壱・不規則
姦高校編第三話開始です。
シンと静まり返った真っ暗な部屋の中で、橙色のひかりが、部屋の片隅でぼんやりと浮かんでいる。
「あふぅっぁっ……」
その灯りの下で、だらしない欠伸をしながら、信乃は机上の隅に置いてある時計を一瞥した。
針は、日付が変わる午前〇時を、疾うに回っている。
――もうこんな時間か。眠たくなってくるはずだ。
信乃は、腕を伸ばすようにストレッチをすると、机上に広げたノートや教科書に目を向ける。
高校に上がってから、深夜十時を過ぎても眠たくならなくなってきたのは、慣れであろう。
同年代の若者からしてみれば(若者どころか、最近は幼稚園児でも、この時間、親の勝手な都合で起きてる場合があるが)、深夜でもなんでもないだろうが、遅くても、十時前には寝床に就いている、鳴狗寺の面々からしてみれば、十時以降は深夜なのである。
――えっと、笹賀先生が古文は基礎と習った単語を覚えておけば問題ないって言ってたわね。
単語帳を開き、書き込んだ古文の単語を見ていく。
「そろそろ寝らんと、明日キツイで?」
窓の下で丸くなっている真達羅が、片目で信乃を見ている。
その姿は、寅神と言われるだけあって、猫科の動物のようだ。
「わかってるわよ。取り敢えず、今日の宿題はこれで終わり」
大きな欠伸を浮かべ、信乃は机上の勉強道具を鞄の中に直すと、その鞄を机上に置く。
そしてテレビを点けた。「人の話聞いとったんかいな?」
真達羅が、あからさまに不機嫌そうになる。
「予約するだけだって。人の楽しみ取らないでくれる?」
そう言いながら、信乃はDVDレコーダーを起動させた。
「そろそろ、そういうの止めた方がいいんとちゃうかな?」
「これが楽しみで、日々頑張ってんだけどね」
信乃は、深夜放送のアニメの録画予約を済ませると、テレビとDVDの電源を切り、布団の中へと潜り込む。「あふぅっ……」
だらしない欠伸を浮かべ、ゆっくりとまぶたを閉じていく。
「そういえば、目覚ましはかけんのやな?」
真達羅は、不思議そうな声でたずねた。
「かける必要なんてないわよ。修行僧の誰かが、午前五時に時間通り梵鐘を鳴らすから」
そう言うと、信乃は深い眠りに就いていった。
「あいててて……」
深夜。というよりまだ夜の十時くらいだが、葉月が少し苦い顔をしながら階段を下りていた。
「なんじゃ葉月、眠れんのか?」
社務所で書類の整理をしていた拓蔵と、その手伝いをしていた瑠璃の二人が、廊下で葉月と出会す。
「どうかしたんですか? 頬を触れてますけど」
瑠璃が、首をかしげながら、葉月にたずねる。「ちょっと、歯が……」
そう答えながら、葉月は左頬をさする。
「虫歯か? だがきちんと歯磨きはしとるはずじゃがな?」
「しててもなる人はなりますよ」
瑠璃がそう言うと、「明日、歯医者に行ってみたらどうです? 拓蔵、たしかまだ頓服が残っていたはずでしたよね?」
「――とんぷく?」
あまり薬の知識がない葉月は、それに対して聞き返した。
「いろいろ種類があるんじゃがな。この前ちょっと腰を悪くしたじゃろ? そん時に貰った薬の中にあるはずじゃよ」
拓蔵はそう言うと、瑠璃を一瞥した。
瑠璃は、スッと、音を立てず、階段を上がっていった。
一分もかからず、薬が入った紙袋を持って、戻ってくる。
「言っておくが、あくまで一時的な痛み止めじゃからな。明日学校が終わったら、歯医者に行ってきなさい」
葉月は頓服を受け取ると、台所へと去っていった。
「しかし珍しいな、三姉妹の中で虫歯の疑いが出るとは」
「たしかにそうですね。ちょっと薬師如来にでも聞いてみましょうか」
瑠璃はそう言うと、黒電話へと掛けていく。
「この時間に出るかね?」
拓蔵の心配をよそに、電話はすぐに取られた。
「もしもし、あぁ地蔵菩薩か」
「元……というか、元々地蔵菩薩でもなんでもなかったわけですが。ちょっと薬師如来にお聞きしたいことがあって、実は葉月に虫歯の疑いが出たんですけど、ちゃんと歯を磨いてるんですよ」
瑠璃の話を聞きながら、湖西主任は「そりゃぁ、虫歯になる場合もあるぞ。歯磨きはあくまで歯周病にならないための予防じゃからな。歯の隙間や、奥歯に入り込んだ食べもののかすが原因で、虫歯になる可能性もある」
「そうですか。まぁ初期症状ですし、明日行かせるつもりですけどね」
瑠璃は、湖西主任に礼を言い、電話を切ろうとした時である。
「爺様、瑠璃さん。おやすみなさい」
廊下で擦れ違った葉月が小さく頭を下げる。
「ほい、おやすみ」
拓蔵は、左頬をさする葉月を一瞥しながら、「葉月、どうかしたのか?」
そう呼び止めると、葉月は振り返った。
「どうかしたの? ってて……」
「痛み止めが効いてないんでしょうか?」
「ううん、歯が痛いのは治ったんだけど、なんか妙に顎が痛くて」
「顎がですか?」
「虫歯のこともあるしな。歯が痛くなったのはいつくらいからだ?」
「昨日くらいから。ズキッて刺されたような痛みがあって」
「歯が噛み合った時に痛みが走らないよう、普段とは違う噛み方をしたのが原因でしょうね。とにかく、それも合わせて明日診てもらいなさい」
葉月は、瑠璃の言葉に答えるかのようにうなずいた。
翌日のことである。
「おはようございます。って、葉月ちゃん、どうかしたの?」
皐月を迎えに来た信乃が、驚いた表情でそうたずねた。
ちょうど、洗面所から出てきた葉月が頬をさすっていたからだ。
「あ、おはようございます。ちょっと昨日から歯が痛くて」
「虫歯?」
「だと思います」
葉月はそう言うと、二階へと上がっていく。
「あ、信乃おはよう」
葉月とは擦れ違いになった形で、本殿で毘羯羅と朝稽古をしていた皐月がやってくる。
「おはよう。ちょっと聞きたいんだけど、皐月って虫歯になったことある?」
皐月はそう訊かれ、「ううん、ないけど?」
と、答えた。
「それがどうかしたの?」
「いや、さっき葉月ちゃんが虫歯になったって話になってね」
「瑠璃さんの話だと、歯磨きしててもなる人はなるみたいだよ」
皐月はそう言うと、二階へと上がる。二分ほどして、制服を着、鞄を持って降りてきた。
「それじゃ、ご飯食べてくるね」
「了解。そういえば、今日の体育って水泳だっけ?」
「そうだけど、忘れたの?」
「ううん、今日は生理で見学しようかなって」
そう言いながら、信乃は欠伸を浮かべる。
「本当の理由は?」
皐月は、あきれた表情でたずねた。
「……寝不足。やっぱ、まだ体が慣れないわね」
「何時に寝てるの?」
そう訊かれ、信乃は十二時くらいに寝たと答える。「皐月はどうなの?」
「私は、十時前には寝てるかな。宿題と予習はしてるけど」
皐月がそう言うや、信乃は「どういう勉強法よ?」
と、驚いた声で聞き返した。
「先生の話を聞きながら、黒板に書いてあることをノートに記入してるだけだけど?」
皐月は、若干耳が悪い。それが功を奏しているのか、ほかの生徒に比べて、教師の話を一句見逃さず、もとい聞き逃さないでいる。
また、集中すると、それ以外手に負えないという性格でもあるが。
「黒板に書いてあることだけ書いても、成績上がらないわよ?」
「春眠暁を覚えずって言葉があるでしょ?」
愚痴をこぼすように、信乃は皐月を睨む。
「春眠って……、今は初夏ですよ?」
二人の話を聞いていたのか、あきれた表情を浮かべながら、居間から瑠璃が出てきた。
「皐月、ご飯の用意出来てますから、早く済ませなさい」
そう言われ、皐月は居間へと去っていった。
「いつも済みませんね」
そう言って、瑠璃は信乃に向けて、小さく頭を下げる。
「いえ、いつものことですから」
信乃は別段気にしてはいなかった。
「今日はこういうのを作ってみたんですけど」
瑠璃は、お皿の上に乗っているアルミカップを信乃に渡す。
「グラタン……ですか?」
「昨晩はシチューだったので、その余りで作ったんですよ」
たしかに、グラタンもシチューも、同じホワイトソースで作ったものだ。
「美味しい」
と、信乃は舌鼓を打つ。
「お気に召してくれたようで。よかったら、お昼も食べます?」
「あ、いただきます」
瑠璃は台所へと戻るや、アルミカップに入ったグラタンを二つ、紙袋の中に入れ、それを信乃に渡した。
「お待たせ信乃。それじゃぁ行こうか?」
居間から出てきた皐月がそう言うと、信乃はうなずいてみせた。
「あれ? そういえば葉月ちゃんは?」
十分ほど上り框に座っているのだが、葉月が降りてきた気配はしなかった。
「どうかしたんでしょうか。ちょっと見てきますから、二人は気にしないで行ってください」
瑠璃にそう言われ、皐月と信乃は、葉月のことが気になりながらも、福嗣高校へと出かけていった。
「葉月、そろそろご飯を食べないと遅れますよ?」
瑠璃が二階廊下、葉月の部屋の前で声をかける。
が、返事が返ってこない。部屋からは、人の気配がしている。
「葉月、どうかしたんですか?」
少しためらいながらも、瑠璃は部屋の襖を開けた。
「……っ? 葉月、どうかしたんですか?」
目の前には、三つ折りに畳まれた布団の上でうずくまっている、葉月の姿があった。
「うぅ、ぐぅっ!」
痛みをこらえるように、葉月は表情を険しくさせる。
「少し見せてください」
瑠璃は、葉月の頬を見やる。
「――っ? 拓蔵ちょっと来てください!」
大声でそう叫んだ。数秒ほどして、けたたましい足音が近づいてきた。
「瑠璃さんや、どうかしたのか?」
「急いで訶梨帝母に連絡を。ちょっとこれは虫歯というには、症状が酷いですよ」
瑠璃の言葉に、拓蔵は首をかしげる。
が、葉月の頬を見るや、表情を険しくさせた。
葉月の左頬から顎に掛けて、大きく腫れていたのだ。
「口の中はどうなんじゃ? もしかしたら口の中を切って、そこからバイキンが入ったという可能性も」
「葉月、少しでもいいですから口を開けてください。遊火、灯りをお願いします」
そう呼ばれ、遊火はその場に現れるや、火を葉月の口元に近付ける。
遊火は陰火と呼ばれるもので、炎は明かりだけで熱さはない。
葉月は口を震わせる。開くだけでも気を失いそうなほどの痛みが走っていた。
「口の中は特別悪いわけではないですね。……虫歯もない?」
「昨日最後に見た時は顎が痛いといっておったな。くそっ! まさかこんなことになろうとは」
拓蔵は部屋の壁を殴る。「あなただけの責任ではありませんよ。一緒にいた私だって気付けなかったんですから」
瑠璃はそう言うと、「とにかく、今日は学校を休んで、訶梨帝母のところに連れていきます。いいですね?」
そう言われ、葉月は、もうろうとした意識の中、小さくうなずいた。




