壱・水煙
「いいからっ! 早く連れて来なさい」
甲高い女性の声が、警視庁刑事部内で響き渡る。
「あの、落ち着いてくれませんか?」
捜査一課佐々木班の吉塚愛が、ヒステリックな顔を浮かべている女性を宥めようと、一歩ずつ、ゆっくりと彼女に近づいていく。
「それ以上近付かないで!」
女性は、むき出しになったサバイバルナイフの切っ先を吉塚に向けた。いくら警視庁内とはいえ、まさかこのような状況になろうとは、誰ひとり夢にも思っていなかったのである。
そして何より、女性の精神状態が思わしくなく、下手をすると首を切って自害するかもしれないと、誰も手が出せないでいた。
そんな状況が、すでに二〇分ほど過ぎている。
「青松さん落ち着いて。ゆっくりでいいですから、どうしてこんなことをするのか話してくれませんか?」
阿弥陀が青松を落ち着かせようと話しかけた。
「だったら、だったら生活課は何をしているの?」
青松がそう訊ねる。「わたしは夫から暴力を受けているの。それをいつも訴えているのに」
「まぁ、警察は事件が起きなければ、まったく何もしませんからねぇ」
そう言いながら、瑠璃は横目で刑事部にいる警官たちを見やった。
「本当の事ですから、まったく言い返せないのが悔しいですな」
佐々木は溜め息を吐き、「んで、わたしたちにいったい何をしてほしいと?」
「だから、早く夫を逮捕してほしいのよ。この前なんて顔が腫れるくらい殴られたわ。腕だって骨折して」
そう言いながら、青松は左腕の袖を捲った。
左腕は青アザが出来ており、青松は体を震わせる。
「佐々木くん、DV被害というのは、現行犯ということになるのか?」
そう言いながら、湖西主任から呼び出されていた拓蔵は、佐々木に疑問を投げかける。
「いや、被害届を出した後、被害者は安全地域に逃げられることが可能となります。その後に我々警察が近辺捜査をするんですが」
「それなのに、どうして夫を逮捕しないのよ」
「つまり、その近辺捜査の時に何かあったということじゃろうな?」
拓蔵は青松の顔を見つめる。
「瑠璃さんや、どうも妙な気がしてならんのじゃがな」
「やはり拓蔵も気づきましたか。彼女、DVを受けているわりには、顔が奇麗ですよね? それこそ異常なくらいに」
瑠璃は小声で話しながら、青松の整った顔を訝しげに見た。
「ファンデーションで隠しとるとか?」
「それだったらまだわかりますけど、あの青アザも夫に付けられたのかどうかも少し怪しいですし――」
瑠璃はそう言いながら、「あの、被害届を出したのは、今回が初めてではないんですね?」
「はぁ? なに、この子? どうして子どもがこんなところにいるのよ?」
今まで気づかなかったのか? と瑠璃は言いたかったが、
「まぁ、いいわ。そうよ。無能な警察は、たった一人の人間の命すら救えなかったんだからね」
青松はそう言いながら、ナイフを瑠璃に向ける。
「あなたには人質になってもらうわ。ほらこっちに来なさい」
「やめないか! 君の要望はわかっている。生活安全部の誰を連れてくればいいんだ?」
岡崎はそれを言うと、内線で生活安全部へと連絡を入れる。
「その部にいる栗山っていう男よ。わたしはいつも訴えていたのよ。どうしてあんな夫を野ばらしにしているのかって」
それを聞いた瑠璃は深く溜め息を吐いた。
「だったら、どうして離婚とかしなかったんですか?」
「離婚なんてしたら、逆上されて殺されるに決まってるじゃない?」
「まぁ、そうなんでしょうけどね。DVというのは、昔から?」
「いいえ、ここ一、二年くらいよ。酒クセが悪くてね。まったくあんな人だったとは思ってもいなかったわ」
「思ってもいなかった? 失礼ですけど、結婚して何年で?」
「まだ三年よ。付き合って二ヶ月くらいだったかしら。彼から結婚して欲しいってお願いされたの」
「高々二ヶ月ですか」
瑠璃は、正直に言うと笑うつもりではなかった。
「夫婦というのは、私見で言わせてもらうと互いを認めるということなんですよ。そんな二ヶ月くらいで結婚を考えるとか、虫唾が走るんですよ」
瑠璃はあまり怒る性格ではない。余程のことがない以上は、まったくといっていいほど温厚である。
そんな彼女が露骨に嫌な顔をしているのは、青松の行動にあった。
「どうしてそんな男だってわかっていたら、すぐに離婚なり被害届なり出していたでしょう」
「でもね。彼は私にこういったのよ。悪かった、悪かったって……。そんな言葉に騙されてきたのね」
青松は嗚咽する。そしてゆっくりとその場に縮こまった。
「女を確保しろ」
刑事部の警官が、そう叫ぶ。
「いやまだ犯人はナイフを持っている。迂闊には近づけんぞ」
「青松さん。あなたの夫は彼ら警察が何とかしてくれるじゃろう。じゃからそのナイフを」
拓蔵が青松に近づこうとした時だった。
妙な違和感を覚えた瑠璃が咄嗟に拓蔵の名を叫んだ。
それは、まさに一瞬の出来事であった。
急に起き上がった青松が、両手で握ったナイフを、拓蔵の左胸に突き刺したのだ。
「――なっ?」
さすがに突然のことで対処できなかった拓蔵は、その場で跪き、倒れてしまう。
「拓蔵? 拓蔵っ!」
瑠璃は拓蔵の身体に触れ、声をかける。彼女の手は拓蔵の血で真っ赤に染まっていく。
「ほらぁ、こうなるのよ。被害届を疎かにしているからこんなことになるのよぉ」
青松は笑いながら、拓蔵を見下ろした。
そんな青松を、瑠璃は恨めしく睨みつける。
しかし、襲い殺そうとまでには至らなかった。
拓蔵を殺そうとして、左胸を刺したというのならば、お門違いだったからだ。
「アハハハッ! アハハハハハハハッ!」
青松は甲高い笑い声を上げる。
「取り押さえろ」
さすがに人的被害が出てしまった以上、周りの警官たちが一斉に、青松に飛びかかった。
青松の手首に手錠がかけられる。
「青松晶子。あなたを殺人未遂の容疑で……」
阿弥陀が声をかけた時だった。
「無駄じゃよ。彼女……生きてはおらんよ」
拓蔵が虚ろな声で言った。
「生きていないって……」
瑠璃がゆっくりと身体を俯せている青松を見やった。
「血が……っ!」
青松の腹部から、大量の血が流れている。
「わしを襲おうとした時にはすでに虫の息じゃったよ。まぁ簡単に避けることも出来たんじゃがな」
「それじゃぁどうしてそうしなかったんですか?」
瑠璃が悲鳴に近い大声で拓蔵を糾弾する。その目には大粒の泪がこぼれていた。
「それは……、ほら、わしって左胸を刺されようが、銃で撃たれようが死なん体質じゃからな」
拓蔵は左胸を指さし、笑いながら言った。
「そりゃぁ、あなたは右胸心ですから、少々は大丈夫でしょうけど。間違って出血多量になっていたらどうするつもりだったんですか? 心臓が左にあろうがなかろうが関係ないでしょ?」
瑠璃は捲し立てるように、それこそ子どものように泣き喚いた。
拓蔵は申し訳ないといった表情で、瑠璃の頭を優しく撫でた。
「センパイ、先ほど青松さんは虫の息だったと」
「おそらく身体を縮こませた時に自分で腹を切ったんじゃろうな」
拓蔵は青松を見やった。「しかし解せぬな……」
「たしかに、被害届を受理されていなかったことに対する恨みだとしたら、被害者本人が自殺するなんて、あまり考えられませんね」
佐々木と拓蔵が話している中、瑠璃はムッとした表情で頬をふくらませていた。
「どうかしたのか? 瑠璃さん」
「どうかしたのか? じゃないですよ! 拓蔵っ! 病院に行きますよ。ほらっ! 救急車っ!」
特に誰かに言ったわけではないが、瑠璃の鬼気迫る声に驚いた警官の一人が、救急車を手配した。
通報を受け、刑事部にやってきた救急隊員によって、拓蔵は警察病院へと運ばれていく。瑠璃もそれについていくように、刑事部を後にした。
ついで、青松の死体は検死のため、警察病院の解剖室へと運ばれていった。
「しかし、奇妙な事件じゃったな」
緊迫した状況から開放され、ドッと疲れが出た佐々木や吉塚、その他警官たちが各々近くにあった椅子に座り込んだ。
そんな中、一人岡崎だけは生活安全部に電話をしているのだった。
「もういいですよ。被害者が死んでしまいましたからね」
「いえ、それが……。彼女の言う通り、生活安全部に栗山という警官はいたようなのですが、一週間前から行方がわからないと」




