弐・満天星
「んっ……」
程よい暖かさがある朝東風が、信乃の髪とスカートをなびかせる。
セットした髪や、スカートが乱れないように手で押さえながら、信乃は稲妻神社へと向かっていた。
手に持った薄茶色の革のカバンは、まだ使い込まれてもいない真新しい白のブレザーに、茶色のチェック柄のミニスカートと同様に、新品同然であった。
「春なんだなぁ……」
感慨深くつぶやいた信乃の耳に、ふと、鳥の鳴き声が聞こえた。
信乃が、誘われるように空を見上げると、番の雲雀が、高々と、囀りながら飛び交っていた。
――揚雲雀 帯のゆるめに 風入れる。
たしかそんな俳句か、万葉集だっけかがあったはずだ。
信乃は小学生の時、国語の授業で調べた俳句を思い出した。
ジッと雲雀を見やる。
都会とはいえ、福嗣町は田舎町のためか、あまりビルが密集して建っておらず、逆に田畑が多いため、雲雀が飛んでいるのは、珍しいことでもない。
春になると、まるで某弾幕STGのキャラのごとく、『春ですよー』と、言ってくるような感じである。
「よし。もう起きてるだろうし、急ぐか……」
信乃は気合を入れるかのように、足早に稲妻神社へと向かった。
稲妻神社の本殿の中で、五体の木偶人形が、皐月の周りを囲んでいた。
皐月は、左手に持った竹刀を構えながら、呼吸を整える。
人形が皐月を襲いかかる。それを、まるで絹のように、皐月は躱していく。
「一刀・室君」
一陣の冷たい風が吹くと同時に、五体の人形がバラバラに崩れる。
皐月はそれを見て、安堵とは対照的な、少しばかり不満そうな表情を浮かべた。
「また失敗かぁ……。意外と難しいな」
皐月は刀を持った左手首をしきりに動かす。まるでムチを打つかのような仕草である。
「室君は切るんじゃなくて叩く技だからね。空手で言う掌低突きみたいなもので、外傷ではなく内傷を負わせる技。切れたら意味ないでしょ?」
毘羯羅が笑いながら言ったが、皐月は視線を向けるだけで、言い返そうとはしなかった。
理屈はわかっているし、やり方もなんとなくわかっている。
だけど、力加減が難しいのだ。ちょっとでも力を入れてしまうと切ってしまうし、弱めると弾かれてしまう。
自分の振るう力と、刀自身の重み。それを重ねて、絶妙な力加減も重要になってくる。
それをさらには、まだ力の制御が出来ていない、三面六臂大黒天の時でも使えるようにならなければいけないのだから、皐月にとってはたまったものじゃない。
「焦れば焦るほど冷静じゃなくなくなる。栢でも使いこなせなかったくらいだしね」
毘羯羅は指を鳴らした。
先ほどバラバラになった木偶人形が、うごめくように立ち上がり、元の姿に戻っていく。
「――皐月」
入り口から、皐月の母親である遼子の声が聞こえ、皐月と毘羯羅はそちらを見やった。
「なに、お母さん」
「そろそろご飯食べないと、信乃さんが迎えに来るんじゃない?」
そう言われ、皐月は腕時計を見やった。――針は、七時を指している。
「本当だ。毘羯羅――」
皐月はゆっくりと呼吸を整えながら、人形を見やった。
「お母さん、ちょっと離れてたほうがいいよ」
そう言われ、遼子は後ろに下がった。
「はぁあああああああああ……」
地の底から聞こえてくるうめき声が、皐月の口から発せられていた。
五体の人形が、軋む音を鳴らしながら、皐月に襲い掛かる。
「一刀・釆女っ!」
皐月の放った一刀の風は、まるで生きているかのような動きで、人形たちに襲い掛かった。
人形のひとつが逃げるように避けたが、風はそれを追いかけるように、人形を切り裂いていく。
「うん。采女は及第点かなぁ」
毘羯羅は、唇に人差し指を添える。その表情は小さく笑みを浮かべていた。
皐月は遼子を見た。母親が驚いた表情を浮かべなくなったのは、いつくらいだろうか。
最初の頃は、娘の不思議な力に驚きを隠せないでいたが、そもそも自分だって元閻魔王の娘である。
楽観的なのか、あまり深くは考えないようにしているようだ。
ちょうどその時、母屋のインターホンが鳴った。
「来たみたいね」
遼子はそう言いながら、玄関へと小走りに去っていった。
「おはようございます。おばさん」
玄関先で、信乃が遼子に頭を下げる。
「いつもありがとうね、信乃さん」
「いえ、結局通り道になってますし。……皐月は起きてますか?」
「ええ、さっきも本殿の方で朝稽古していたところよ。ただ、まだご飯食べてないから、ちょっと待っててくれないかしら」
「そうですか、それじゃぁ、ここで待ってます」
信乃はそれを聞きながら、携帯に目をやった。時間は朝の七時をちょっと過ぎている。
家がお寺ということもあってか、普段から家の事情で、日も昇らない時間から起きてしまうためか、ちょっと待つあいだ、上り框に座り、目をつむった。
「おはようございます。信乃さん」
ちょうど、洗面所で顔を洗って出てきた葉月が、欠伸混じりに、信乃に挨拶をする。
「おはよう葉月ちゃん。あとで浜路来るかもしれないから、よろしくね」
「あ、はい。昨日約束してましたし――。あ、皐月お姉ちゃん、おはよう」
葉月がそう言うと、信乃は葉月の視線の先を見やった。
「ああ信乃、ちょっと待っててね。すぐ支度するから」
「了解。二十分で支度しなさいよ」
そう言われ、皐月は了解と言いながら、階段を上っていった。
そして、信乃と同じ制服を着て、降りてきた。
「信乃、鳴狗寺からもらった梅で漬けた梅干料理があるんですけど、食べてみます?」
居間から覗き込むように、瑠璃が信乃にたずねた。
「あ、いただきます」
信乃がそう言うと、瑠璃は台所から調理したものを小皿に乗せ、信乃に渡した。
梅肉を細かく切り、半分に切ったゆで卵の黄身とマヨネーズを一緒に混ぜて、白身のくぼみに戻したものである。
「――うまいっ!」
信乃は、舌鼓を打った。
梅を漬けた時に使った赤シソも混ざっており、酸っぱくはあったが、マヨネーズがそれを中和している。
「あれ? 卵って生き物……」
信乃は瑠璃を見やった。
特に気にしているわけではないのだが、やはり卵を食べるときは気にしてしまう。
家では、住職である祖父の他に、修行僧などもいるため、精進料理を主に食べる。
そのためもあり、肉や卵、牛乳などといった、動物性の材料を使った料理は食べることができないのだが、それは修行僧だけの話なので、信乃が気にすることではないのだが。
「信乃、ごめん。待った?」
居間から出てきた皐月が、そうたずねる。
「大丈夫。美味しいもの食べれたから帳消し」
信乃は、瑠璃に頭を下げる。
「それじゃぁ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
瑠璃は、学校に出かける皐月と信乃に手を振って、見送った。
皐月と信乃が通っている福嗣高校は、町内の学校では、町一番の敷地を誇っている。
普通科と保険体育科に分かれており、信乃は、本来なら、剣道部での功績(主に、大会などの成績)で、体育科への推薦を受けていたのだが、皐月と一緒に通いたいという理由から、普通科に通っている。
皐月は、もっぱら家が近いという理由で受けたのだが、本当の理由は、バスや電車などの定期で、お小遣いが減ることを危惧に思ってのことだ。
もうひとつ、大宮という若刑事と会える機会が減るのが嫌だというの理由でもある。
「そういえばさ、昨日のドラマ見た?」
信乃にそう聞かれ、皐月は首をかしげる。「なんかやってたっけ?」
「ほら『くねくね通り』っていうやつ」
「ああ、女子大生がストーカー被害に遭ってて、それを捜査していた警察の人が犯人を見た翌日に自殺していたってやつか」
なんか、どこかで聞いたことあるような話だなぁと、皐月は思った。
「そ、しかもその犯人、なんていえばいいのかな、ほら金田一耕助のやつに出てくる、顔を隠した」
「犬神家のスケキヨ?」
「そう、それ。顔はわからないし、あれ絶対正体はくねくねだわ」
くねくねとは都市伝説のことで、それを認識したものは発狂すると云われている。
そもそも、ドラマのタイトルの時点でネタバレしてるんじゃないかと皐月は思ったが、あえて言わないことにした。
そんな他愛もない会話をしながら、二人は福嗣高校の校門をくぐり、普通科の、一年生の教室へと入っていった。
釣竿などの釣具を抱えた、四十代くらいの男が、悟帖ヶ山を少し登り、脇道に逸れた道なき道を歩いていくと、沼が見えてきた。
「さてと、今日はなにか釣れるかな」
本来ならば、立入禁止となっているのだが、沼とは言えども、水質が綺麗な水氏沼であるため、釣りを楽しむ人は少なくない。
環境も良く、ブラックバスや雷魚、ナマズなどが多く生息している。
さらには、周りの草花が整備された山道に引けを取らない。
ただし、背丈ほどの草が視界を遮るため、よほど慣れた人でないと道に迷ってしまう。そのため、立入禁止となっているのだ。
男が釣り糸を垂らし、疑似餌を、沼の中央あたりに投げ放った。
そしてゆっくりと、糸を巻いていく。
それを何度か繰り返していくと、急に、男の手に重みが走った。
「かかった!」
男はゆっくりと糸を巻いていく。糸はピンと張られ、今にも切れそうだ。
こいつは大物だと、今度は糸を緩める。それからゆっくりと、また糸を巻き始めた。
男は、はて? と、首をかしげた。
本来なら、緩めた時に魚は逃げるように動く。その時に糸はまたピンと引っ張られるように張られるはずだ。
それなのにその感触がなく、糸はだらりと緩んだように、水面に浮かんでいる。
「ああ、くそ。根掛かりか……」
男は悔しそうにつぶやいた。
沼は水面に浮かんでいる葉の他に、大木も生っている。
おそらく、水の中にある根っこに引っかかったのだろうと、男は思った。
竿をしきりに動かして、何かに引っかかった疑似餌を外そうとした時、ピンと糸が張った。
少し引っ張れば取れるかもしれない微妙な感触。「お、はずれるか?」
一気に糸を引くと、ルアーが水中から、なにかを引っ掛けたまま飛び出し、男の目の前に落ちた。
「――はっ?」
男は、目の前のそれがなんなのか、瞬時にはわからなかった。
釣り上げたものがわかった途端、男は悲鳴をあげる。
目の前に落ちたのは、人間の頭蓋骨であった。