参・不惜身命
奇っ怪な女性の変死体が発見されてから、翌日のことである。
福嗣町から少し離れた、町外れにある大きな病院のロビーには、診察に来た患者でいっぱいだった。
狭い廊下を歩いていた川井田は、ロビーを一瞥すると、中庭へと消えていく。
中庭は、入院している患者が、リハビリとして散歩をしていたり、日光浴をしているのがチラホラと見える。
川井田は、携帯の着信履歴を見た。
そして、ためいきを吐く。「くそっ!」
苛立った表情を浮かべながら、もう一度電話をかけてみた。
何回も呼び出し音が鳴る。五回目のところで、ようやく電話を取る音が聞こえた。
「おいっ、末森っ! お前彼女に何をしたんだ?」
川井田は辺りを気にせずに、電話先の男性に怒鳴った。
いや、怒鳴って済むのなら、彼はいくらでも怒鳴っていただろう。
「落ち着きたまえ川井田くん。いったい何のことだね?」
電話先の、末森という男性は、先程まで寝ていたのか、欠伸混じりの声でたずねる。
「君が担当していた萩原さんが昨日から行方不明だ。なにか聞いていないか?」
「いや、何も聞いていないな。それに、彼女は脱走癖があったじゃないか。一日二日いなくなるのなんて珍しいことじゃなかっただろ?」
「君はそれでも担当医か? 患者がいなくなれば問題視されるのは目に見えているだろ?」
「落ち着きたまえ、それに彼女はいつ死ぬかわからない重病だったんだ。好きに生かせるのだって、担当医の勤めだろ?」
川井田は、小さくうなる。「末森……、お前まさか、学生の時にやった実験をしてるんじゃないだろうな?」
そうたずねると、末森は時間から言って二秒ほど黙り込む。
「いや、何を言っているのかわからないな」
「あんなことが実際に出来てみろ? 人体の神秘に手を出すことになるぞ」
「あの時、わたしは成功したんだ。あの方法を使えば、余計な心配をしなくて済む」
末森はせせら笑うように言った。
「お前は何を考えているんだ? あんな実験は人間がすることじゃない!」
川井田は、それ以上訊かなかった。いや、訊いても真面目に取り合ってもらえないと思ったのだ。
半ば乱暴に電話を切った。
「どうしてあんなやつが医者になれたんだ?」
川井田は誰も座っていないベンチに座った。
「川井田先生、警察の方が」
女性看護師が、川井田に声をかける。「警察?」
川井田が看護師の方へと、視線を向けた。
「済みませんね。私、警視庁刑事部の阿弥陀と申します」
「同じく大宮です」
と、阿弥陀と大宮の二人が、警察手帳を川井田に見せた。
「ぼくになにか御用でしょうか?」
「いえ、実は昨日女性の遺体が発見されましてね。その方がこちらの病院で世話になっていたみたいですので」
阿弥陀がそうたずねると、「はぁ、一体誰でしょうか?」
「――萩原純夏さん」
「は、萩原さんが? 彼女は、いったいどこにいたんですか?」
その名を聞くや、川井田は阿弥陀に詰め寄る。
「落ち着いてください。その様子だと知っているんですね?」
「知っているも何も、萩原さんはうちの病院に入院していたんですが、昨日から行方がわからなくなっていたんです」
それを聞くと、阿弥陀と大宮は互いを見てから、「実は、少しばかり聞きたいことがありましてね。その私たちはあまり医学に対しての知識はないので」
と、たずねた。
その言葉に、川井田は首をかしげる。
「ぼくに聞きたいこととは?」
「その……、動物っていうのは、皮とか肉がなくても生きていけるんですかね?」
阿弥陀がそう訊くと、川井田は最初何を言っているのかと思った。
「発見された萩原さんの遺体には、皮も骨もなかったんです。あったのは五臓六腑と眼球や口、脳だけでした」
大宮の言葉に、川井田は、その凄惨な状況下に、吐き気をもよおした。
「……可能だと思います。肉は言ってしまえば立つために必要なバランスを保つためのもの。骨だけでは人は立ちませんからね。それに、皮膚はそれを多い外傷から守るためにあります」
川井田は阿弥陀たちを見る。「萩原さんは生きていたんでしょうか?」
「生きていました。私達が駆けつけた時には、まだ息がありましたからね。でも数秒後には……」
「我々医師は、何をもって死なのかを判断しています。脳死によるものなのか、それとも心拍停止によるものなのか」
「発見された萩原さんの心臓は動いていました」
「そうなると、おそらくですが心拍停止によるものでしょう。しかしなぜ彼女はそんな状態で」
「それを我々は聞いているんですかね?」
「医学的に言うと、活造りといったところでしょうか? 気を失って心拍停止だった場合ならありえるかもしれませんが、そんなことが可能かというと不可能です。人間の体を、そのように捌けるとは思えません」
川井田は震えた表情で言った。
「そうですか……。ですが、こんな話を疑いもせずに説明出来ますね?」
大宮がそうたずねる。「あの……、あなたはブラックジャックをお読みになったことは?」
川井田にそう訊かれ、大宮は小さくうなずいた。
「その作品の中に『ピノコ』という女の子が出てくるでしょ? 彼女は本来なら別々に生まれるはずが、もう片方の体内に、臓器などが完全な状態で入り込んでいたんです。それをブラックジャックが彼女を人として生き返らせた。云ってしまえば、臓器と血管だけでも人は生きていけるんですよ」
荒唐無稽な話ではある。
「しかし、実際にそのようなことを萩原さんはされていたんですか?」
川井田は未だに信じられないといった表情でたずねる。
大宮は、萩原の遺体を写した写真を、川井田に見せた。
それを見るや、外科医であるにもかかわらず、川井田はドボドボと、消化されていない昼飯を吐き出した。
人間の臓器は、医師である以上、日常茶飯時に見る。
しかし、萩原の遺体は見るべきものではない。いや、見るに耐えられないものだった。
「ガイシャがいなくなったのは昨日からと云いましたが、詳しい時間は?」
「昼食辺りからだと思います」
川井田はそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。
「済みません、そろそろ午後の診察がありますので」
そう言うと、川井田は病院の中へと消えていった。
「末森は、あいつは頭がどうかなったんだ」
そう吐き捨てているのを、大宮は耳にした。
「大宮くん、今回の事件どう思いますかね?」
そう声をかけられ、大宮は阿弥陀を見る。
「彼が言っていることが本当だとしたら、犯人は医学に優れていると思いますが」
大宮の言葉に、阿弥陀はあきれた顔をする。
そんな反応をされたので、大宮は大宮で、怪訝な表情を浮かべるや、首をかしげた。
「私が言っているのは、あんな人間が出来るはずのないことが、医者だからといって出来るのかってことですよ」
「でも、心臓が動いてたら生きてるものですよね?」
「たしかに心臓が動き、そこから血液が流れ、各臓器に行き渡れば生きていられるでしょうけど、血液はどうやって作るんですか? 心臓だって鉄分がなかったら血液が作れないでしょ?」
阿弥陀はそう言いながら、ちいさく深呼吸をしてから、「だいたい、あんな状態で晒されていたら、虫に食われるのが関の山でしょ?」
と、言った。
その言葉に、大宮は顔をゆがめる。
「それじゃぁ、今回の事件は……」
「ええ。人間の仕業ではないということだけはたしかでしょうね」
阿弥陀はそう考えると、「一両日調べて、進展がなかったら、明日の晩辺り、稲妻神社に訪ねに行ってみますか?」
そう訊かれ、大宮は、了解するようにうなずいた。
その日の晩のことである。
シンと静まり返った病院の廊下を、白衣を着た男が歩いていた。
そして行き止まりとも言える部屋の前に立つと、扉を叩いた。
部屋の住人(この場合は病人のほうが合っているが)が反応を示さないのを確認すると、「失礼するよ」
と、音を立てないように、スライド式の扉を開いた。
部屋の中は、窓から差し込む月明かりで、ぼんやりと中が見える。
男は、ゆっくりとポケットの中からペンライトを取り出し、明かりを灯した。
部屋を照らすように見渡すと、片隅にペッドが見えた。
「土谷さん、手術をしに来ましたよ」
そう言うや、男は足音を立てずに、ベッドへと近づいていく。
枕元の方を照らすと、そこには女性患者が眠っていた。頭上にあるネームプレートには、『土谷六花』と書かれている。
男は、白衣のポケットからペンケースを取り出すと、中からメスを取り出した。
まるで、新品かと思えるほどに、研ぎ澄まされた刃先をしている。
そしてその刃先を、女性の首元へと近づけた時だった。
「せ、先生? なにをしているんですか?」
目をカッと見開いた土谷が、悲鳴をあげた次の瞬間であった。
一瞬のうちに、首の、大動脈が切除される。まるで間欠泉のように、血が天井まで飛び散っていく。
そして、土谷は目を反転させ、息を引き取った。
「びっくりさせないでくださいよ。せっかく永遠の命を与えようとしたのに、拒むなんて酷い患者さんだ」
男はゆっくりと襟元を治す。そして……、土谷の首元をメスで切り開いた。
「あれ……?」
目を覚ました土谷は、天井を見る。いつも見ている無機質で真っ白な天井だ。
土谷は、昨晩誰かが部屋の中に入ってきて、自分の首を切り落とそうとした。
そんな夢とも、現実とも区別がつかない体験を思い出すと、身震いを起こす。
ベッドから起き上がると、土谷は顔を洗いにトイレへと向かった。
「あら土谷さん、今日は早いですね?」
ナースセンターで夜勤をしていた看護師の一人が、土谷に声をかけた。
「ええ。ちょっと変な夢を見てしまって」
そう土谷が言った時だった。
彼女の視界は斜めになり、次第に九〇度回転していく。
「きゃぁあああああああああああっ!」
看護師が悲鳴をあげ、病院内はざわめきだした。
土谷の首は、綺麗な状態で、まるで研ぎ澄まされた鋭利な刃物で切られたかのように、その場に転がっていた。




