弐・孔雀石
「一本っ!」
福嗣高校の校内から少し離れた武道場で、審判を行っている公里という、三年の男子剣道部員が声をあげた。
「勝者、鳴狗」
「ありがとうございました」
二年と一年の男女合同で試合形式の練習をしている。
「次、黒川」
そう呼ばれ、皐月は面を被る。そして小さくため息を吐いた。
「大丈夫? 皐月」
信乃が声をかける。「ちょっとお腹んところがきつい」
元々は生理で部活は見学だったのだが、皐月の実力を知りたいと、二年の孔雀から出て欲しいとお願いされ、渋々了解してのことであった。
「まぁ、これ終わったら今日は帰っていいって言われたし」
「黒川さん、前へ」
そう呼ばれ、皐月は左手に長刀を持つ。
「あれ? 二刀じゃないの?」
信乃が首をかしげる。
「毘羯羅から、竹刀でやる時は当分のあいだ左手だけでやれって云われた」
皐月はそう言うと、試合場へと上がった。
「よろしくお願いします」
練習相手である二年の園崎と互いに一礼すると、開始線まで三歩で進み、三歩目と同時に竹刀を抜いて蹲踞(膝を折り立てて腰を落とした立膝をついた座法)の体勢に入る。
「はじめっ!」
二人が同時に立ち上がり、切っ先をぶつけ合っていく。
「しゃぁあああああああああっ!」
園崎が咆哮をあげる。面を仕掛けるが、皐月はそれを払っていく。
そして、一瞬のすきをついて、竹刀を振るった。
「――っ?」
園崎は、道着もろとも、胴体が切り落とされたと感じる。
「――胴有っ!」
公里の声が上がった。開始わずか一分も持たずに、一本目が終了する。
「くっ、公里先輩。今のは認められるんですか?」
「完全に入ってたよ。お前が反応できなかっただけだろ? ほら二本目だ」
園崎は上段に構える。皐月は左片手に中断の構え。
――さっきと同じ、胴狙いか?
そう考えながら、園崎は雄叫びをあげる。
園崎との間合いを保ちながら、皐月はゆっくりと竹刀を下段へと下げていく。
こいつ、素人だ。さっきのだって偶然勝ったに決まってる。
園崎はそう思い、面打ちに入った。
――なんだ?
園崎は一瞬、自分の頭が相手の切先へと自分から飛び込んだことに気付いた。
そして、額もろとも頭蓋骨を砕かれ、血まみれの感触に陥る。
「面有り」
公里が宣言する。
「園崎、今のはなんだ? まるで自分から打ってくださいと言わんばかりだったぞ?」
峡が叱咤する。園崎は頭を振るいながら「す、すみません」
と、皐月を見やった。
「互いに礼」
「ありがとうございました」
皐月と園崎は一礼すると、それぞれの場へと戻っていく。
「黒川さん、ちょっと」
峡にそう呼ばれ、皐月はそちらへと歩み寄る。
「今のはまるでそうなるということがわかったような一刀でしたね」
そう聞かれ、皐月は不思議に思った。
「それに、あなたの構えは基本的に下段に見せかけての脇構え。試合開始と同時に打ち込んでましたね」
峡がそう言うと、皐月は喉を鳴らす。
「どうやら、黒川さんは剣道というより、居合の方が得意のようだ。二本目の時もまるで合気道のように相手の動きに合わせて打ち込んでいる」
「相手の動きに?」
皐月は、言われて気づいた。園崎の頭に竹刀を添えたのだって、そこに打ち込めばいいと、誰かに言われた気がしたのだ。
「相手の動きをよく見ればさほど難しくはないでしょう。筋が見えるといいますか」
峡が言葉を濁らせる。「さすが、十二神将を師匠にしているだけのことはある」
「峡先生、どうかしたんですか?」
皐月が声をかけると、峡はゆっくりと頭を振るった。
「いえ、なにもありませんよ。そういえばすみませんでしたね。今日は生理で見学のはずが、孔雀くんのわがままで試合をさせてしまって」
「いえ、それじゃぁ――」
皐月が帰っていいかを尋ねようとした時だった。
武道館にバシンという音がこだました。
皐月の次に出た一年の菅流が、竹刀を落としたのである。
「くぅっ……」
「菅流、大丈夫か?」
二年の竹崎が駆け寄る。「だ、大丈夫です」
菅流はそう言いながら、落とした竹刀を持とうとするが、うまく持つことができない。
「菅流くん、あなたの手首は切り落とされた」
面を外しながら、孔雀は言い放った。
「そ、そんな……。まだ戦えます」
菅流は深呼吸すると、竹刀を手に持ち、構えなおす。
「ほら、大丈夫ですよ」
菅流は、引き攣った表情を浮かべる。
「それに、このままじゃ先輩の負けになりますよ」
「大丈夫よ。朽ちた刀に恐怖なんてないから」
ゆっくりと、孔雀は片手上段の構えを取る。
「はぁああああああああっ!」
菅流が突撃するように斬りかかった。
が、手首を動かした瞬間、激痛が走り、ふたたび竹刀を落としてしまう。
「ほら、竹刀が持てないくらい痛いでしょ? 今のあなたは小さい国語辞典すら持てないわよ」
峡は、試合を中断させ、菅流の籠手を外した。
両手首が赤々と腫れ上がっている。
「一年、テーピング」
そう言われ、救急箱の近くにいた皐月が箱を試合場へと持っていく。
峡は、箱からテープを取り出すと、菅流の両手首にテーピングしながら、「孔雀くん、少しは手を抜いたらどうだ?」
と、少しばかり呆れた表情で孔雀を見やった。
「すみません。練習とはいえ、試合となると」
孔雀は菅流に頭を下げる。
「よし。まだ痛みは走るだろうが、どうする? 今日はやめるか」
「はい――、でもこのまま見学します」
菅流はそう言うと、一年側へと下がっていった。
「あ、黒川さん。今日はもう上がっていいですよ」
峡の言葉に、事情を知っている峡と孔雀、信乃以外の部員が文句を言う。
「すみません。今日はありがとうございました」
皐月は、後ろ指を刺される感覚を持ちながら、更衣室に入っていった。
特に悪いことをしていないのだから、文句言われるのはどうかと思いながら……。
「それは、どういうことですか?」
公園の時計が夜の七時を指しているその下で、男女一組の姿があった。
男は、工事現場監督の枚方である。もう一人、女性は影で顔が認識できない。
「君との関係がバレたんだ。それに俺なんかよりもっといい男性がいるだろう」
「そんな、わたしはあなたしか」
「わかってくれ。俺には家内がいるんだ」
枚方はゆっくりと離れていく。「ちょっと待って。最後に……」
女性は、枚方を無理矢理自分の方へと向かせ、彼の唇に自分の唇を近づけていく。
「やめるんだ!」
枚方は、女性を押しのけた。
「わかっているのか? わたしたちがしてきたことは不倫なんだ」
「そんなのわかってる。あなたが結婚していることも! それでもわたしはあなたを愛しているの」
枚方は、頭を激しく振る。
「違うんだ。君に相応しいのは俺じゃない。もっと違う別の男だ」
言葉を吐き捨てると、枚方は公園の奥へと消えていく。
「ちょ、ちょっと待って……」
女性もその後を追う。
枚方が、公園の小さな階段を降り始めたところで、女性は枚方に追いついた。
「待って、私はあなたなしじゃないと」
「君もしつこいぞ!」
枚方は叱り飛ばした。「何度言えばわかる。俺は君のことを考えて別れようとしているんだ。君はもう大人だ。それくらいわかるだろ?」
「わからないわ。なんであんな年取ったババアをとるの?」
「年齢なんて関係ないさ。俺は家内を愛している。君と付き合ったことだって一時の迷いだったんだ」
「そんな、わたしはどうしたらいいの?」
「君も子供じゃないだろ? また新しい恋をすればいいじゃないか」
枚方は外方を向き、階段を下っていく。
――ゆるさない。わたしとは遊びだったというの……。
女性は、ゆっくりと階段を下りる。そして――。
枚方の背中を強く押した。
「うわぁあああああああっ!」
枚方は雄叫びをあげるとともに、ゴロゴロと転げ落ちていく。
一番下まで行った時、枚方の額から真っ赤な血が、流れるように彼の顔を染めていく。
女性は、ゆっくりと階段を下り、枚方を見やった。
枚方の顔は腫れ上がり、白目を向いている。
死んだ……。女性は直感的にそう感じた。
少し夜風が吹くや、その冷たさに、女性はハッと我に戻る。
自分は取り返しのつかないことをしてしまった。
慌てて周りを見ると、目の前に手洗い場がある。あそこで手を洗えば。
それに、さっき自分は枚方の背中を押した。その時に自分の指紋がスーツから出てしまう。
女性はカバンから小さな水筒を取り出すと、中身を流し台に捨て、水を中に入れる。
そしてその水を枚方の頭にふりかけた。
押した背中の方にも水をかける。これなら指紋が出ないはずだ。
「ちょっと、リュウ。いつも健康を考えてご飯作ってるんだから、雑草食べないの!」
聞き覚えのある声が聞こえ、女性はそちらを見る。
そして、慌てるようにその場から、声がした方とは逆の方へと逃げていった。
「こら、イチゴ。リュウの真似をしない」
飼い主の言う事を聞かず、イチゴは雑草を口に運ぶ。
犬が雑草を食べる理由としては、胃の調子を整えるという理由がある。
「健康を考えてドックフードとか餌作ってるのになぁ」
そう愚痴をこぼしながら、信乃は花壇の縁に座った。
五匹の犬は、信乃が動かないことに気づくと、その場に伏せる。言わなくても自分で判断してくれるので、信乃は助かっていた。
が、その内の一匹が、耳を頻りに動かしていた。
「どうかしたの?」
「あなたっ! どこにいるんですか?」
信乃がそう尋ねた時、どこからか女性の声が聞こえてきた。
頻りに周りを見渡しながら、叫ぶように歩いている女性が、信乃の方へと近づいてくる。
五十代くらいだろうか、熟れた女性の雰囲気があった。
「あなた、この近くで夫を見ませんでしたか?」
そう聞かれても、信乃は答えられない。
「すみません、探そうにも相手の名前や特徴が」
「そうでしたね。夫は枚方義文と言って、五十歳くらいの白髪交じりなんですが」
――枚方って、もしかして今日学校に来てた工事現場の人?
信乃がそう考えていると、手を引っ張られた気がし、そちらを見やった。
犬たちが、舌を出しながら、尻尾を振っている。
「はぁ……まぁ人探しだしね。すみません、なにかその人の私物は持っていませんか?」
「え、えっと……、ハンカチならここに」
枚方の妻である美月は、懐からハンカチを取り出す。
「ありがとうございます。ちょっとお借りしますね」
信乃は美月に頭を下げると、ハンカチを犬たちに掻かせた。
そして、五匹の首輪から紐を外し、口笛を鳴らすや、犬たちは地面に鼻を擦りつけた後、近くの公園へと入っていった。
「あっちみたいです」
信乃も、においの主を探すため、ハンカチのにおいを掻いた。
――あれ? 男性のハンカチにしては妙な感じだな。なんだろ……柑橘系?
枚方が、工事現場関係の仕事をしていることは知っていたので、ハンカチもオイルや土のにおいがすると思った。
もちろんそのにおいもしたのだが、妙に、場違いな柑橘系のにおいがしたのである。
五分後、少し離れた場所から犬の遠吠えが響き渡った。
「見つかったみたいです」
そう言いながら、信乃は公園の奥へと掛けていく。美月もそのあとを追った。
そして、犬が待っている場所に辿りつくや、美月は腰を抜かした。
「そ、そんな……! あなたっ!」
美月の目の前には、夫の亡骸が転がっている。
「一応警察に……」
信乃が携帯を取り出そうとした時、イチゴが激しく吠えた。
「どうかしたの?」
イチゴは手洗い場の方を向きながら、信乃に呼びかける。
「特に気になるところはないけど」
信乃は鼻をヒクつかせる。なにか柑橘系の匂いがした。
――さっきハンカチを掻いた時と同じにおいだ。
携帯のフラッシュを炊きながら、流し台を照らす。
すると、何かが光を反射した。
「なんだろ……これ――」
それを手に取って見てみる。砂にしてはやけに大きい小石があった。
警察が来たのは、それから五分後のことであった。




