参・小癪
「で、あるからして、古文の動詞には『未然』『連用』『終止』『連体』『已然』『命令』があり、例文として、(花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは)という、徒然草の一文があります。この一文ではまず……」
教壇に立って授業を行っている、皐月と信乃の担任であり、古文担当の笹賀から見えないように注意を払いながら、皐月は左手に持ったシャーペンを、円を描くように動かしていた。
ああでもない、こうでもない。腕を動かさずに手首だけを動かすなどの動作をしながら、朝稽古で練習していた『一刀・室君』の動作を確認をしていく。
峰打ちみたいなものなのだが、どうも勝手が違う。逆刃で叩きつける峰打ちも、場合によっては結局骨を折ったりするため、外傷となってしまう。あくまで、五臓六腑を傷つけるのが内傷。
そもそも、相手の動きも考えなければいけない。
「黒川さん……」
笹賀が声をかける。皐月は、一拍置いて反応した。
耳が若干悪い皐月が気づけたのは、笹賀が近くに来ていたからだ。
「さきほどから、なにをやってるんですか?」
「あ、すみません」
皐月が頭を下げると、笹賀は少しばかりためいきをついて、「それじゃぁ、【くまなき】の動詞と、活用形を答えなさい」
「えっと、【くまなき】だから、動詞は連用で、カ行の四段活用です」
「ええ、正解です。しっかりと授業を受けてください」
「はい。わかりました」
皐月がそう言うと、笹賀は教壇に戻った。「それじゃぁ――」
授業は再開され、皐月は、気持ちを切り替えて、ノートを取りはじめた。
「あふわぁっ……」
そんな中、なんともだらしない欠伸をしているのは、窓際の席に座っている、茲場という男子生徒であった。
制服をだらしなく着ており、まったく授業を聞いていない。
「茲場くん、ちゃんとノートをとってください」
笹賀がそう言うと、「わぁったよ」
茲場はそう言いながら姿勢を正すと、シャーペンを手にとった。
見た目は不良っぽいが、茲場のピンとした姿勢は綺麗なものであった。
終鈴が鳴り、笹賀がしっかりと復習するようにと言って、教室をあとにした。
「やっぱ難しいな」
皐月は、背筋を伸ばしながらつぶやいた。
「そう? 古文の基本を習ってただけでしょ?」
皐月の机にやってきた信乃が、首をかしげる。
「そうじゃなくて、力加減が難しいなって。今日だって壊したらいけないのに壊しちゃったし」
皐月は、今朝のことを話した。
「寸止めの原理でやるとかは?」
「相手の動きも考えないといけないでしょ? むしろそういうことができる人って本当にすごいわ」
毘羯羅から、空手の掌低突きの要用だとも云われた。だからこそ難しいのだと実感する。
「おい……」
茲場が声をかけるが、皐月と信乃は気づかなかった。
「二人とも、ちょっといいか?」
もう一度声をかけると、皐月と信乃は茲場の方へと振り返った。
「――茲場くんだっけ? なんか用?」
「用ってわけじゃないんだけど、二人とも部活はどうするんだ?」
そう訊かれ、二人は首をかしげる。「なんであんたに言わないといけないの?」
信乃が、心外だといった感じに、怪訝な表情で聞き返した。
「入部願書の提出は明日までだろ?」
福嗣高校の校則として、普通科の生徒も、部活に入らなければいけないというのがある。
「そういう、茲場くんはどこに入るの?」
皐月がそうたずねると、茲場は「茶道部」
と、小さく吐き捨てるように言った。
「さ、茶道部?」
皐月が驚いた表情で言った。
「べ、別に仕方ないだろ? 俺の家、茶道教室やっててな。親が入部しろってうるさいんだよ」
――それで、あんな綺麗な姿勢だったんだ。
皐月はそう思いながら、茲場を一瞥した。
「それが、こんな不良みたいな」
「これは、ちょっとしたあれだ。高校デビューみたいなやつだ」
茲場は、二人から視線を逸らした。
「でも、さっきだって反発しないでちゃんと授業受けてたし、根はいい人なんだね」
皐月が笑いながらそう言う。
「でも、最近忙しかったから、剣道部見に行ってないのよね」
「あれ? 最近事件とかあったっけ?」
皐月が首をかしげる。
「いや、うちのチャロが病気になっちゃっててね。その看病をしてたのよ」
信乃は頭を抱えた。「だいたい、私は体育科推薦だったからそんなに勉強してなかったのよ。授業内容を聞いているだけでお腹いっぱい」
そもそも、剣道の腕を買われて、スポーツ推薦を受けていたのだが、あえて普通科を選んだ。なので、受験以外に勉強していなかったのである。
そうこう話しているうちに、予鈴が鳴り渡った。
水氏沼には、通報を受けた警官数名の姿があった。
「月さん、気をつけてくださいね」
阿弥陀が、ボートを漕ぎながら沼の中心にいる、鑑識課の菅田月に言い放った。
「だけど、まさかこんなところに綺麗な沼があったなんて知りませんでしたよ」
大宮が、周りを見渡しながら言った。
「まぁ、沼の見た目は綺麗なんですけどね。それで大宮くん、遺体の身元はわかったんですかな?」
「まだ検死の最中みたいですけど、湖西主任の話によると、死後七年以上は経っているんじゃないかって云ってました」
「沼に落ちて溺死した。事故の可能性も否定できませんけど、どうも引っかかりますね」
「どうしてですか? 発見された場所が沼ですし、釣りをしていた男性の話では、ルアーの針が頭蓋骨に引っかかり……。あれ?」
大宮は、自分の言葉に違和感を覚える。
「ここって、魚が多く生息してますから釣りに来る人は少なくないんですよ。だから、よほどのことがない限りは、すぐに見つかるはずなんですよね」
「遺体が浮くからですか?」
「ええ。だからなにかに引っかかっていない以上は、数日くらいで見つかるってのがほとんどなんですよ」
「つまり、被害者は沼に落ちたあと、水中にある草木に引っかかっていた」
阿弥陀は、その問いかけに答えるかのようにうなずいた。
「とにかく、今は被害者の身元確認が、私たちの仕事ですね」
阿弥陀はそう言いながら、「それじゃぁ、最近行方不明になった人。特に七年前を調べますかね」
「了解しました」
大宮ら、警官たちが一斉に敬礼をし、それぞれ行動を開始した。
「そういえば、菅田さんは大丈夫なんですか?」
大宮がボートの上で作業をしている月に声をかける。
「あ、だいじょうぶです」
月はそう言うと、作業を再開した。
「なんだって……」
会社の屋上で、大川が悲鳴にも似た声をあげた。
「そんなことがあってたまるかっ! あんなにお前を慕っていた美千流さんが、そんなことをしていたなんて」
「いや本当のことだ。……くそっ! あいつがほかに男を作っていたとはな」
そう言いながら、落合は顔をゆがめた。
「――証拠は?」
「あいつの交友関係を調べたんだよ。その中に清水直隆っていう奴の名前があった」
「聞いたことないな。まさか、その清水ってやつと会っていたってことか?」
「ああ。しかも行方不明になる前まで頻繁に会っていたらしい」
「だけど、名前を知っているだけで顔も素性も知らないんだろ?」
「いや、その清水直隆に会ったことはあるんだよ。じつは俺と美千流の保険担当員だったんだ。けっこういい青年だったからな」
落合は立ち上がると、視線を虚空に向けた。
「俺はこれからやつを問い詰めるつもりだ。今日の夕方に、家に来ることになっているからな」
落合はそう言うと、部所に戻った。
「やぁ、清水さん」
その日の晩。落合は、約束通り家に来た清水を、家にあげた。
「落合さん、今日は奥さんにかけられている保険金の話なんですが」
「はい。それでどうなんでしょうか」
「まだ不審な点もありますし、世も末ですからね」
落合が、寡婦(妻を亡くした夫の意)のフリをしていて、実際は保険金目的で妻を殺した。などということも、少ながらず否定はできない。
そもそも、行方不明者に保険は出ないのである。
なので、死亡が認められない以上、保険金はおりない。
清水がそう説明していく中、落合は、少し離れた台所でお茶の用意をしていた。
「いえ、結構ですよ」
「そう言わず、お疲れでしょう」
清水がことわりを入れている中、落合はティーカップに紅茶を注ぎ入れる。
「今日は、私からも聞きたいことがありましてね」
そう言いながら、落合は自分の分もと、テーブルに、二人分のカップを置いた。
「砂糖は入れますかな?」
「あ、はい。それじゃぁひとつほど」
落合は、角砂糖をひとつ、清水に渡した。
その時である。リビングに置いてある電話が鳴り響いた。
「こんな時に、いったい誰が……」
落合は、訝しげな表情を浮かべながら立ち上がり、電話を取りに行った。
清水はそれを横目で見ながら、手に取った角砂糖を、自分のカップにではなく、落合のカップに入れ、溶かすように、ティースプーンで混ぜた。まだ温かいため、溶けるのが早い。
「なんだ、君か。ああ、今清水が来ている。ちょうど……いや、別に構わないよ」
落合は一分ほど会話をすると、電話を切った。
「いやはやすみません。ちょっと同僚が、わたしにくれた砂糖はどうだったかと聞きましてな」
「そうなんですか。それではお話を続けましょう」
清水が書類を広げている中、落合は自分のカップを手に取り、口を近付けた。
そして、少し甘いな……と、違和感を覚えた時だった。
ガシャンッと、カップを落とし、痙攣を起こすと、テーブルへと倒れ込んだ。
「お、落合さん……、どうかしたんですか?」
清水は、何が起こったのか分からず、ただただ慌てふためくだけである。
落合の口からは、赤い血がよだれのように垂れ、絶命した。