陸・覆
「あぁ~、さっぱりした」
脱衣所から出てきた信乃が、タオルで髪を拭きながら出てきた。
本殿での練習を終え、汗を流すために二人で風呂に入っていたのである。
「皐月、あんた胸大きくなってない?」
「へ、変なこと言わないでよ!」
後から出てきた皐月が、驚きと恥ずかしさで頬を紅潮させる。
「うしろから胸揉むからでしょ? 何が面白いんだが」
「減るもんじゃないんだし、いいじゃないの」
そう言いながら、信乃はいたずらっぽく笑った。
「まったく……」
呆れた表情を浮かべながら、皐月は居間を見やった。
「爺様、お風呂いいよ……って、葉月、テレビに近づいて観ないの」
テレビに近づき、画面を注視している葉月に注意する。
「わしもさっきから言ってるんじゃがな。まぁさっき電話があったらしくてな、待ってれば出るんじゃから、そんなに近づかんでもいいだろと……。最近我が儘が目立って困る」
拓蔵はそう言いながら、ワンカップ酒を口に運ぶ。
「そうなんですか? 浜路が同じクラスですけど、先生の言うことは聞くし、結構優等生って聞きますよ?」
「うん。言うことは聞くんだけどね」
「聞こえてるよ。燈愛さんが出るってさっき電話で聞いたんだけど、全然出てこない」
葉月は、愚痴にも似た口調でそう言い放った。時刻は現在七時になろうとしており、番組も終わりを迎えようとしている。
「ひめ――さん?」
信乃は首をかしげながら、皐月を見やった。
「鮎川燈愛のこと。ちょっと前にいろいろあってね。多分本人から出るよって電話があったんじゃない?」
皐月がそう言うや、「もしかして、アイドル歌手の鮎川燈愛?」
「そうですけど?」
葉月が、さぞ当たり前のような口調で言う。
「ちょ、どういう経緯? 鮎川燈愛って言ったら、今じゃ若者は知らないってくらいでしょ?」
「まぁ、知り合ったのは彼女がそんなに有名じゃない時だったってのもあるけど、まさかあんなに人気が出るとは思ってなかった」
皐月は頬を指でこする。「あの時からもう燈愛さんは人気あったよ」
皐月の言葉を訂正するかのように、葉月は頬を膨らませながら言う。
皐月は、苦笑いを浮かべながら謝った。
「信乃、今日はどうするんじゃ? 実義に連絡して、ここで晩飯食らっていくか?」
「あ、いえ……このまま帰ります。宿題もしないといけませんし、体育科だったらそうでもないんですけど、あくまで普通科に通ってますから復習とかもしないと」
そう言うと、信乃は鞄を肩にかける。
「ただいまぁ」
玄関の方から声が聞こえた。「お母さんかな?」
皐月は覗き込むように玄関先を見やる。
「あら、信乃さん来てたの? お母さん、私も手伝います」
帰ってきた遼子は、居間の中を通り抜け、瑠璃がいる台所へと入っていく。
「あれ? 柑橘系の匂い?」
信乃は鼻をヒクつかせながら言った。遼子の残り香が信乃の鼻を擦ったのである。
「多分葵さんが送ってきた香水の匂いだと思うよ。たしかシトラスとかなんとか――」
「シトラスねぇ、たしか柑橘系がそうだったはず」
そう呟くと、信乃はどこかで掻いたような覚えがあった。「なんだったっけかなぁ……」
信乃が考えに耽っていると、「遼子っ! 何をやってるんですかぁ?」
突然、台所から瑠璃の喧々とした声が聞こえてきた。
「な、なんじゃ? どうした?」
拓蔵が台所に入ると、瑠璃が遼子を叱りつけている最中であった。
小学校四年生くらいの背丈しかない瑠璃に、正座で叱られている遼子の姿が、なんともシュールである。
「あなたはぁっ! 台所に入る時くらい、マニキュアを落としてからにしてくれませんか? せっかくいい値段で買えたアサリの中に洗い落としてるんです?」
瑠璃は流し台に置かれているボールを指差しながら叱りつける。中にはアサリが大量に入っているが、その水の中に、赤い塗料が入っていた。
遼子が手を洗った時にマニキュアが落ちたのである。
「まさか、こんな簡単に落ちるとは思わなくて」
「あれ? マニキュアって流水くらいじゃ取れないはずじゃ?」
「一応、ベース、カラー、トップときちんと塗ったはずなんだけどね」
遼子は首をかしげる。「その現状がこれじゃないですか?」
瑠璃が叱りつける。遼子は「すみません」
と、縮こまってしまった。結局は自分が悪いので言い返せないのである。
「まぁ、水を入れ替えればいいだけの話じゃろ?」
拓蔵がそう言うや、「今日の晩飯はアサリの酒蒸しにしようと思ったんですけど、それとアサリに浸けているのは水じゃなくて、この前あなたが貰ってきた大吟醸ですよ?」
瑠璃にそう言われ、拓蔵は唖然とする。
「なんでそれを料理なんぞに使うんじゃ?」
「ほったらかしたら一晩で飲むでしょあなたの場合! そもそも大吟醸なんてどこでもらってきたんですか?」
今度は夫婦喧嘩を始めてしまう。
そんな状況を、信乃と皐月、葉月は苦笑いを浮かべながら見ていた。
「でも、普通は落ないはずなんだけどなぁ」
「信乃さんもやったことあるんですか?」
葉月がそう尋ねる。「うちのお母さんがね」
その質問を否定するように、信乃は首を横に振った。
「多分、お母さんが使ったマニキュアって、葵さんが送ってきたやつだと思うよ。葉月、部屋に行って箱持ってきて」
そう言われ、葉月は二階へと上がっていく。
そして、マニキュアの箱を持って戻ってきた。
「えっと? このマニキュアの成分は胡粉を使用したもので、速乾性に優れており、匂いも目立ちません。ただし水性塗料であるため、アルコール消毒液や、石鹸などを使っての摩擦などで簡単に落ちてしまうためご注意ください」
信乃は箱に書かれた注意書きを読む。
「だって、お母さん」
皐月が横目で涼子を見やった。遼子はしょんぼりと料理の手伝いをしている。「いいのよ皐月。悪いのはお母さんなんだからァ」
と、譫言を吐いた。
「皐月、わたしそろそろ帰るね」
信乃は逃げるように伝える。
「うん。それじゃまた明日」
玄関先まで送ると、皐月は信乃が見えなくなるまで見送ってから母屋に入っていく。
「やっぱり、あの匂いどこかで掻いたことあるんだよなぁ」
信乃はそう思いながら、急ぎ家へと帰っていった。
「そんな……」
美月は、夫である枚方義文の部屋を整理していた。
引き出しの中から出てきたのは、クレジット会社からの領収書であり、内容は化粧品店での買い物履歴であった。
金額は、ざっと見繕って、二十万は下らない。
「こんなことを、どうして――」
美月は、夫が貢いだ相手が高妻であると直感する。はっきりとした証拠はないが、女の勘であろう。
まだ何かあるはずと、引き出しをそれこそひっくり返すと言わんばかりに調べ出した。
が、用意周到と言わんばかりに、クレジット会社からの領収書以外に目星いものは出てこない。
しかし、夫が不倫をしていたことにショックがあったというわけではなく、美月には引っかかるところがあった。
そもそも犯人が高妻だとしたら、夫が死んでいることを知っているはずだ。
それなのに、今日の昼、わざわざ生徒の携帯を借りてまで夫に電話している。
美月は、ゆっくりと夫の携帯を開いた。
そして、皐月の着信から留守番電話サーピスに接続する。
「留守番電話サーピスに接続します」
耳元でアナウンスが流れ出した。
「――えっ?」
美月は、その内容を聞くや、唖然とした。




