漆・抗老化
「えっ? 高妻先生来てねぇのか?」
机の上にカバンを起きながら、茲場はクラスメイトに聞き返した。
時間は八時を過ぎている。生徒たちの登校時間は八時二十分までであるため、教師はそれよりも少し早めに来るものだ。
「先生たちも焦ってるみたいでさ、高妻先生の携帯に連絡をしたりもしてるんだけど、捕まらないんだってさ」
クラスメイトは、興味本位で言う。
「ちょっと気になるね? って、信乃聴いてる?」
皐月が少し声を荒げる。「えっ? あ、ごめん」
信乃は慌てて皐月を一瞥した。
「なんか、今朝から可笑しいよ?」
「うん。やっぱりどこかで掻いたことあるのよ」
「掻いたことあるって、なにを?」
皐月が首を傾げると「ほらおばさんが着けてたやつ。シトラス系の」
「香水のこと?」
「そう。あれがどうもどこかで掻いたことあるんだよね。しかもそんなに日にちが離れてないくらい」
信乃はうーんと項垂れる。
「なんだっけかなぁ~っ?」
「ほらみんな、席について」
教室に入ってきた笹賀が教壇に立つや、生徒たちに言い放った。
「信乃、また後でね」
皐月は、自分の机に戻っていく。
「それじゃぁ、出席を取るわよ」
笹賀が、生徒帳簿を広げて出席を取り始めた。
ふと、妙なにおいが信乃の鼻を擽った。
――なんだろ? 石鹸の匂い?
におってきたのは、柑橘系の香りである。
「鳴狗さん」
自分の名前を呼ばれ、信乃は返事をする。
――匂いの元は、どうやら先生みたいだね。
そう思った時である。
――ちょっと待って、においが残ってるってことは、先生は手を洗ったばかりじゃ……。それじゃぁ、それがハンカチに移っていたとしたら? 犯人の手に残っていたとしたら……。
ガタンと、信乃は立ち上がった。
「どうかしたんですか? 鳴狗さん」
笹賀が怪訝な表情で尋ねる。「すみません、ちょっと気分が悪くなったので……、ほら皐月、ちょっと付き合って」
信乃は、有無を言わさずに皐月を教室から連れて行った。
「ちょっと、信乃どうしたの?」
階段の踊り場で、二人は立ち止まった。
「わたし、殺された枚方さんのハンカチで掻いたのは土木での臭いと、それを消すための香水の匂いだと思ってたの」
「そうなんじゃないの?」
「でも、根本的な勘違いをしてた。あの匂いは香水じゃなくて石鹸の匂いなんだって。それと昨日同じ匂いを高妻先生もしてたのよ」
「だけど、高妻先生の場合は香水じゃないの?」
皐月は驚いた表情で尋ねる。
「でも、笹賀先生にも似たような匂いがしてた。これってつまり枚方さんは学校の石鹸で手を洗って、その匂いがハンカチについたってことじゃない? それを大宮さんに尋ねるのよ」
「尋ねるって、なにを?」
「昨日渡した枚方さんのハンカチ。あれ洗ってないからにおいが残ってると思う」
「つまり、検視してほしいってこと?」
皐月がそう尋ねるや、信乃は頷いた。
「わかった。それじゃぁ、ちょっと待ってて」
皐月はそう言うと、携帯を取り出し、大宮に連絡を入れる。
「――はい、わかりました。信乃にはそう伝えておきます」
電話を終え、皐月は信乃の方へと振り向く。
「昨日戻ってからすぐに検視を始めたって」
「それで、結果は?」
信乃が不安そうに尋ねる。皐月は少しばかり間をとってから――。
「においの元はシトラス系の香水と石鹸その両方だって。それと殺された枚方さんの不自然に濡れた衣服からも、同様のにおいが検出されているって」
「それじゃぁ、もしかして……」
「もしかしなくても、高妻先生がなにか知ってるのかも――」
二人が話し込んでいると、ふと視線を感じ、二人はそちらを見上げた。
「二人とも、保健室に行ってたんじゃなかったの?」
「か、風花さん?」
階段の上から、希望が疑うような目で二人を見下ろしている。
「えっと、あ、もう大丈夫。ほら、皐月戻ろう」
信乃はそう言うと、皐月の手を引っ張りながら、自分たちの教室に戻っていく。
それを希望は見送ってから、自分の肩に小さな気配を感じ、そちらを見やった。
「ありがとねコロロ」
肩に乗った小さな妖怪は「コロロ」と小さく鳴き、小さく笑みを浮かべた。
「たとえ先生だとしても、妖怪と化した人間は罰するのが執行人の仕事だものね」
警視庁のロビーで大宮は驚いた表情を浮かべていた。
彼の目の前には美月の姿があり、彼女から夫の携帯にあった留守番電話サービスの内容を聞いたのである。
「あの人は、夫のことを本気で愛していたんです。ですが彼女は夫が死んだことを知らなかった」
大宮は、枚方義文の携帯から電話があった時間履歴の留守番電話サービスを耳にする。
アナウンスが聞こえたあと、一拍置いてから女性の声が聞こえだした。
「高妻です。知らない人の電話番号なので驚いてしまっているでしょうが、ちょっと自分の携帯が使えなくて。あっ、この前頂いた香水ですが、あんな高価なものを頂けるなんて思ってもいませんでした。でも、高いからといって女性が喜ぶわけじゃないですよ? それから奥さんのためになにかしたいと思われているみたいで、正直奥さんが羨ましいです。そうですね、今度休みの時にでも二人で会いませんか? 私なんてまだ未熟ですけど、女性としての意見くらいは言えますよ。それではまた……」
留守電はここで終了する。
「それじゃぁ、旦那さんは――」
「後で部下の人に聞いたら、高妻先生とは付き合っていたのではなく、近々私の誕生日のために何をすればいいのかと相談していたそうです」
美月は、拳を握る。「でも、どうして?」
「多分、夫は不器用だったからだと思います。ほとんど仕事一筋でやってきた人ですから」
「大宮、さっき鑑識課から連絡が入った」
やってきた佐々木が大宮に耳打ちをする。「どうだったんですか?」
「ハンカチと被害者が着ていた上着から同じにおいが検出されたよ。それと香水の成分と石鹸の成分だということだ」
「それじゃぁ、被害者を殺したのは――」
「その高妻という先生で間違いはないだろう」
佐々木がそう言った時である。大宮の携帯が鳴り出した。「すみません」
大宮は一言謝ってから、携帯を取った。
「もしもし、――皐月ちゃん? あれ、でも今の時間だとまだ朝のHRなんじゃ?」
大宮は自分の時計を見やる。
「そうなんですけど、あの昨日信乃が渡したハンカチの件で少し尋ねたいことが」
大宮は先ほど佐々木から聞いたことを皐月にも伝えた。
「その件もあって、高妻先生を尋ねようと思ったんだけど」
「た、高妻先生にですか?」
皐月が小さな声で叫んだ。「そうだけど、どうかしたのかい?」
「今、学校じゃ高妻先生がまだ来てないって話になってて、しかも連絡が取れないそうなんです」
「それは本当か?」
「はい。でも私たちは学校があるから抜け出せないし」
「わかった。高妻先生の件は僕たちがなんとかする」
大宮はそう言うと、携帯を切った。
「た、高妻先生がどうかしたんですか?」
美月が不安そうな表情で尋ねる。
「今朝から行方がわからないそうです」
大宮は立ち上がった。「佐々木刑事、美月さんを頼みます」
そう言うと、大宮は駐車場に停めている自分の車へと走っていった。
「であるからして……」
皐月と信乃が真剣に勉学に励んでいる時である。
足元に気配を感じ、信乃はそちらを見やった。
「た、大変や。信乃はんに皐月はん」
妙な関西弁を話す小さな虎のような生き物が、信乃と皐月に話しかける。
「真達羅……、いま授業中。――大変って、なにが?」
周りに注意を向けながら、信乃は小声で尋ねた。
「さっき毘羯羅から連絡があってな、その高妻という先生が見つかったんや」
「それ、本当?」
信乃は驚いた表情で、皐月を見やった。十二神将の声は皐月と信乃しか聞こえていないため、ほとんどの生徒は正面を見ている。
「しかもなんや切羽詰った表情しとったで、あれはそうやな自殺する人間の目やった」
「先生、すみませんちょっと気分が悪いので保健室に行ってもいいですか?」
信乃が手を上げる。「大丈夫か? そうだな――」
「ほら、行くよ皐月」
そう言われ、皐月は席を立った。
教室を出ていく二人を、ある視線が注視していた。
「枚方さんが殺された?」
枚方義文が殺された公園のベンチに、高妻の姿があった。
彼女はボーッと虚空を見ている。
「誰に殺されたんですか?」
高妻はゆっくりと立ち上がり、階段を上がっていく。
そして、あの晩二人きりで逢った時計の下に歩み寄る。
「あぁ、そうだ。今度デートするんだっけ?」
そう呟くと、高妻は目の前の水溜りに目をやった。
「――さぁ、本当の気持ちを吐きなさい。本当はあの男をどうしたかったの?」
「そうね、自分のものにしたかったわ。でもあの人には奥さんがいるわ。素敵な」
「年老いたババァに自分は負けたのよ? 悔しくないの?」
そう言われ、高妻は頭を振った。
「悔しくなんてないわ。私は最初から利用されていたんだから。でもあんな素敵な人を旦那にもつなんて、奥さんが羨ましいわ」
カッと、高妻の目の前にいる自分は険しい表情を見せた。
「本音を言いなさい。建前なんていらない! あなたはどうして欲しかったの?」
「あの晩云われたわよね? あの人は私のことを思って――」
高妻は、自らの手で自分の首を絞め始める。
「くっ……、くるしぃ……」
「本当のことを言いなさい。あんな年老いたババァに負けて悔しいんじゃないの?」
高妻が自分の口でそう言った時である。
冷たい風が、高妻を包み込んだ。
「こ、これは?」
高妻は周りを見渡すと、妙な格好をした少女が視界に入った。
「き、貴様は誰だ?」
高妻がそう問い質した。
「パカシヌルプネクルイタッイサムクレヘ」
少女がそう告げると、人差し指を口元に近づけた。
「うっ? ぐぅ……?」
突然、高妻が苦しみだし、その場に跪く。「い、息ができない」
「あなたの周りにだけ、空気が渡らないようにした」
少女はゆっくりと、高妻に近づいた。
そして、懐から小刀を取り出し、「閻獄第三条三項において、不倫をした挙句、その相手を殺したものは『衆合地獄・脈脈断処』へと――」
少女が執行しようとした時であった。
「一刀・融」
少女と高妻のあいだを割くかのように、一陣の風が吹き荒れた。
「……皐月ちゃん?」
少女は、目の前の皐月を睨んだ。
「高妻先生、大丈夫ですか?」
巫女装束の皐月が高妻に近づいた時である。
「執行の邪魔をしないでくれる?」
少女が皐月の前に立ちはだかる。
「あなた、この前の? そこをどいて」
「あれはもう皐月ちゃんや私たちが知ってる高妻先生なんかじゃないんだよ」
少女の言葉に、皐月と信乃は驚いた表情を浮かべる。
「な、なんで高妻先生のことを知ってるのよ?」
信乃がそう尋ねると、少女はゆっくりとほっかむりを解いた。
「――えっ?」
皐月と信乃は、目の前にいる人物の正体に声が出なかった。
「か、風花さん?」
目の前にいるのは、クラスメイトの希望であった。
「な、なんであなたがこんなところに? てか、どうして執行人なんて」
「なんで? そんなの決まってる。妖怪を殺すため」
希望は冷たい表情で言い放った。
「こ、殺すためって。それじゃぁどうして執行人なんてやってるの? 言ってることとやってることがあべこべじゃない?」
「わたし《クアニ》はただ妖怪を殺したいんじゃないんだよ。わたしの大切な人を殺した妖怪に復讐するため」
冷たい口調で、希望は皐月を見やった。
「それともうひとつ、皐月ちゃんを恨んでもいるけど」
「えっ?」
皐月は、目をカッとひらく。「げぇっ? げぇほぉっ!」
突然身体全身が軋みだし、まるで握り締められたような痛みが走り出した。
「皐月、どうしたの?」
「な、なにこれ? 全身が凍りついてく?」
皐月は、ガタガタと歯を鳴らす。
「こんなんじゃぁ死なないでしょ? だって閻魔王の孫だものね。でもさぁ、わたし《クアニ》も同じことをされたんだよ」
希望は蔑んだ目で、自分の足元に横たわる皐月を見下ろす。
「同じことって……、どういうこと?」
皐月は、視界がゆっくりと霞んでいく中、目の前の希望を見上げていた。
「覚えてないの? あの日、わたし《クアニ》は信じてたんだよ。皐月ちゃんが助けに来てくれるって……。ずっと、ずっと信じて待っていたんだよ」
希望は、うっすらと涙を流した。信じていたものに裏切られ、絶望の淵に立たされた人間のような形相を皐月に向ける。
――あの時? あの時ってどういうこと?
皐月はそのまま気を失ってしまった。
希望はゆっくりと高妻を見やる。そして閻獄通知を言い渡すと、雪のように姿を消した。
「皐月っ! しっかりして皐月っ!」
声が聞こえ、皐月はゆっくりと目を開いた。
「よかった。佐々木刑事、皐月ちゃんは無事です」
大宮の声が聞こえ、皐月はそちらを見やった。
「どうして、忠治さんたちが?」
「わたしが連絡したの。でもなんであの子が?」
「それはわからないわ。私たちも信乃の話を聞いて知ったんだから」
毘羯羅がそう言うと、横たわっている高妻を一瞥する。
「気を失っているようだ。枚方殺害は彼女の仕業だろう。目が覚めて一息ついたら取り調べをはじめるよ」
高妻はタンカに乗せられ、救急車で運ばれていく。
「わたしたちも学校に戻ろ……。皐月?」
信乃がそう尋ねるが、皐月は驚いた表情を浮かべる。
「私、風花さんに何をしたって言うの?」
「あの子の言った言葉なんて狂言でしょ? いちいち気にすることじゃないんじゃない?」
皐月は信乃の言葉をかき消すかのように、激しく頭を振り乱した。
「違うっ! あの子は嘘なんて言ってなかった。私あの子になにか凄く酷いことをしてるんだ。でもなんで? なんで思い出せないの?」
震える皐月を目の前にしながら、信乃と毘羯羅はなにも出来なかった。




