弐・違和感
福嗣高校の敷地内の片隅にあるプールの横に、小さなコンクリート製の建物がある。
そこはいってしまえば、水泳時における更衣室なのだが、部屋の中では、女子のかしましい声が響いていた。
「ほぇぁ……」
希望はそれを、物珍しそうに見やる。
元々、北海道で暮らしていた希望にとって、この暑さは異常であると同時に、プール自体が珍しいのである。小学生の時はあったが、中学生の時はほとんどなかった。
「どうかしたの?」
皐月が声をかけた。
希望はにらむように皐月を見つめ返すと、自分のロッカーへと駆けていった。
皐月は、小さくためいきをつくと、寂しそうな目で、希望の姿を追う。
「まだ思い出せないの?」
体操着姿の信乃が声をかけた。皐月は答えるようにうなずく。
「余程根に持ってるってことね。でも、その理由を話してもらわないと、思い出すにも思い出せないんでしょ?」
「こればっかりは自分の力で思い出さないといけない気がする。それに私、小さい時北海道に旅行に行ってるから、その時に会ってるんだと思う」
皐月は、以前、母親である遼子が見つけたアルバムにあった写真を思い出す。
その時、一緒に写っていてた少女。その子の名前が、今でも思い出せない。
おそらく、そこに写っていたのが希望だ。北海道で知り合いなんていないし、彼女以外に思い当たる節もない。
「あなたたち、急いで集まりなさい」
体育教師の伊佐那が外から声をかける。
「っと、早く着替え終わらせないと」
皐月は、自分のロッカーへと慌てて駆けていった。
「結論から言うと……わからん」
田原産婦人科の診療室で、田原医師がそう口にした。
「わからないって、どういうことですか?」
瑠璃が怪訝な目で、田原医師をにらむ。
「わからんからわからんのだ。なにせ、どこも悪くないんじゃからな」
「でも、現に昨日、葉月は歯を痛めていたんですよ」
「それも、その奇っ怪な腫れの原因か、若しくは前兆だったという考えもある。しかしな、歯はどこも悪くないし、念のためレントゲンも撮ってみたが、どこも異常はなかったんじゃよ」
田原医師はレントゲン写真をホワイトボードに貼ると、バックライトをつけた。
頬の腫れどころか、歯の骨には異常が見られない。
「たしかにどこも悪くないですね」
「病気以外で考えられるとしたら、葉月ちゃんは何かに取り憑かれてきたということじゃな」
瑠璃は、隣に座っている葉月を一瞥する。「なにか心当たりはありますか?」
そう訊かれ、葉月はちいさく首を横に振った。
「葉月ちゃんはあん子らの中で一番霊力が高いし、浮遊霊に取り憑かれやすい」
「つまりその浮遊霊が、今の葉月と同じ症状だった……ということですか?」
「考えられるとしたらな。しかし――」
田原医師はそう言うと、看護師にノートパソコンを持ってくるように言った。
数分して、看護師がノートパソコンを持って戻ってくる。
「福嗣町にある病院やクリニックのネットワークに繋げてな、『頬の腫れ 重症』と検索を掛けても、ここ数年、そう言った症状による死亡報告がないんじゃよ」
「それじゃぁ、ほかのところからということでしょうか?」
「浮遊霊だからありえるかもしれないが、しかし――」
田原医師はそう言いながら、葉月の頬を触れる。
葉月は痛みで体をピクつかせる。
「ちぃっと我慢しなさいな」
「訶梨帝母、なにかわかりましたか?」
「どうも、引っ掛かるところがあるんじゃよな。言ってしまえば、虫歯で腫れたんじゃなくて、外側から腫れたような感じ……そうじゃろ?」
田原医師は、机の上に置いてあるメモ用紙を葉月に渡す。口を動かすと痛みが走るため、葉月は今日ほとんど口を動かしていない。
『なんか、強く叩かれたような感じがする』
「虫歯による痛みじゃないってことですか?」
そう訊かれ、葉月はうなずいた。「葉月ちゃんは取り憑かれた幽霊の痛みも共有してしまうからな。恐らく、殴られて殺された……と考えるべきかな?」
田原医師がそう言うや、瑠璃は少しばかり考えてから「あなたの力でどうにかできないんですか?」
と、お願いした。
今までであったら、三姉妹の長女である弥生が葉月に取り憑いた霊を祓っていたが、今はデザイナー学校に通うために一人暮らしをしていて、神社にはいない。
「出来なくはないがな。少し待ってくれんかな?」
「待つって、こっちは苦しんでいる葉月を見るに耐えかねないんですよ?」
瑠璃は不安そうな表情で、田原医師をにらんだ。
「元とはいえ、子供を守る地蔵菩薩じゃからな。お前さんの気持ちは、同じ子を守るものとしてわからんわけでもないよ。じゃがな、果たして葉月ちゃんに取り憑いたのが偶然なのか……ということなんじゃよ」
田原医師の言葉に、瑠璃は首をかしげる。
「偶然ではないとしたら?」
「なにか事件があった。しかも……普通の人間には解決できないこと」
田原医師はそう言うと、葉月の頬をふたたび、優しく触れた。
「ぷはぁっ!」
潜水していた皐月が、水中から出てくる。「信乃、タイムは?」
「だいたい一分半くらいかな。てか、皐月って水泳苦手じゃなかった?」
「今でも苦手だよ。息継ぎとか全然ダメ」
皐月は愚痴をこぼすように言う。
「にしても、役得よね?」
そう言いながら、信乃はクククと笑った。
「……っ? どう言う意味?」
皐月は、怪訝な表情で信乃を見る。
「いやさ、今日は生理でこうやって見学してるわけだけども、うちのクラスって結構レベル高いじゃない? 特に皐月なんて、出てるところはしっかり出て……、うぅぼぁさらぁ?」
信乃が言い切る前に、皐月はプールの水を思いっ切り信乃に掛けた。
「ばかっ!」
皐月は顔を真っ赤にして、プールの端へと、信乃から離れるように泳いでいった。
「うぅっ、げぇほっ! うわぁビショビショ」
信乃は、体操服が水で濡れ、不愉快な気持ちになりつつも、ちょっとからかい過ぎたなと、皐月に向かって謝った。
「本当に仲がいいんだね」
そう聞こえ、信乃は声がした方を見る。
「風花さん?」
信乃は驚いた表情で希望を見遣った。今まで黙りを決め込まれていたため、こうやってむこうから話されると、それはそれで、何を話せばいいのか分からず、緊張してしまう。
「皐月ちゃんって、普段からああなの?」
「どうかな? 中学の時は学校が違ったからわからないけど、でも初めて会った時から全然変わってなかったわよ」
希望は、信乃の言葉を聞きながら、「そうか。やっぱり変わらないんだね。自分のことよりも、人のことを優先する」
そうつぶやくと、希望は逃げるようにその場から離れていった。
「あ、そうだ風花さん……っ?」
信乃が振り向いた時には、すでに希望の姿はなかった。
――だから、だからわたしは、皐月ちゃんのことを今でも信じてるんだと思う。
まるで水面に落ちた木の葉のように、希望は水面を漂いながら、北海道にいた時には感じられなかった、気が遠くなりそうなほどの暑い日差しを感じていた。
そして、幼い頃のことを思い出すと、不意に憎悪と、それでも信じたい気持ちに駆られていた。
――どうやったら、仲直りできるのかな……?
そう考えていると、笛が響き渡る。集合の合図だった。
葉月が何かに取り憑かれる、二日ほど前のことである。
「阿弥陀警部、これどういう仕組みですか?」
福嗣町の西に外れた場所にある公園の茂みに、阿弥陀や大宮といった、佐々木班の姿があった。
彼らの眼下には、横たわった女性の姿があった。
「た、助けてください……、たすけ……」
女性はうわごとのように、目の前にいる阿弥陀たちに助けを請う。
しかし、大宮はおろか、阿弥陀や湖西主任ですら助けることは、たとえ二人が神仏であろうと、助けることは無理であった。
「通報をしたのは、彼女で間違いないんですかな?」
阿弥陀が、震えた声で言った。
「多分そうだと思います。彼女のものと思われる携帯がそこに」
大宮は出来るだけ女性を見なかった。いや見れなかったというべきであろう。
なぜなら――。
女性の身体、いや皮が、肉が、骨が、何一つどこにもないのである。
あるのは、脳、二つの眼球、舌、食道、二つの肺、心臓、肝臓、脾臓、胃袋、小腸、大腸、直腸、膀胱、子宮。そしてそれらを繋ぐ血管のみであった。
この状態で、どうやって話しているのか。
大宮も阿弥陀も、目の前の遺体が、悪趣味ではあるが、精巧な人形であればどれだけいいものかと思った。
しかし、五臓六腑が震え鼓動している。――生きているとしか言い様がない。
それはまるで、活け造りにされた魚のような……。
女性が本当の意味で息を引き取ったのは、それから一分もかからなかった。




