんが学校の前にいるんだろ?」
特に待ち合わせの約束ををしていたわけでもないのにと、皐月は首をかしげる。
「忠治さん?」
皐月は大宮の元へと駆け寄り、声をかけた。
大宮は車に寄りかかったまま、ピクリとも動かない。
「寝てるのかな?」
皐月は、大宮を起こそうと、身体に触れた時だった。
ズズズと、大宮は身体を崩していく。
「えっ? ちょっと、忠治さん?」
皐月は悲鳴をあげた。
大宮が気付いたのは、それから十分ほど経ってのことだった。
見覚えのある天井が視界に入る。
「気分は大丈夫ですか?」
横から皐月の声が聞こえ、大宮はそちらに目をやる。
皐月が、今にも泣きそうな表情で、大宮を覗きこんでいた。
「ここは?」
「学校の保健室です。校門の前で忠治さんが車に寄りかかってて」
「そうか……、知らないうちに寝ていたのか」
大宮は、すぐに状況を理解する。
「手間を取らせてしまったね」
「なにかあったんですか? 最近、忙しかったみたいですけど」
皐月はテスト勉強の期間中、あまり電話ができなかったので、気にはなっていた。
「ああ。ちょっと事件があってね。人間がしたという可能性もあったから、君たちのところには行けなかったんだ」
大宮は上半身を起こす。
「あ、まだ寝てたほうが。目の下にクマができてるってことは、あまり寝ていないんですよね?」
「ああ。ここ二、三日ほとんど寝てない」
皐月は大宮の肩に触れ、
「だったらもうすこし寝てください。それにそんな状態なのに車の運転をするなんて、自殺行為ですよ」
「でもね。こうしている間にも」
「今は身体を休めてください。阿弥陀警部や、他の刑事にも迷惑をかけますよ」
皐月の怒った表情を見て、大宮は観念した。
「わかった。それじゃ、ちょっと休ませてもらうよ。三〇分くらいしたら起こしてくれるかい?」
そう言うと、大宮は瞼を閉じた。
皐月は、大宮が眠ったのを見て、安堵の表情を浮かべた。
そして乱れた掛け布団をかけ直し、そっと、音を立てずに保健室を後にした。
「さぁ、つぅ、きぃ」
と、うしろから奇妙な声が聞こえ、皐月はそちらに目をやった。
「大宮さんとふたりきりで、何やってたのかな?」
信乃がからかうように言う。
「べ、別になにもないけど」
「ほんとに? せっかく二人っきりにしてあげたんだから、キスのひとつくらいはしたんでしょうに」
そう言われ、皐月の顔は紅潮しようとしたが、
「もしかして、忠治さんを保健室に運んだ後、二人が逃げるように保健室を後にしたのって、それが理由?」
と、意外にも冷静に反応した。
「あったりまえでしょ? ただでさえ付き合いが長いのにまったく進展しない二人を思ってだね」
信乃はそう言いながら、皐月を見た。「もしかして、やってないの?」
信じられないと言った表情で自分を見る信乃に、皐月はためいきを吐いた。
「こっちは忠治さんが気を失ってて、どうしようって心配してるのに、そんなことしてる余裕なんてなかったわよ」
皐月はそう言いながら、信乃を睨んだ。
「でも、どうして刑事さん学校の前に停まってたのかな? 皐月ちゃんに用事があったとか?」
希望は首をかしげる。
皐月もそう思ってはいたが、そのことに関して聞けなかった。
ただ、殺人事件があり、大宮はその捜査をしていて寝不足だったことを、皐月は二人に話した。
約束の三〇分が過ぎ、皐月は大宮を起こしに保健室に入った。
――信乃とノンノは、先に帰っちゃうし。
皐月は、小さくためいきを吐く。
――あんな事言われたら、意識しないほうが可笑しい……かな。
そう思いながら、カーテンを開け、眠っている大宮の顔を覗きこんだ。
――キスのひとつくらいかぁ。
皐月は横髪をかき上げ、ゆっくりと自分の唇を、大宮の頬に近づけた。
「んっ!」
気がついた大宮は、唸り声をあげた。
そして、すこし顔を動かしてしまったせいもあり、口を塞がれてしまった|。
「……んっ?」
突然の感触に、二人は、
――はて?
と、状況が理解できなかった。
そして、互いの唇が重なっていることに気づくと、
「うわぁっ!」
と、声を上げ、離れた。
「た、たたたた、忠治さん? 気がついてたんですか?」
「さ、皐月ちゃんこそ、突然どうしたんだい?」
二人とも、普段しないだけあって、言葉がしどろもどろである。
「えっと、約束の時間になったので、起こしに来たんですけど」
「そ、そうかい」
お互いに恥ずかしく、ようやく顔を見ることができたのは三分ほどたってのことであった。
大宮は迷惑をかけたと、皐月を稲妻神社へと送り届ける。
そして、神社でも瑠璃に寝不足のことで説教され、その日は(強制的に)一晩休ませられた。




