壱・草々と
福嗣町南部にある、悟帖ヶ山を少し登り、子供の背丈くらいはある雑草が生い茂った脇道を、わたしは彼女と歩いていた。
「ねぇ、どこまで行くの?」
わたしは、うしろから聞こえてくる、彼女の愚痴を聞き流すように、先へと進んでいく。
季節が夏だからだろうか、空はカンカンと照っており、帽子を被っていなかったら、日射病になっていたなと、言いたくなるほどに暑かった。
腕で額の汗を拭った時、うしろにいる彼女を一瞥すると、彼女も同じことをしていた。
「そろそろ着くから、もう少し我慢して」
わたしがそう言うと、彼女は小さくうなずいたが、その視線は、ムッとしているのがわかった。
道なき道を歩いていくと、「見えてきた」
わたしは立ち止まり、彼女が自分のところに来るのを待つ。
「見えたって、なにが?」
彼女は小さくためいきをつくように、息を整える。
「ほら、見える?」
わたしがその先を指で示した。彼女も、その先を凝視する。
「……沼?」
彼女はたずねるように言った。「ああ、ちょうど蓮が見頃だと思ったからさ」
「本当だ。結構咲いてるね」
彼女はそう言いながら、沼の水面に咲いている蓮に目をやった。
「もう少し、近くで見るといいよ」
彼女に、うながすように言った。
「近くで見ると綺麗だね」
彼女は素直に言ったのだろう。わたしは……、この蓮の意味を知っている。
だから彼女がわたしの方を振り返った時、素直に笑えなかった。
多分、作り笑いしかできなかっただろう。
「私ね、小学校の頃は春の遠足でかならずっていうくらい登ってたんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
わたしは、相槌を打つ。
「でも、ちょっと不気味だね」
彼女は不安そうに言った。
そして、視線の先に広がった数多の蓮を指差した。
「ほら、蓮って薄紫でしょ? でもなんか赤いっていうか……血、みたいな」
彼女の言葉に、すこしだけ首をかしげると、わたしは笑った。
「君は感性豊かだね」
「うん。でも、ありがとう」
彼女にそう言われ、わたしは驚いた。
「最近忙しかったみたいだし、ほら、私も結婚してから時間作れなかったじゃない」
「ああ、別に構わないよ。それより、もっと近付いて見たら?」
「わかった」
それを素直に聞き入れる彼女が、はなはだだしくも、可愛く思えた。
彼女は身を乗り出すように、陸地と沼の境目で屈んだ。
「手にとってみるといいよ。ほら、あの花に手が届きそうだ」
そういうと、やはり彼女は素直に……、手を伸ばした。
わたしは、自分の中にあった『憎悪』が、川のように氾濫するのがわかった。
ドンッと、彼女の背中を蹴った。押しても良かったのだが、それではダメだ。
彼女は、小さな悲鳴をあげながら、沼に落ちていく。
「な、なにするの……! た、たすけ、て……」
彼女は、信じられないといった、驚きの表情でわたしを見る。
「そこで死ぬといいさ……。だってそこは、君にお似合いだからね」
わたしは、吐き捨てるように言い放った。
彼女は暴れるようにもがく。その動きが鈍くなっていくと、足は水中の草に取られ、次第に動きが鈍くなっていくのがわかった。
「た……す――」
彼女は、まるで下から引っ張られるかのように……、姿を消した。
「君がしたことを地獄で悔い、思い知るがいいさ……」
私は吐き捨てるように言い放った。
――君がどんなに媚びろうと、最低な人間に変わりはないんだから。
「やぁ、こんなところにいたのかい?」
落合孝宏が、会社の屋上にあるベンチで、紫煙を吹かしている大川充晃に声をかけた。
「昼食でも買いに行ってたのか?」
「まぁ、そんなところだ。お前はどうした?」
「俺もまぁ、似たようなものだ」
そう言うと、大川は手に持ったレジ袋を見せるように掲げた。
「最近弁当ばかりじゃないか、新婚で夜も盛んか?」
大川がからかうように言う。
「いや、ちょっとな……」
なんとも奥歯にものが詰まったような言い回しだったため、大川は、なにがあったのかとたずねる。
「実はな、昨日から帰ってこないんだよ」
「なんだ? 喧嘩でもしたのか?」
「いんや、一昨日の晩も一緒に寝たしな……。心当たりがないんだよ」
「彼女……美千流さんの行きそうな場所は調べたのか?」
「美千流がいなくなったことだって、昨日の晩にわかったんだ。今日は外回りだからな、時間を見つけて、知り合いにでも尋ねてみるさ」
そう言いながら、落合はためいきをついた。
「それに、ちょっと彼女に聞きたいこともあったからな」
「美千流さん、なんかしたのか?」
「いや、俺の勘違いかもしれないし、確たる証拠もない。ちょっと遠回しに尋ねるだけさ」
落合はそう言いながら、大川の隣に座った。
そして、コンビニ弁当を膝の上に起き、食べ始めた。
「おれも、彼女とは知り合いだ。友人らにちょっと最近気になることはなかったかみたいなことでも聞いてみるよ」
「ありがとうな」
大川が頭を下げると「いいって、おれたち友人じゃないか」
大川は落合の背中を叩いた。
「ああ、友人じゃないか……。共通のな――」
大川の口が、小さく歪んだ。
だが、七年経った今なお、美千流は見つかっていない。
 




